日本史歴史江戸時代

シーボルトが長崎で開いた私塾「鳴滝塾」を歴女がわかりやすく解説

2-3、二宮 敬作

当時20歳、伊予宇和島の出身。文政2年(1819年)、医師を志して長崎へ留学し、吉雄権之助、美馬順三に師事した後、文政6年(1823年)、シーボルトの弟子に。文政9年(1826年)には、シーボルトの江戸参府旅行に同行、測量器で富士山の高度を日本で初めて測量、また、シーボルト著「日本植物誌」によれば、シーボルトは敬作が九州の高山で採取した植物に「ケイサキイアワモチ」と命名したそう。シーボルトは敬作を可愛がり、薬草採集などによく伴ったということ。文政11年(1828年)にシーボルト事件が起きてシーボルトが長崎を去るときも、敬作は弟子の高良斉と漁師に変装して小舟でシーボルトを見送り、シーボルトの娘イネの養育を頼まれたということ。

その後、敬作はシーボルト事件で半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止と長崎追放で、宇和島に戻って町医者となり、イネを呼び寄せて蘭学を教え産科医となるよう指導、宇和島藩主伊達宗城にも引き合わせたということで、安政6年(1859年)シーボルト再来日で再会し、シーボルトの息子アレクサンダーに日本語を教えたりしたということ。

2-4、岡 研介(けんかい)

当時25歳、長州の村医の息子。麻郷村の医家志熊氏に漢籍を学んだ後、文化14年(1817年)には蘭学者中井厚沢の門に入り、後藤松眠にも学んだそう。文政2年(1819年)、萩で開業医となったが、文政3年(1820年)豊後日田で広瀬淡窓に2年ほど、福岡の亀井昭陽の門で1年半、そして文政7年(1824年)に長崎でシーボルトに6年余り師事し、シーボルトの信頼を勝ち得て、美馬順三とともに鳴滝塾の最初の塾長に。

文政13年(1830年)、大坂で開業したが、天保3年(1832年)一旦帰郷、岩国藩当主吉川経礼の侍医に。翌年、大坂で幻覚的被害妄想的精神疾患にかかり、長州に帰郷して静養したが、天保10年(1839年)41歳で死去。

2-5、美馬順三(みま)

当時30歳、阿波の国出身で蜂須賀家家老の用人の次男。長崎通詞中山作三郎にオランダ語と天文学を学んでいたが、シーボルトに見込まれて入門、最初の鳴滝塾の塾頭、週一で鳴滝塾にやって来て講義するシーボルトに対し、代講は美馬と岡研介だったそう。また、賀川玄悦著「産論」,石坂宗哲著「鍼灸知要一言」などについての要旨をオランダ語に翻訳。これをシーボルトは日本医学の業績として西洋医学界に紹介、また、シーボルト著「日本」の古代史編の史料は、美馬の「日本書紀神武天皇紀」によるということ。しかし文政8年(1825年)、31歳でコレラで死去。

2-6、伊東 玄朴(げんぼく)

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不明 – 伊東栄『伊東玄朴伝』(玄文社、1916年), パブリック・ドメイン, リンクによる

当時24歳、肥後出身。鳴滝塾でシーボルトにオランダ医学を学び、文化8年(1826年)4月、オランダ商館長の江戸参府でシーボルトが江戸へ行く際に伊東も一緒に江戸へ向かったが、そのまま江戸に留まり佐賀藩医の身分となって蘭学医たちと交流し、文政11年(1828年)のシーボルト事件では連座を免れたということ。

嘉永2年(1849年)には佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言、オランダ商館を通して入手し、これがその後全国に広まったそう。安政5年(1858年)5月、玄朴は大槻俊斎、戸塚静海らと江戸にお玉が池種痘所を開設。そして同年7月3日、13代将軍家定の脚気による重態に際して、漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に。蘭方内科医が奥医師となったのは、伊東と戸塚が最初で、玄朴はこの機を逃さず蘭方医の拡張をもくろみ、伊東寛斎、竹内玄同も増員。さらにコレラ流行を利用して、松本良甫、吉田収庵、伊東玄圭らの採用を申請。また文久元年(1861年)種痘所は西洋医学所に改名され、玄朴は取締役に。そして蘭方医として初めて法印(将軍の御匙に与えられる僧位)となり、名実ともに蘭方医の頂点に。しかし文久3年(1864年)松本良順の弾劾で失脚。

2-7、石井 宗謙

当時28歳、備前岡山出身。美作国真嶋郡旦土村(2005年からは岡山県真庭市)の医者の子。1810年に父を亡くしたが医学を修めたということで、文政6年(1823年)から長崎へ行きシーボルトの鳴滝塾へ。シーボルトに「日本産昆虫図説」「日本産蜘蛛図説」「鯨の記」などのオランダ語訳を頼まれるほど優れた語学力があったということ。

天保3年(1832年)から美作勝山藩の藩医になったが、その後は備前国岡山(岡山市)で開業。弘化2年(1845年)、二宮敬作の勧めでシーボルトの娘、楠本イネを預かり、産科医としての技術や知識を7年にわたって教えたが、嘉永5年(1852年)、イネは宗謙との子の高子を産むはめに。高子の手記によれば、この妊娠は強姦によるもので、また師匠の娘に手を出すなどあってはならぬこととして宗謙は、シーボルト時代の同窓から破門同然の制裁を受けたということ。

2-8、伊藤 圭介

当時21歳、尾張出身で町医者の息子。文政3年(1820年)、町医者を開業後、京都に遊学して藤林泰助に蘭学を学んだ後、文政10年(1827年)シーボルトに本草学を学び、翌年、シーボルトにツンベルクの「日本植物誌」を譲られて名古屋に帰郷、文政12年(1829年)、翻訳して「泰西本草名疏」を刊行。

その後は尾張藩の種痘法取調となり、文久元年(1861年)には幕府の蕃書調所物産所出役となり、明治後も明治政府に仕えて、明治14年(1881年)、東京大学教授に就任して明治21年(1888年)、日本初の理学博士となったということ。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作ったのはこの人だそう。

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