今日は室町幕府について勉強していきます。平清盛をきっかけに到来した武士の時代は、平家政権、鎌倉幕府と武家政権が続いていくが、鎌倉幕府が滅亡すると今度は朝廷が政権を握った。

しかしそれも束の間、後醍醐天皇の建武の新政はわずか3年で終わり、再びの武家政権が始まる。それが室町幕府で、今回はその成立から滅亡まで日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から室町幕府をわかりやすくまとめた。

室町幕府成立まで

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建武の新政への失望

室町幕府を開いたのは足利尊氏、それは1336年のことです。ただ幕府を開くまでのいきさつは少々複雑で、当時は後醍醐天皇による建武の新政が行われていました。後醍醐天皇は鎌倉幕府の時代に倒幕を目指しており、島流しに遭いながらも1333年にそれを実現させます。

この時、足利尊氏も当初は幕府側に就きながらも反旗を翻して後醍醐天皇側に寝返っていて、六波羅探題を滅ぼすなど倒幕に貢献しました。そして同年に後醍醐天皇による建武の新政が開始されますが、公家を優遇するばかりの後醍醐天皇に対して足利尊氏はわずか3年で見切りをつけ、再びの武家政権の時代を目指します。

後醍醐天皇と決別した足利尊氏、一方後醍醐天皇もそんな足利尊氏を討伐するため兵を送り込むものの敗北。こうして、朝廷との戦いに勝利した足利尊氏は室町幕府を開こうとしますが、それには一つ大きな問題がありました。それは、幕府を開くには征夷大将軍に任命される必要があることです。

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室町幕府の成立

幕府を開くのは征夷大将軍、そして征夷大将軍は天皇に任命されて就けるもの。しかし対立した後醍醐天皇が足利尊氏を征夷大将軍に任命するはずなく、そこで足利尊氏は三種の神器を使って後醍醐天皇から光明天皇への譲位を行い、征夷大将軍に就くため新たな天皇を作り出しました。

足利尊氏は政治の方針として17か条からなる建武式目を制定、武家政権の基本姿勢を示すと1338年に光明天皇より征夷大将軍に任命されたのです。この時点で室町幕府成立とされており、つまり室町幕府は1338年に開かれ、開いたのは足利尊氏ということになります。

一方、光明天皇への譲位に納得できない後醍醐天皇は自ら朝廷を作ってしまい、そのため2つの朝廷と2人の天皇が存在する事態となりました。本来の朝廷である北朝と後醍醐天皇が作った南朝の名前から、この時代は南北朝時代とも呼ばれているのです。

室町幕府の仕組み

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征夷大将軍、管領、政所、問注所、評定衆

室町幕府の仕組みとして、組織の構造を解説します。まず言うまでもなくトップに立つのは征夷大将軍で、成立当初は足利尊氏が将軍に就いていますね。そして管領、これは将軍の補佐を役割とする役職で、鎌倉幕府に置き換えると執権です。つまり管領は室町幕府のナンバー2ということになります。

最も、管領はその位の高さから就任できたのも足利氏の一族となっており、斯波氏・細川氏・畠山氏が交代で管領を務めていました。ちなみに、斯波氏・細川氏・畠山氏の三氏は三管領とも呼ばれていたそうです。また、一般の政務や財政を行うのは政所と呼ばれる役職の仕事でした。

次に訴訟関連の役職に進むと、訴訟事務の責任・管理や記録や文章の保管などを行っていたのが問注所、領地の訴訟を審判していたのが評定衆。評定衆は鎌倉幕府でも存在した役職ですが、役職としての歴史があるだけで権力そのものはそれほど高くありません。

侍所、各地の探題、二頭政治

さらに軍事・警察に相当するのが侍所、また六波羅探題を連想させる「探題」の文字がつく役職もありました。それは奥州探題や九州探題で、六波羅探題は朝廷の監視が仕事でしたが、奥州探題は陸奥の統括を行う守護に代わって設置された役職、九州探題は九州の統括に加えて中国・朝鮮とも外交も担当する役職です。

最も、地方機関となる探題は他にも存在しており、羽州探題や中国探題なども設置されました。執権に相当する管領、守護に相当する各地の探題、鎌倉幕府の時代から存在する評定衆から想像できるとおり、室町幕府の仕組みは基本的に鎌倉幕府のそれをならったものになっています。

