今日は第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)について勉強していきます。江戸時代も幕末になると様々な思想が広がり、長州藩は天皇が中心となって政治を行う尊王攘夷を思想としていた。

一方、朝廷はそんな長州藩を朝敵とみなして討伐を命じている。一見矛盾したこの状況はどのようにして起こったのか。そこで、今回は第一次長州征伐について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から第一次長州征伐をわかりやすくまとめた。

外国と対等に渡り合えない幕府

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日米修好通商条約締結の問題

1854年、幕府はこれまで行ってきた鎖国と呼ばれる対外政策に終止符を打って開国。以後日本には外国人が訪れるようになりますが、これまで外国との交流がなかった日本にとって外国人は歓迎すべき来客ではありませんでした。そんな中、日本は1858年に日米修好通商条約を締結させます。

しかし、この日米修好通商条約の締結には2つの大きな問題がありました。1つ目にこれが不平等条約であったこと……アメリカのハリスが要求した日米修好通商条約でしたが、その内容は日本にとって不利なものになっており、条約締結によって多くの国民の生活を苦しくさせてしまいました。

2つ目に条約締結の調印が天皇に無許可で行われたこと……武家政権において政治の実権を握る幕府でしたが、外交においての条約調印には天皇の許可が必須。しかし、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく無勅許で日米修好通商条約に調印してしまったのです。

公武合体論と尊王攘夷論の誕生

ここで疑問なのは「なぜ幕府はみすみす不利な条約に調印したのか?」という点ですが、それは幕府が外国の軍事力の高さを怖れていたからです。そもそも、1853年にペリーが黒船で日本に来航した際、幕府は圧倒的な大きさと技術力の高さを感じさせるその黒船に威圧されていました。

しかし、いくら外国の軍事力の高さを怖れたとは言え、これでは幕府も頼りにならず、そのため日本では2つの新たな思想が生まれます。1つは幕府だけでなく朝廷も政治に加わり、朝廷と幕府が協力して政治を行うべきという公武合体論で、これを支持していたのは薩摩藩。

もう1つは頼りにならない幕府に見切りをつけ、今後は朝廷の天皇を中心に政治を行って外国も排除すべきという尊王攘夷論、これを支持したのは長州藩でした。最も、正確には長州藩も当初は公武合体論を掲げていましたが、次第に尊王攘夷論を推すようになっていったのです。

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京都を追い出された長州藩

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尊王攘夷派のクーデター計画

長州藩が思想とする尊王攘夷論には「攘夷」のキーワードが含まれており、これは外国の排除を意味する言葉になります。ですから、長州藩もその思想にならって外国人を攻撃するのですが、長州藩の攘夷思想は幕府でも手を焼くほど過激なもので、他藩の藩主たちもついていけないほどでした。

そんな長州藩にとって障害となる存在は外国だけではありません。尊王攘夷論と時を同じくして誕生した公武合体論も嫌っており、公武合体論が日本で認められてしまえば、それは尊王攘夷論が消え去ることを意味するのです。そこで長州藩は尊王攘夷論を優位にするため、朝廷に近づくことを考えました。

なぜなら、当時天皇だった孝明天皇は攘夷論者であり、長州藩の攘夷運動を支持してくれていたからです。そこで、長州藩は朝廷という後ろ盾を手に入れるためにクーデターを計画、一方その情報を知って危機感を持ったのが公武合体論を思想としていた薩摩藩や会津藩でした。

新撰組の結成と池田屋事件

ここで長州藩よりも一枚上手だったのが薩摩藩と会津藩、天皇を巻き込むほどの長州藩のクーデター計画に対してカウンタークーデターを起こして阻止したのです。これが1863年に起こった八月十八日の政変で、このカウンタークーデターによって長州藩は京都から追い出されてしまいました。

しかし、長州藩もこれで諦めようとはしません。京都を追い出された尊王攘夷派の一部が密かに京都に残り、日々密談して再び京都に返り咲く機会を狙って過激な計画を立てていたのです。1864年、そんな長州藩の物騒な知らせを聞いた幕府は、京都を警備するための組織を作ります。

