
応仁の乱の発生
室町幕府滅亡のきっかけとなったのは、1467年の応仁の乱です。将軍継承問題、家督争い、勢力争い、実に様々な争いが原因となって起こった応仁の乱ですが、戦いは10年に及ぶほど長引き、そのため室町幕府の存在する京都は焼野原状態となってしまいました。
応仁の乱によって権威が低下した幕府は戦いが収まっても権威は戻らず、それどころか守護が国人に領地を奪われるなど下剋上の時代が始まります。下剋上の時代、すなわちそれは戦国時代への突入を意味しており、ここで名を上げてきたのが尾張国を支配していた織田信長です。
京都に入った織田信長は足利義昭を第15代の征夷大将軍に就けさせますが、やがて2人は対立する関係になってしまいます。織田信長は元々力を持っていましたから、将軍に頼ることなく新たな秩序を作りたいという野心が芽生え、そのため幕府に対しても様々な要求をするようになっていきました。
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織田信長の登場
足利義昭からすればもはや織田信長は疎ましい存在、そのため各地の大名に対して織田信長討伐を指示します。しかしそれはうまくいかず、当然のように下剋上が起こる戦国時代となった今、肩書きだけの足利義昭ではもはや織田信長を討伐する術はなかったのでしょう。
案の定、1573年に足利義昭は織田信長によって逆に京都を追放されてしまい、歴史上ではこの時点で室町幕府は滅亡したと解釈されています。つまり、1336年に足利尊氏が開いた室町幕府は、1573年の足利義昭の代に滅亡したということになり、約240年続いた室町幕府の歴史に終止符が打たれたのです。
ですから、室町幕府の場合は鎌倉幕府のように武力によって直接滅亡したわけではありません。織田信長によって将軍が京都を追い出されたことで室町幕府滅亡として解釈されているのです。以後、織田信長の時代が始まりますが、彼もまた天下統一を目の前にして散っていくのでした。
観応の擾乱は絶対に押さえるべきポイント!
室町幕府は基本的に鎌倉幕府の仕組みをならっているため、既に鎌倉幕府の知識が充分ならそれほど苦労することなく覚えられるでしょう。最も、それでも違いはありますから、二頭政治などの違いは明確にしておいてください。
また、室町幕府において特に重要なのは観応の擾乱でしょう。これは二頭政治、南北朝時代という室町幕府ならではの状況が原因で起こっていますし、内乱そのものも複雑なため、必ず抑えなければならないポイントです。