
高師直と足利直義の対立
室町幕府を覚える上で知っておかなければならないのが、1350年に起こった観応の擾乱です。これは室町幕府の中で発生した内乱で、二頭政治という室町幕府ならではの政治方針が原因となって起こりました。足利尊氏の頼れる家臣である高師直、そして足利尊氏の弟である足利直義、この2人の性格がどうにも合わず、対立していたことがそもそもの事件の発端となります。
2人が対立する状況の中、戦果を上げた高師直が評価を高めたことから、足利直義は足利尊氏に対して高師直の役職剥奪を要求。一方の高師直もそんな足利直義の画策に気づいて、逆に足利直義を失墜させようとカウンタークーデターを計画、足利直義を追い詰めることに成功したのです。
結局、足利尊氏は足利直義の家臣である上杉重能を流罪に、足利直義を出家させることでひとまず問題は解決した……と思われました。ところが、足利直義は本来敵である南朝と手を組んで勢力を拡大、京都に攻め入り高師直の仲間を一掃すると、高師直もまた流罪に処された上杉重能の養子・上杉能憲によって殺害されたのです。
謎の死を遂げた足利直義
南朝を勢力に加えるという足利直義の勝手な行動に困り果てる足利尊氏。そこで仕方なく南朝に頭を下げ、南朝優先で南北朝に分かれている朝廷を統一するという要求まで受け入れます。本来の朝廷は北朝ですし、そもそも足利尊氏は朝廷を守る意味合いから京都に幕府を開きました。
そのため、南朝に頭を下げて要求を受け入れるのは屈辱だったでしょう。ともあれ、何とか足利直義を追い詰めることに成功して幽閉しますが足利直義はすぐに死亡、足利直義が死に至った経緯については今でも正確な解明はされておらず、足利尊氏による毒殺説も挙がっていますね。
さて、この一連の内乱を観応の擾乱と呼びますが、南北朝においてはこれで実際に統一されたわけではありません。南北朝の争いはその後も続いていき、解決するのはまだ先のこと、安定するのは第3代征夷大将軍・足利義満の時代になってからでした。
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支配体制の違い
鎌倉幕府は全国各地を支配していました。最も、最終的に完全な制覇は不可能でしたが、各地に守護を設置したことからも全国支配を目標としていたことが分かりますね。一方、室町幕府の場合はそうではなく、幕府の支配が直接及ぶという意味では、それは京都を中心とした西日本のみに留まります。
例えば、東日本においては鎌倉府を設置して鎌倉府によって統治、足利尊氏は子の家系の者を鎌倉公方に任命していました。さらに九州地方には九州探題、東北地方には奥州探題や羽州探題を設置しており、これらは足利家の同族がそれぞれの地方の統治を担当していたのです。
つまり、全国支配の体制を築こうとした鎌倉幕府に対して、室町幕府は異なる機構によって統治する……言わば分割的な支配体制を整えていたことがうかがえます。最も、それぞれの機構の信頼関係は完全なものとは言い難く、実際に鎌倉府が室町幕府に戦いを仕掛ける事例もありました。
主従関係の違い
鎌倉幕府では、将軍と武士の主従関係を確かなものにするため、御恩と奉公の体制を守っていました。仕える武士は主である将軍のために奉公して働き、仕える武士の奉公に対して主の勝利は御恩して恩賞を与える……これが鎌倉幕府における将軍と武士の関係です。
一方、室町幕府はこのような主従関係は確率しておらず、と言うよりもそれが不可能な状況だったと表現するのが正しいでしょう。なぜなら大名を束ねる盟主として君臨していた足利将軍家でしたが、個々の大名の勢力もそれに負けず劣らずの強い勢力を持っていたからです。
そのため、足利将軍家と言えど幕府を完全に主導するのは容易ではなく、政権がなかなか安定しなかったのもそれが理由の一つとなっています。例えるなら、室町幕府は有力な大名が集められた連合的な組織とイメージすると分かりやすいかもしれません。
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