一方で大きな違いもあり、鎌倉幕府の場合はあくまで将軍(後に執権)が中心となって政治を行っていますね。それに対して室町幕府の場合は当初足利尊氏が政務一般、弟の足利直義が軍事を担当していて、つまり室町幕府には二頭政治を行っていたという特徴があります。

二頭政治ゆえに起こった内乱・観応の擾乱

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高師直と足利直義の対立

室町幕府を覚える上で知っておかなければならないのが、1350年に起こった観応の擾乱です。これは室町幕府の中で発生した内乱で、二頭政治という室町幕府ならではの政治方針が原因となって起こりました。足利尊氏の頼れる家臣である高師直、そして足利尊氏の弟である足利直義、この2人の性格がどうにも合わず、対立していたことがそもそもの事件の発端となります。

2人が対立する状況の中、戦果を上げた高師直が評価を高めたことから、足利直義は足利尊氏に対して高師直の役職剥奪を要求。一方の高師直もそんな足利直義の画策に気づいて、逆に足利直義を失墜させようとカウンタークーデターを計画、足利直義を追い詰めることに成功したのです。

結局、足利尊氏は足利直義の家臣である上杉重能を流罪に、足利直義を出家させることでひとまず問題は解決した……と思われました。ところが、足利直義は本来敵である南朝と手を組んで勢力を拡大、京都に攻め入り高師直の仲間を一掃すると、高師直もまた流罪に処された上杉重能の養子・上杉能憲によって殺害されたのです。

謎の死を遂げた足利直義

南朝を勢力に加えるという足利直義の勝手な行動に困り果てる足利尊氏。そこで仕方なく南朝に頭を下げ、南朝優先で南北朝に分かれている朝廷を統一するという要求まで受け入れます。本来の朝廷は北朝ですし、そもそも足利尊氏は朝廷を守る意味合いから京都に幕府を開きました。

そのため、南朝に頭を下げて要求を受け入れるのは屈辱だったでしょう。ともあれ、何とか足利直義を追い詰めることに成功して幽閉しますが足利直義はすぐに死亡、足利直義が死に至った経緯については今でも正確な解明はされておらず、足利尊氏による毒殺説も挙がっていますね。

さて、この一連の内乱を観応の擾乱と呼びますが、南北朝においてはこれで実際に統一されたわけではありません。南北朝の争いはその後も続いていき、解決するのはまだ先のこと、安定するのは第3代征夷大将軍・足利義満の時代になってからでした。

室町幕府と鎌倉幕府の違い

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支配体制の違い

鎌倉幕府は全国各地を支配していました。最も、最終的に完全な制覇は不可能でしたが、各地に守護を設置したことからも全国支配を目標としていたことが分かりますね。一方、室町幕府の場合はそうではなく、幕府の支配が直接及ぶという意味では、それは京都を中心とした西日本のみに留まります。

例えば、東日本においては鎌倉府を設置して鎌倉府によって統治、足利尊氏は子の家系の者を鎌倉公方に任命していました。さらに九州地方には九州探題、東北地方には奥州探題や羽州探題を設置しており、これらは足利家の同族がそれぞれの地方の統治を担当していたのです。

つまり、全国支配の体制を築こうとした鎌倉幕府に対して、室町幕府は異なる機構によって統治する……言わば分割的な支配体制を整えていたことがうかがえます。最も、それぞれの機構の信頼関係は完全なものとは言い難く、実際に鎌倉府が室町幕府に戦いを仕掛ける事例もありました。

主従関係の違い

鎌倉幕府では、将軍と武士の主従関係を確かなものにするため、御恩と奉公の体制を守っていました。仕える武士は主である将軍のために奉公して働き、仕える武士の奉公に対して主の勝利は御恩して恩賞を与える……これが鎌倉幕府における将軍と武士の関係です。

一方、室町幕府はこのような主従関係は確率しておらず、と言うよりもそれが不可能な状況だったと表現するのが正しいでしょう。なぜなら大名を束ねる盟主として君臨していた足利将軍家でしたが、個々の大名の勢力もそれに負けず劣らずの強い勢力を持っていたからです。

