各戦国大名が領土拡大や支配圏を伸ばすために戦が盛んに行われて、如何にして兵を減らさずに勝利を収めることが出来るかを知恵を絞り兵を動員していたでしょうな。しかし領土拡大を目指していた大名や国人達ばかりではなく、自国繁栄のために防衛に徹して攻めの戦を行ず勢力のある大名下で活動していた者達も少ないでしょうがいたのでしょうな。

今回はお金だけのために大名達へ加担して勝利をもたらすことが多かった傭兵部隊の一つを歴史マニアである歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

当時は味方になれば勝利するとまでいわれていた雑賀衆がどのようにして屈強な部隊となっていったかを紹介していく。

雑賀衆結成

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紀伊国の地侍達によって結成されたことが始まりのようです。

紀伊国の小さな郷

雑賀衆は紀伊国の小さな五つの郷が集まり結成されていくことになります。五つの郷とは十ヶ郷・雑賀庄・中郷・宮郷・南郷のことで、この郷を総称して雑賀地方と呼ばれていました。雑賀地方は壮園といい朝廷などから関与されることがあまり無い地域だったため、独立的な勢力をそれぞれ持っていたようです。

そしてそれぞれの郷に、頭となる鈴木氏・土橋氏・栗村氏・島村氏・宮本氏・松江氏が主として郷を支配していました。当時の守護代だった畠山氏なども支配に乗り出そうとしていましたが、制圧することが出来ずにいたようです。

この五つの郷が合わさり、地方の名前をとり結成されたのが雑賀衆でした。

自立性の高い人達が育つ

朝廷や守護代からも支配されなかった独立した勢力の雑賀衆は、平民達の自立性を高めていく教育をしていき惣国を作っていきました。惣国は法律制度や税を取り締まる仕組みなども頭目と協議し統治共同体として、一国規模で活動を進めていき物事は全て惣国で管理をしていきます。

これによって団結力が深まっていき、戦の度に全員で協力をして自身達の力を発揮していきました。このことから大名と同様規模の政務が行われていたと思われ、反感が無いようにそれぞれの意見を出し合い争うことなく解決出来る人物が多数いたことでしょう。

こういったことが為されたことで、傭兵部隊として活動が出来るようになった理由の一つだと思われます。

十五世紀の文献に初めて登場

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雑賀衆の名前が初めて登場するのが、1535年6月に書かれたとする私心記で本願寺の内情と一向一揆が行われた時に援軍として本願寺勢に加わっていく様子が書かれています。その他にも京へも近かったことから、畿内の大名にも援軍を出していたようで活躍したか不明ですが文献に記載があることを考えると力をもっていた部隊だったと思いました。

本願寺指導者の一人だった証如は雑賀衆の活躍に敬意を表し感謝状を贈っていることが確認されています。この時に本願寺との関わりが深まっていき信仰する者達が増えていき、本願寺勢に加担することが増えていったのだと思われました。

鉄砲伝来によって精鋭化

本願寺への支援が一旦終了したところに、種子島でポルトガル人が漂着したことで他国の最新武器が日本へ流れ込んでいきました。

中国船漂着

天文十二年8月25日に日本の最南端に位置していた大隅国に属していた種子島に、大型の中国船が嵐の影響によって漂着してしまいました。大型船だったこともあり漂着した場所は、騒ぎとなっており情報を聞きつけた島津氏の家臣だった種子島時堯がその場に駆けつけていきます。

他国の者といえども中国の者であれば、多少言葉が通じると思った時堯は書状を書いて乗船していた中国人に渡していきました。すると南蛮商人が乗船していたことが分かると供に、鉄砲なるものが船に積み込まれていて扱い方を聞いていきます。

鉄砲に興味を抱いた時堯は大金を叩いて商人から買い取りました。

\次のページで「鉄砲の生産」を解説!/

鉄砲の生産

種子島に偶然、船が漂着したことで新しい武器が伝来し時堯は早速鉄砲を製造するべく鍛冶屋に依頼していき作業に取りかからせていきました。しかし鉄砲を分解していくと見たことの無い物が多く使われていて、どうにか似せて作り進めていきましたが一つだけ作ることができなかったようです。

多くの鍛冶屋が悩んでしまいましたが、偶然にも製造方法を熟知していた者が中国船に乗船してたためその者から製造を学び日本で最初の鉄砲を作り上げていきました。これを複製するべく鍛冶屋に製造方法を伝達させていき、わずか一年足らずで鉄砲を十挺を作り上げ量産化することに成功していきます。

