今回は鳴滝塾を取り上げるぞ。江戸時代に長崎へ来たシーボルトが開いた塾のことだよな、どんな塾生が集まったのかとか、詳しく知りたいよな。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、鳴滝塾について5分でわかるようにまとめた。

1-1、鳴滝塾とは

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鳴滝塾(なるたきじゅく)は、文政6年(1823年)に来日し、鎖国していた日本の対外貿易の窓口、長崎出島のオランダ商館医となったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、文政7年(1824年)、出島の外の鳴滝に開設した私塾のことで、診療所も兼用していたということ。

1-2、シーボルト来日

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川原慶賀 - 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, リンクによる

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ドイツのヴュルツブルク(現在のドイツ連邦バイエルン州)で誕生。オランダ商館に務めて訛りのあるオランダ語を使っていたが、じつはドイツ人だったのは有名。ドイツ語読みではジーボルトだが、本人は「シーボルト」と発音したそう。

シーボルト家は当時のドイツ医学界の名門一家で、医学教授などを多数輩出。シーボルトが1歳のとき父が亡くなったために母方の叔父が養育。1815年、シーボルトはヴュルツブルク大学に入学後、親類の意見に従って医学を学び、大学在学中は解剖学の教授デリンガー家のもとで医学のほか、動物学、植物学、地理学などを学んだということ。シーボルトは外科、産科、内科の博士号を取得し卒業後に東洋研究を志し、1822年、オランダ国王ヴィレム1世の侍医の斡旋でオランダ領インド陸軍病院の外科少佐に。

そして1823年4月にジャワ島、6月に長崎へ、27歳で出島のオランダ商館医に。来日後、日本女性の楠本瀧との間に文政10年(1827年)、娘イネが誕生。

2-1、鳴滝塾の塾生たち

シーボルトは長崎奉行、オランダ商館などに、博学の医者が来るとまさに鳴り物入りで迎えられ、出島の外にも出て医療活動を行ったということで、治療を受けたい患者さんや医学を学びたい蘭方医の羨望の的に。

シーボルトの講義と治療は、最初は出島のオランダ商館内だったが、だんだんと評判が高まると患者や入門希望者が増えてきたため、オランダ商館では手狭になり、文政7年(1824年)に高島秋帆の仲介で、長崎奉行高橋越前守重賢の許可を受け、長崎郊外の鳴滝に塾を開塾、門下生の指導や患者の診療に当たることに。鎖国の時代に外国人が出島の外に出ることや薬草採集が許可されたのは、破格の待遇だったそう。鳴滝塾出身の主な塾生を挙げてみました。

2-2、高野長英

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椿椿山 - 高野長英記念館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時20歳、水沢伊達家家臣の3男。鳴滝塾では塾頭。シーボルトが持ち帰ったシーボルト文書の中に、弟子たちが提出したオランダ語の論文42点のなかに、長英の論文はそのうち11点もあるそう。

文政11年(1828年)のシーボルト事件では、旅行に出ていて難を逃れた説と、いち早く脱出したという説があるが、事件で処罰を受けずに肥後へ。その後は広瀬淡窓に弟子入りし、天保元年(1830年)には江戸麹町で町医者となり蘭学塾を開業。そして三河田原藩の家老渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として小関三英、鈴木春山と蘭学書を翻訳。天保8年(1837年)モリソン号事件が起きた後、渡辺崋山らと幕府の対応を批判したことから、蛮社の獄で長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説も)、終身刑の判決で伝馬町牢屋敷に収監。

弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄して逃亡。その後鳴滝塾の同門二宮敬作のつてで伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、兵法書などの蘭学書の翻訳、宇和島藩の兵備の洋式化に尽力。しばらくのちに江戸に戻り、「沢三伯」の偽名で町医者を開業。硝酸で顔を焼いて人相を変えていたが、密告されて捕縛、護送途中で絶命。

逸話としては、鳴滝塾出身者の集まりで、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりで酒を飲み、多くの者はつい日本語が出て罰金になったが、長英はオランダ語を使い続けたので、仲間の伊東玄朴が長英を階段から突き落としたが、長英は危ないとオランダ語で叫んだという話があるそう。長英自身が才能を鼻にかける性格で仲間内の評判が悪い人だったが、実力は当時の蘭学者の最高峰だったということ。