そのため、足利将軍家と言えど幕府を完全に主導するのは容易ではなく、政権がなかなか安定しなかったのもそれが理由の一つとなっています。例えるなら、室町幕府は有力な大名が集められた連合的な組織とイメージすると分かりやすいかもしれません。

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室町幕府の滅亡

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応仁の乱の発生

室町幕府滅亡のきっかけとなったのは、1467年の応仁の乱です。将軍継承問題、家督争い、勢力争い、実に様々な争いが原因となって起こった応仁の乱ですが、戦いは10年に及ぶほど長引き、そのため室町幕府の存在する京都は焼野原状態となってしまいました。

応仁の乱によって権威が低下した幕府は戦いが収まっても権威は戻らず、それどころか守護が国人に領地を奪われるなど下剋上の時代が始まります。下剋上の時代、すなわちそれは戦国時代への突入を意味しており、ここで名を上げてきたのが尾張国を支配していた織田信長です。

京都に入った織田信長は足利義昭を第15代の征夷大将軍に就けさせますが、やがて2人は対立する関係になってしまいます。織田信長は元々力を持っていましたから、将軍に頼ることなく新たな秩序を作りたいという野心が芽生え、そのため幕府に対しても様々な要求をするようになっていきました。

織田信長の登場

足利義昭からすればもはや織田信長は疎ましい存在、そのため各地の大名に対して織田信長討伐を指示します。しかしそれはうまくいかず、当然のように下剋上が起こる戦国時代となった今、肩書きだけの足利義昭ではもはや織田信長を討伐する術はなかったのでしょう。

案の定、1573年に足利義昭は織田信長によって逆に京都を追放されてしまい、歴史上ではこの時点で室町幕府は滅亡したと解釈されています。つまり、1336年に足利尊氏が開いた室町幕府は、1573年の足利義昭の代に滅亡したということになり、約240年続いた室町幕府の歴史に終止符が打たれたのです。

ですから、室町幕府の場合は鎌倉幕府のように武力によって直接滅亡したわけではありません。織田信長によって将軍が京都を追い出されたことで室町幕府滅亡として解釈されているのです。以後、織田信長の時代が始まりますが、彼もまた天下統一を目の前にして散っていくのでした。

観応の擾乱は絶対に押さえるべきポイント!

室町幕府は基本的に鎌倉幕府の仕組みをならっているため、既に鎌倉幕府の知識が充分ならそれほど苦労することなく覚えられるでしょう。最も、それでも違いはありますから、二頭政治などの違いは明確にしておいてください。

また、室町幕府において特に重要なのは観応の擾乱でしょう。これは二頭政治、南北朝時代という室町幕府ならではの状況が原因で起こっていますし、内乱そのものも複雑なため、必ず抑えなければならないポイントです。

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室町時代日本史歴史

成立から滅亡までこれで完璧「室町幕府」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は室町幕府について勉強していきます。平清盛をきっかけに到来した武士の時代は、平家政権、鎌倉幕府と武家政権が続いていくが、鎌倉幕府が滅亡すると今度は朝廷が政権を握った。

しかしそれも束の間、後醍醐天皇の建武の新政はわずか3年で終わり、再びの武家政権が始まる。それが室町幕府で、今回はその成立から滅亡まで日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から室町幕府をわかりやすくまとめた。

室町幕府成立まで

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建武の新政への失望

室町幕府を開いたのは足利尊氏、それは1336年のことです。ただ幕府を開くまでのいきさつは少々複雑で、当時は後醍醐天皇による建武の新政が行われていました。後醍醐天皇は鎌倉幕府の時代に倒幕を目指しており、島流しに遭いながらも1333年にそれを実現させます。

この時、足利尊氏も当初は幕府側に就きながらも反旗を翻して後醍醐天皇側に寝返っていて、六波羅探題を滅ぼすなど倒幕に貢献しました。そして同年に後醍醐天皇による建武の新政が開始されますが、公家を優遇するばかりの後醍醐天皇に対して足利尊氏はわずか3年で見切りをつけ、再びの武家政権の時代を目指します。

後醍醐天皇と決別した足利尊氏、一方後醍醐天皇もそんな足利尊氏を討伐するため兵を送り込むものの敗北。こうして、朝廷との戦いに勝利した足利尊氏は室町幕府を開こうとしますが、それには一つ大きな問題がありました。それは、幕府を開くには征夷大将軍に任命される必要があることです。

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