日本史歴史江戸時代

シーボルトが長崎で開いた私塾「鳴滝塾」を歴女がわかりやすく解説

2-9、高 良斎(こうりょうさい)

当時25歳、阿波国徳島藩中老の伊蔵好直の子で眼科医の高錦国の養子。本草学を乾純水に、主に眼科を養父高錦国に学んだ後、長崎でシーボルトや吉雄権之助のもとでオランダ医学を勉強。文化9年(1826年)、シーボルトの江戸参府に随行したが、シーボルト事件に連座して一時蟄居。シーボルトの信任が篤く、二宮敬作とイネの養育を頼まれたそう。故郷に戻ったのち大坂で眼科を開業して私塾も主宰、そのかたわらで蘭書も翻訳したということ。

2-10、青木 周弼(しゅうすけ)

当時16歳、長州の村医の息子で、長州藩医、能美洞庵に医学と儒学を学んだ後、18歳で大坂に30歳で江戸で深川の坪井信道にオランダ語と臨床医学、また宇田川榛斎にも師事、のちの適塾主宰者緒方洪庵と同僚だったそう。そして弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受け、天保10年(1839年)長州藩医、天保13年(1842年)、周防医学所の教授蘭学掛に就任し、医学校の好生館設立に尽力、安政3年(1855年)、御側医に昇進。弟研藏と藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献。門人多数あり、執政で藩政改革を行った村田清風とも交流。

2-11、戸塚 静海

当時25歳、遠江掛川の医師の息子で、鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学んだ後、シーボルト事件に連座。その後、安政5年(1858年)、大槻俊斎、伊東玄朴らとお玉が池種痘所設立に尽力。同年7月3日、将軍・徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼の地位となり、伊東玄朴、坪井信道と江戸の三大蘭方医のひとり。

3-1、鳴滝塾でのシーボルトの指導は

鳴滝塾でのシーボルトの指導法の特色は、医学を臨床的、実際的に教授、そして弟子たちに各分野の課題を与えて実証的な研究を。そしてその研究結果をオランダ語でレポートにまとめたうえで討論を加えて内容を深め、それぞれの研究業績に応じてドクトル(学位)の称号を与えたということ。

ちなみに現在もオランダに残っているという高野長英の論文は、「活花の技法について」、「日本における茶樹の栽培と茶の製法」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」などで、シーボルトは、弟子たちに医学を指導するだけでなく、医学以外の動物や植物の標本、日本の文化などについての研究論文から、日本の各分野の実情を把握することもやっていたのですね。

また、シーボルトは、有能だが貧しい弟子を鳴滝塾に住み込ませたということで、特に二宮敬作については、篤実な人柄とひたむきな研究態度から、医療活動の手伝い、各種標本資料の整理、鳴滝塾の雑用などをさせて生活の援助まで。高野長英も鳴滝塾に住み込んでいたという話もあり。 

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ほほう、先生のシーボルトも教えるだけじゃなくて研究心が深かったんだな。

3-2、シーボルト事件勃発

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測量・製作:伊能忠敬[1] – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

シーボルトは、文政9年(1826年)4月、オランダ商館長の江戸参府に随行し、道中でも日本の自然を研究、地理や植生、気候、天文などについても調査。11代将軍家斉に謁見したり、江戸で学者や島津重豪、その曾孫の島津斉彬ら蘭癖大名らとも交友。そして最上徳内、幕府天文方で書物奉行の高橋作左衛門景保らと交流したが、シーボルトが文政11年(1828年)に一旦帰国するために船に積み込んだ収集品に幕府禁制の日本地図や葵の紋服があったことが問題になって、弟子たち、日本地図を渡したとされる高橋景保らも処分となり、高橋が獄死、シーボルトは文政13年(1830年)国外追放、再渡航禁止に。

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