\次のページで「2-3、二宮 敬作」を解説!/

2-3、二宮 敬作

当時20歳、伊予宇和島の出身。文政2年(1819年)、医師を志して長崎へ留学し、吉雄権之助、美馬順三に師事した後、文政6年(1823年)、シーボルトの弟子に。文政9年(1826年)には、シーボルトの江戸参府旅行に同行、測量器で富士山の高度を日本で初めて測量、また、シーボルト著「日本植物誌」によれば、シーボルトは敬作が九州の高山で採取した植物に「ケイサキイアワモチ」と命名したそう。シーボルトは敬作を可愛がり、薬草採集などによく伴ったということ。文政11年(1828年)にシーボルト事件が起きてシーボルトが長崎を去るときも、敬作は弟子の高良斉と漁師に変装して小舟でシーボルトを見送り、シーボルトの娘イネの養育を頼まれたということ。

その後、敬作はシーボルト事件で半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止と長崎追放で、宇和島に戻って町医者となり、イネを呼び寄せて蘭学を教え産科医となるよう指導、宇和島藩主伊達宗城にも引き合わせたということで、安政6年(1859年)シーボルト再来日で再会し、シーボルトの息子アレクサンダーに日本語を教えたりしたということ。

2-4、岡 研介(けんかい)

当時25歳、長州の村医の息子。麻郷村の医家志熊氏に漢籍を学んだ後、文化14年(1817年)には蘭学者中井厚沢の門に入り、後藤松眠にも学んだそう。文政2年(1819年)、萩で開業医となったが、文政3年(1820年)豊後日田で広瀬淡窓に2年ほど、福岡の亀井昭陽の門で1年半、そして文政7年(1824年)に長崎でシーボルトに6年余り師事し、シーボルトの信頼を勝ち得て、美馬順三とともに鳴滝塾の最初の塾長に。

文政13年(1830年)、大坂で開業したが、天保3年(1832年)一旦帰郷、岩国藩当主吉川経礼の侍医に。翌年、大坂で幻覚的被害妄想的精神疾患にかかり、長州に帰郷して静養したが、天保10年(1839年)41歳で死去。

2-5、美馬順三(みま)

当時30歳、阿波の国出身で蜂須賀家家老の用人の次男。長崎通詞中山作三郎にオランダ語と天文学を学んでいたが、シーボルトに見込まれて入門、最初の鳴滝塾の塾頭、週一で鳴滝塾にやって来て講義するシーボルトに対し、代講は美馬と岡研介だったそう。また、賀川玄悦著「産論」,石坂宗哲著「鍼灸知要一言」などについての要旨をオランダ語に翻訳。これをシーボルトは日本医学の業績として西洋医学界に紹介、また、シーボルト著「日本」の古代史編の史料は、美馬の「日本書紀神武天皇紀」によるということ。しかし文政8年(1825年)、31歳でコレラで死去。

2-6、伊東 玄朴(げんぼく)

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不明 - 伊東栄『伊東玄朴伝』(玄文社、1916年), パブリック・ドメイン, リンクによる

当時24歳、肥後出身。鳴滝塾でシーボルトにオランダ医学を学び、文化8年(1826年)4月、オランダ商館長の江戸参府でシーボルトが江戸へ行く際に伊東も一緒に江戸へ向かったが、そのまま江戸に留まり佐賀藩医の身分となって蘭学医たちと交流し、文政11年(1828年)のシーボルト事件では連座を免れたということ。

嘉永2年(1849年)には佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言、オランダ商館を通して入手し、これがその後全国に広まったそう。安政5年(1858年)5月、玄朴は大槻俊斎、戸塚静海らと江戸にお玉が池種痘所を開設。そして同年7月3日、13代将軍家定の脚気による重態に際して、漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に。蘭方内科医が奥医師となったのは、伊東と戸塚が最初で、玄朴はこの機を逃さず蘭方医の拡張をもくろみ、伊東寛斎、竹内玄同も増員。さらにコレラ流行を利用して、松本良甫、吉田収庵、伊東玄圭らの採用を申請。また文久元年(1861年)種痘所は西洋医学所に改名され、玄朴は取締役に。そして蘭方医として初めて法印(将軍の御匙に与えられる僧位)となり、名実ともに蘭方医の頂点に。しかし文久3年(1864年)松本良順の弾劾で失脚。