根来寺が銃を欲する

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時堯はポルトガル商人から鉄砲を二挺買い、一挺は量産するために鍛冶屋へと渡していき残りの一挺は津田氏の祖にもつ津田算長が根来寺まで持ち帰りました。根来寺に持ち帰った後に鍛冶屋の芝辻清右衛門が伝来してから二年後の1545年に第一号を作成します。

この紀州で一番最初に作られたことで、紀州一号と名付けられました。清右衛門が鉄砲の製造方法が確立したことで、多くの鍛冶屋で複製されていき鉄砲の生産国で有名な土地となっていきます。

紀州だけでなく堺でも清右衛門によって、鉄砲製造が広まっていき鉄砲生産国有数の場所となっていきました。

織田家との戦い

桶狭間で今川氏を破っていた織田家は、隣国大名と争い支配権を徐々に伸ばしていったところで雑賀衆と衝突していきました。

三好三人衆と足利義昭

織田信長と初めて争っていく戦が事の発端となっていくのが、室町幕府将軍だった足利義昭が自身の危機を感じたことで幕府に貢献していた三好三人衆を京から追放したことからでした。報復を考えた三好三人衆は1569年に義昭を襲撃するも織田家臣の明智光秀により防がれてしまいます。

義昭へ報復する直前に織田家に反抗していた浅井家・朝倉家・石山本願寺と通じて同盟を結んでいき摂津中嶋に城を築き戦支度を整えていきました。本戦が始まる前に三好家に縁がある安宅信康が雑賀衆に援軍を依頼し主に雑賀衆の指揮を執っていた雑賀重秀らが三好三人衆側に味方していきます。

三好三人衆軍の攻撃によって戦が始まっていくと、火縄銃を改良した物を使用して激しい銃撃戦が行われていきました。

\次のページで「雑賀衆同士での争い」を解説!/

雑賀衆同士での争い

激しい銃撃戦が行われていたことを考えると雑賀衆には多くの鉄砲を装備した部隊と化していたことでしょう。信長公記には雑賀衆の一部と雑賀衆と似た組織だった根来衆が、織田軍に味方しており雑賀衆内部も一枚岩ではないことが分かります。

地形に利がある三好三人衆軍がやや優勢となっていき、浅井氏が織田軍後方を突いていき危機を感じた信長は全軍に京へ帰還するよう指令を出し三好三人衆軍の勝利という形で戦を終えていきました。その後は志賀の陣へと発展し天候の影響などもあり両軍にて和睦を朝廷仲介の下で行われていきます。

しかし反信長派の有力大名だった武田信玄が亡くなってしまいました。

石山合戦

野田福島城の戦いから二年後に朝倉・浅井家が滅ぼされ、反信長派が少なくなっていく状況で越前国や加賀国で一揆が発生し織田領から一向宗の領土へと変わっていきました。これに同調していくのが、本願寺の宗主だった顕如。

そして長島と越前と石山の三拠点で織田軍と交戦をする形となっていますが、それぞれ独立した国だったため連携に不安がある状況でした。この形を見抜いていた信長はまず長島を制圧するために兵を率いていき兵糧攻めを行っていくと、一揆衆の指導者だった顕忍は降伏を選択していきます。

ところが信長は降伏を認めず、一揆衆がいる場所の周りを柵で囲み火あぶりにしていきました。この時も本願寺側として戦に参加していた記録が残っていますが、顕如が和睦を進めていくことになり活躍に関しては分かってはおりません。

二度に渡る紀州征伐

信長の支配力が強まっていき一枚岩ではなかった雑賀衆は、本願寺と共に追い込まれていくことになります。

雑賀衆分裂

何度も苦戦を強いられている本願寺を打倒するべく動き出していく信長は、傭兵部隊だった雑賀衆を排除していこうとします。鉄砲に秀でている雑賀衆と正面から衝突していくと兵力を削られてしまいかねないと思い信長は雑賀衆を分裂させるために調略活動を開始していきました。

調略の影響によって中郷・宮郷・南郷の三つ郷が信長側に周り、残す十ヶ郷・雑賀庄は1577年に紀伊国に侵攻してきた織田軍と交戦していくことになります。兵を率いて攻め込んで来るのは信長嫡男の織田信忠で16日には隣国だった和泉国に到着し攻撃が開始されたのが翌日の17日でした。