2-7、石井 宗謙

当時28歳、備前岡山出身。美作国真嶋郡旦土村(2005年からは岡山県真庭市)の医者の子。1810年に父を亡くしたが医学を修めたということで、文政6年(1823年)から長崎へ行きシーボルトの鳴滝塾へ。シーボルトに「日本産昆虫図説」「日本産蜘蛛図説」「鯨の記」などのオランダ語訳を頼まれるほど優れた語学力があったということ。

天保3年(1832年)から美作勝山藩の藩医になったが、その後は備前国岡山(岡山市)で開業。弘化2年(1845年)、二宮敬作の勧めでシーボルトの娘、楠本イネを預かり、産科医としての技術や知識を7年にわたって教えたが、嘉永5年(1852年)、イネは宗謙との子の高子を産むはめに。高子の手記によれば、この妊娠は強姦によるもので、また師匠の娘に手を出すなどあってはならぬこととして宗謙は、シーボルト時代の同窓から破門同然の制裁を受けたということ。

2-8、伊藤 圭介

当時21歳、尾張出身で町医者の息子。文政3年(1820年)、町医者を開業後、京都に遊学して藤林泰助に蘭学を学んだ後、文政10年(1827年)シーボルトに本草学を学び、翌年、シーボルトにツンベルクの「日本植物誌」を譲られて名古屋に帰郷、文政12年(1829年)、翻訳して「泰西本草名疏」を刊行。

その後は尾張藩の種痘法取調となり、文久元年(1861年)には幕府の蕃書調所物産所出役となり、明治後も明治政府に仕えて、明治14年(1881年)、東京大学教授に就任して明治21年(1888年)、日本初の理学博士となったということ。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作ったのはこの人だそう。

\次のページで「2-9、高 良斎(こうりょうさい)」を解説!/

2-9、高 良斎(こうりょうさい)

当時25歳、阿波国徳島藩中老の伊蔵好直の子で眼科医の高錦国の養子。本草学を乾純水に、主に眼科を養父高錦国に学んだ後、長崎でシーボルトや吉雄権之助のもとでオランダ医学を勉強。文化9年(1826年)、シーボルトの江戸参府に随行したが、シーボルト事件に連座して一時蟄居。シーボルトの信任が篤く、二宮敬作とイネの養育を頼まれたそう。故郷に戻ったのち大坂で眼科を開業して私塾も主宰、そのかたわらで蘭書も翻訳したということ。

2-10、青木 周弼(しゅうすけ)

当時16歳、長州の村医の息子で、長州藩医、能美洞庵に医学と儒学を学んだ後、18歳で大坂に30歳で江戸で深川の坪井信道にオランダ語と臨床医学、また宇田川榛斎にも師事、のちの適塾主宰者緒方洪庵と同僚だったそう。そして弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受け、天保10年(1839年)長州藩医、天保13年(1842年)、周防医学所の教授蘭学掛に就任し、医学校の好生館設立に尽力、安政3年(1855年)、御側医に昇進。弟研藏と藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献。門人多数あり、執政で藩政改革を行った村田清風とも交流。

2-11、戸塚 静海

当時25歳、遠江掛川の医師の息子で、鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学んだ後、シーボルト事件に連座。その後、安政5年(1858年)、大槻俊斎、伊東玄朴らとお玉が池種痘所設立に尽力。同年7月3日、将軍・徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼の地位となり、伊東玄朴、坪井信道と江戸の三大蘭方医のひとり。

3-1、鳴滝塾でのシーボルトの指導は

鳴滝塾でのシーボルトの指導法の特色は、医学を臨床的、実際的に教授、そして弟子たちに各分野の課題を与えて実証的な研究を。そしてその研究結果をオランダ語でレポートにまとめたうえで討論を加えて内容を深め、それぞれの研究業績に応じてドクトル(学位)の称号を与えたということ。

ちなみに現在もオランダに残っているという高野長英の論文は、「活花の技法について」、「日本における茶樹の栽培と茶の製法」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」などで、シーボルトは、弟子たちに医学を指導するだけでなく、医学以外の動物や植物の標本、日本の文化などについての研究論文から、日本の各分野の実情を把握することもやっていたのですね。

また、シーボルトは、有能だが貧しい弟子を鳴滝塾に住み込ませたということで、特に二宮敬作については、篤実な人柄とひたむきな研究態度から、医療活動の手伝い、各種標本資料の整理、鳴滝塾の雑用などをさせて生活の援助まで。高野長英も鳴滝塾に住み込んでいたという話もあり。 

3-2、シーボルト事件勃発

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測量・製作:伊能忠敬[1] - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

シーボルトは、文政9年(1826年)4月、オランダ商館長の江戸参府に随行し、道中でも日本の自然を研究、地理や植生、気候、天文などについても調査。11代将軍家斉に謁見したり、江戸で学者や島津重豪、その曾孫の島津斉彬ら蘭癖大名らとも交友。そして最上徳内、幕府天文方で書物奉行の高橋作左衛門景保らと交流したが、シーボルトが文政11年(1828年)に一旦帰国するために船に積み込んだ収集品に幕府禁制の日本地図や葵の紋服があったことが問題になって、弟子たち、日本地図を渡したとされる高橋景保らも処分となり、高橋が獄死、シーボルトは文政13年(1830年)国外追放、再渡航禁止に。

\次のページで「3-3、鳴滝塾の跡」を解説!/

3-3、鳴滝塾の跡

現在は残っていないが、塾の建物は木造2階建てで書庫などがあり、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されていたということで、シーボルトは出島から塾まで、週一くらいの頻度で通って講義や診療活動を。

尚、シーボルト帰国後、鳴滝塾の建物はお瀧とイネに残されて住んでいたが、お瀧が再婚後に私塾の跡地を売却。安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約締結で追放令が解除された翌年、オランダ貿易会社顧問として再来日したシーボルトは、荒れ果てた鳴滝塾の跡地を見て悲しみ、貿易会社の仕事をする一方で鳴滝の住居を買い戻して住んだということ。

そしてシーボルト帰国後は、娘の楠本イネが保存に尽力、大正11年(1922年)、シーボルト宅跡の名称で国の史跡に指定され、平成元年(1989年)、隣接地にシーボルト記念館が開館。

蘭学医が集まり、シーボルトの指導を受けた塾

鳴滝塾は、シーボルト来日を聞いて日本中から集まった蘭学医たちが指導を受けた塾。その後のポンぺの行った体系的な医学校ほどではなかったが、本物のヨーロッパの名門医学部出身のシーボルトの指導が行われたのですから、蘭学書を読むだけの日本の蘭学医にとってシーボルトは神のごとき存在で、彼の弟子たちは高野長英をはじめ、高名な蘭学者に成長。

また、シーボルトは優秀な弟子たちに、自分の研究のための植物や動物を採集させたり研究論文を書かせたりしたが、それはスパイというよりも、自然科学への関心の深さと、ヨーロッパにおける日本研究の先駆けとなるためのどん欲な資料収集だったはず。

そして何よりも弟子の二宮敬作が、シーボルト先生の忘れ形見のイネを心底慈しんで産科医に指導して育てたことは、シーボルトが鳴滝塾で行った弟子たちとの交流、功績が表面的ではなかったことをあらわしているのでは。

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日本史歴史江戸時代

シーボルトが長崎で開いた私塾「鳴滝塾」を歴女がわかりやすく解説

今回は鳴滝塾を取り上げるぞ。江戸時代に長崎へ来たシーボルトが開いた塾のことだよな、どんな塾生が集まったのかとか、詳しく知りたいよな。

その辺のところを蘭学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、鳴滝塾について5分でわかるようにまとめた。