紀州征伐開始

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織田軍の兵力は十万二及んでいて雑賀衆は二万程度の兵しかおらずまともに戦っては勝ち目が無いと判断していたため貝塚に攻撃が向いた時に海路まで撤退していました。この動きを17日に確認した織田軍は、二手に分かれて雑賀衆の本城だった雑賀城を目指していきます。

雑賀衆は支城として中野城を前線とし、雑賀城を中心に北と南に砦を設置し川岸には柵を取りつけ防衛の構えをとっていきました。二手に分かれた織田勢は中野城を包囲していき織田軍の工作行動が開始されたことで、中野城は開城して重秀の居館を攻撃し制圧していきます。

\次のページで「信長にひれ伏す」を解説!/

信長にひれ伏す

他国が進行して来る機会が少なく地形に利のあった雑賀衆が河を渡れないよう河底に槍や壺など沈め船の運航を阻害し、河を渡り切っても湿地帯に足を取られてしまい思うように兵を進めることが出来ません。織田勢が足を取られている隙に頭上から鉄砲を二段構えで撃ちつけ織田軍に損害を与えていきます。

その後は白兵戦が続き優勢だったと思われるが、兵の疲れもあり重秀を筆頭に七名が連署して誓紙状を信長に差し出し降伏していきました。信長に降伏後は織田軍に加担した三つ郷長へ報復するために、兵を動員していきます。

信長との和睦成立

まず報復する対象として南郷の土豪を責め立てていき、撃破していくと織田軍の佐久間信盛が七万から八万の軍勢を率いて紀伊国に攻め込んできましたが制圧されることなく守り切っていきました。南郷と中郷は重秀率いる雑賀衆に復帰し、残る宮郷だけとなり居城だった太田城を包囲していきます。

しかし一か月包囲しても落城にまで至らず、宮郷の太田氏と和睦を結び停戦という形で雑賀衆同士の争いに幕が閉じました。雑賀衆で争っている間に信長側に居た南郷に属していた者達が、信長の手で排除されていきます。

そして信長と同盟を結んでいくことになった雑賀衆は、重秀と土橋守重の関係が悪化していき信長に了承を得た形で守重を暗殺し重秀が中心となり雑賀衆を動かしていくことになりました。

重秀から土橋氏が主導権を握る

信長の影響力下で動いていた雑賀衆でしたが、本能寺の変が発生し信長が横死すると後ろ盾を失ってしまい重秀は織田信張の下へ逃げ込み雑賀衆は土橋氏が主導権を握っていきました。謀反人だった光秀を羽柴秀吉が討ち取り、秀吉の時代となっていくと地方に独自勢力を持つ惣国などを解体する動きが強まっていきます。

そんな秀吉に反発するべく、徳川家康と共に根来衆と手を組み小牧長久手に参加し羽柴軍を苦戦させていき秀吉の背後まで迫る寸前でした。しかし家康が秀吉と和睦を結んだことで協力できる者が居なくなってしまい雑賀衆のみで秀吉と対峙していくことになります。

雑賀衆の滅亡

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本格的に秀吉の攻撃が始まっていくと、羽柴秀次が十万の軍勢を率いて畠中城と仙石堀城へ部隊を二つに分け攻め込んでいきました。仙石堀城には秀次を大将とした軍が押し寄せてきて二の丸まで制圧。討ち取った者達を本丸に見える位置に晒し士気を低下させる狙いがありましたが本丸に居た雑賀衆は士気が下がることなく鉄砲を撃ちこんでいきます。

ところが羽柴軍の火矢が火薬庫に引火したため、雑賀衆達は朽ち果てていきました。その後は畠中城や積善寺城にも羽柴軍が攻撃していくと耐え切れないと判断した雑賀衆は、秀吉の下に降り壊滅的な状態となり集団として為していた雑賀衆は解散し所属していた兵達は全国各地に散っていきます。

鉄砲の扱いに長けた傭兵達

偶然の出会いでポルトガル商人から鉄砲を購入出来たことで、各地に広まり戦での戦い方や戦法などが大きく変わっていったことでしょう。雑賀衆はこの鉄砲が伝来したことで大きな自治組織を成長させていきましたが、数多くの鉄砲を作れた理由が判明しておりません。