1-1、鳴滝塾とは

image by PIXTA / 13262897

鳴滝塾(なるたきじゅく)は、文政6年(1823年)に来日し、鎖国していた日本の対外貿易の窓口、長崎出島のオランダ商館医となったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、文政7年(1824年)、出島の外の鳴滝に開設した私塾のことで、診療所も兼用していたということ。

1-2、シーボルト来日

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川原慶賀 – 近世の肖像画(Japanese Portraits of the Early Modern Period) 佐賀県立美術館 1991年, パブリック・ドメイン, リンクによる

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ドイツのヴュルツブルク(現在のドイツ連邦バイエルン州)で誕生。オランダ商館に務めて訛りのあるオランダ語を使っていたが、じつはドイツ人だったのは有名。ドイツ語読みではジーボルトだが、本人は「シーボルト」と発音したそう。

シーボルト家は当時のドイツ医学界の名門一家で、医学教授などを多数輩出。シーボルトが1歳のとき父が亡くなったために母方の叔父が養育。1815年、シーボルトはヴュルツブルク大学に入学後、親類の意見に従って医学を学び、大学在学中は解剖学の教授デリンガー家のもとで医学のほか、動物学、植物学、地理学などを学んだということ。シーボルトは外科、産科、内科の博士号を取得し卒業後に東洋研究を志し、1822年、オランダ国王ヴィレム1世の侍医の斡旋でオランダ領インド陸軍病院の外科少佐に。

そして1823年4月にジャワ島、6月に長崎へ、27歳で出島のオランダ商館医に。来日後、日本女性の楠本瀧との間に文政10年(1827年)、娘イネが誕生。

2-1、鳴滝塾の塾生たち

シーボルトは長崎奉行、オランダ商館などに、博学の医者が来るとまさに鳴り物入りで迎えられ、出島の外にも出て医療活動を行ったということで、治療を受けたい患者さんや医学を学びたい蘭方医の羨望の的に。

シーボルトの講義と治療は、最初は出島のオランダ商館内だったが、だんだんと評判が高まると患者や入門希望者が増えてきたため、オランダ商館では手狭になり、文政7年(1824年)に高島秋帆の仲介で、長崎奉行高橋越前守重賢の許可を受け、長崎郊外の鳴滝に塾を開塾、門下生の指導や患者の診療に当たることに。鎖国の時代に外国人が出島の外に出ることや薬草採集が許可されたのは、破格の待遇だったそう。鳴滝塾出身の主な塾生を挙げてみました。

2-2、高野長英

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椿椿山 – 高野長英記念館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時20歳、水沢伊達家家臣の3男。鳴滝塾では塾頭。シーボルトが持ち帰ったシーボルト文書の中に、弟子たちが提出したオランダ語の論文42点のなかに、長英の論文はそのうち11点もあるそう。

文政11年(1828年)のシーボルト事件では、旅行に出ていて難を逃れた説と、いち早く脱出したという説があるが、事件で処罰を受けずに肥後へ。その後は広瀬淡窓に弟子入りし、天保元年(1830年)には江戸麹町で町医者となり蘭学塾を開業。そして三河田原藩の家老渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として小関三英、鈴木春山と蘭学書を翻訳。天保8年(1837年)モリソン号事件が起きた後、渡辺崋山らと幕府の対応を批判したことから、蛮社の獄で長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説も)、終身刑の判決で伝馬町牢屋敷に収監。

弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄して逃亡。その後鳴滝塾の同門二宮敬作のつてで伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、兵法書などの蘭学書の翻訳、宇和島藩の兵備の洋式化に尽力。しばらくのちに江戸に戻り、「沢三伯」の偽名で町医者を開業。硝酸で顔を焼いて人相を変えていたが、密告されて捕縛、護送途中で絶命。

逸話としては、鳴滝塾出身者の集まりで、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりで酒を飲み、多くの者はつい日本語が出て罰金になったが、長英はオランダ語を使い続けたので、仲間の伊東玄朴が長英を階段から突き落としたが、長英は危ないとオランダ語で叫んだという話があるそう。長英自身が才能を鼻にかける性格で仲間内の評判が悪い人だったが、実力は当時の蘭学者の最高峰だったということ。

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