想像の域にはなりますが、記録に残されていないだけで紀伊国の港で交易を行い主に日本では手に入れることが出来ない硝石などをお金で買い込み鉄砲文化を自国に広めていったことでしょう。また雑賀衆の鉄砲戦術は信長も真似をしたとされていて、通説では長篠の戦いで三段構えで撃ち込んだとされていますがこれより前に雑賀衆によって二段構えで信長を苦しめていました。

優れた武器を扱うにしても経験を積み、実用していかなくては武器も人も力を発揮することは出来ないため鍛錬を多く積んでいった結果として他国から援軍要請を受け強力な味方へとなったことでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

戦国時代の選りすぐり傭兵部隊「雑賀衆」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

各戦国大名が領土拡大や支配圏を伸ばすために戦が盛んに行われて、如何にして兵を減らさずに勝利を収めることが出来るかを知恵を絞り兵を動員していたでしょうな。しかし領土拡大を目指していた大名や国人達ばかりではなく、自国繁栄のために防衛に徹して攻めの戦を行ず勢力のある大名下で活動していた者達も少ないでしょうがいたのでしょうな。

今回はお金だけのために大名達へ加担して勝利をもたらすことが多かった傭兵部隊の一つを歴史マニアである歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

当時は味方になれば勝利するとまでいわれていた雑賀衆がどのようにして屈強な部隊となっていったかを紹介していく。

雑賀衆結成

image by PIXTA / 60324173

紀伊国の地侍達によって結成されたことが始まりのようです。

紀伊国の小さな郷

雑賀衆は紀伊国の小さな五つの郷が集まり結成されていくことになります。五つの郷とは十ヶ郷・雑賀庄・中郷・宮郷・南郷のことで、この郷を総称して雑賀地方と呼ばれていました。雑賀地方は壮園といい朝廷などから関与されることがあまり無い地域だったため、独立的な勢力をそれぞれ持っていたようです。

そしてそれぞれの郷に、頭となる鈴木氏・土橋氏・栗村氏・島村氏・宮本氏・松江氏が主として郷を支配していました。当時の守護代だった畠山氏なども支配に乗り出そうとしていましたが、制圧することが出来ずにいたようです。

この五つの郷が合わさり、地方の名前をとり結成されたのが雑賀衆でした。

自立性の高い人達が育つ

朝廷や守護代からも支配されなかった独立した勢力の雑賀衆は、平民達の自立性を高めていく教育をしていき惣国を作っていきました。惣国は法律制度や税を取り締まる仕組みなども頭目と協議し統治共同体として、一国規模で活動を進めていき物事は全て惣国で管理をしていきます。

これによって団結力が深まっていき、戦の度に全員で協力をして自身達の力を発揮していきました。このことから大名と同様規模の政務が行われていたと思われ、反感が無いようにそれぞれの意見を出し合い争うことなく解決出来る人物が多数いたことでしょう。

こういったことが為されたことで、傭兵部隊として活動が出来るようになった理由の一つだと思われます。

十五世紀の文献に初めて登場

image by PIXTA / 47049232

雑賀衆の名前が初めて登場するのが、1535年6月に書かれたとする私心記で本願寺の内情と一向一揆が行われた時に援軍として本願寺勢に加わっていく様子が書かれています。その他にも京へも近かったことから、畿内の大名にも援軍を出していたようで活躍したか不明ですが文献に記載があることを考えると力をもっていた部隊だったと思いました。

本願寺指導者の一人だった証如は雑賀衆の活躍に敬意を表し感謝状を贈っていることが確認されています。この時に本願寺との関わりが深まっていき信仰する者達が増えていき、本願寺勢に加担することが増えていったのだと思われました。

鉄砲伝来によって精鋭化

本願寺への支援が一旦終了したところに、種子島でポルトガル人が漂着したことで他国の最新武器が日本へ流れ込んでいきました。

中国船漂着

天文十二年8月25日に日本の最南端に位置していた大隅国に属していた種子島に、大型の中国船が嵐の影響によって漂着してしまいました。大型船だったこともあり漂着した場所は、騒ぎとなっており情報を聞きつけた島津氏の家臣だった種子島時堯がその場に駆けつけていきます。

他国の者といえども中国の者であれば、多少言葉が通じると思った時堯は書状を書いて乗船していた中国人に渡していきました。すると南蛮商人が乗船していたことが分かると供に、鉄砲なるものが船に積み込まれていて扱い方を聞いていきます。

鉄砲に興味を抱いた時堯は大金を叩いて商人から買い取りました。

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