実は、その組織というのがあの有名な新撰組でした。新撰組は、警備を行う中で長州藩の尊王攘夷派が京都・池田屋の旅館にて密談している情報を掴んで報告。そして新撰組が池田屋を襲撃して長州藩の尊王攘夷派を殺害したのが池田屋事件、これもまた有名な事件でしょう。

禁門の変の発生

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進発論と慎重論

池田屋事件を知った長州藩は、同志が殺害されたことに激怒して京都への出兵を決意します。八月十八日の政変後、長州藩では今後の方針として「武力を背景に長州藩の無罪を主張すべき」と考える進発論と、「慎重な姿勢を取って行動すべき」と考える慎重論に意見が分かれていました。

しかし、池田屋事件によって進発論の支持が急激に高まり、そのため挙兵に至ったのです。最も、出兵は朝廷と戦うことが目的ではなく、八月十八日の政変において藩主に一切の罪はないと主張するためでした。京都御所の前で朝廷に訴える長州藩、一方の朝廷はこれを無視します。

引き下がらない長州藩に対して退去命令を下す朝廷、こうした状況の中で起こったのが1864年の禁門の変でした。1864年6月、京都御所の西に位置する蛤御門の付近にて、朝廷に訴える長州藩の兵と京都を守護する会津藩・桑名藩の兵が衝突して戦闘が起こります。

朝敵となった長州藩

この戦闘で優位に立ったのは長州藩。会津藩・桑名藩を蹴散らしながら京都御所の内部まで侵入しましたが、その時会津藩・桑名藩に加勢したのが西郷隆盛率いる薩摩藩でした。これによって一気に形成は逆転、優勢だった長州藩はたちまち劣勢となってしまいます。

結局、この禁門の変では長州藩が敗北するのですが、ここで長州藩は敗北以上に大きな失態を犯すのでした。その失態とは京都御所に向かって発砲してしまったことで、つまりそれは朝廷を攻撃したと解釈され、禁門の変の一件で長州藩は朝敵(天皇の敵)とみなされてしまったのです。

天皇中心の政治を意味する尊王攘夷の思想を持つ長州藩、しかし京都御所への発砲は罪が重く、皮肉にも天皇を支持する長州藩は天皇の敵と位置づけられてしまいました。朝敵となった長州藩への討伐を命令する朝廷、それに真っ先に動いたのが幕府です。

第一次長州征伐の始まりと結末

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長州藩征伐の機会を狙っていた幕府

朝敵となった長州藩に対して幕府は討伐を目的に出兵、これが1864年の第一次長州征伐で、ちなみに征伐ではなく征討とも呼ばれます。朝廷の望みどおりに動くのは幕府としてらしからぬ行動に思えますが、それは幕府としても長州藩を潰しておきたいと思っていたからです。

幕府は開国路線で政治を進めていましたが、尊王攘夷を思想とする長州藩はこれに反対しており、だからと言って長州藩と戦争して勝利するのは幕府でも容易ではありませんでした。しかし、今の長州藩は禁門の変にて敗北、さらに過激な攘夷運動の報復を外国から受けていたことで弱っています

手強い長州藩は弱っていて、なおかつ朝敵となったため討伐しても誰にも文句は言われない。長州藩を疎ましく思っていた幕府にとってそれは討伐する絶好のチャンスだったのです。そのため第一次長州征伐に乗り出した幕府、動員された藩は35藩、その数15万人ほどの規模でした。

西郷隆盛の説得

こうして第一次長州征伐に向かった幕府ですが、ここで行動を起こしたのが討伐に加わっていた薩摩藩の西郷隆盛です。西郷隆盛は条件を提示した上で長州藩に対して降伏するよう説得、もちろん武闘派の長州藩ですからそれを承諾するはずはなく、特に高杉晋作らの奇兵隊は降伏を断固拒否しました。

すると、西郷隆盛は敵地へとわざわざ乗り込んで再度説得、そんな西郷隆盛の行動に心を動かされた長州藩は降伏を受け入れたのです。長州藩が条件を受け入れて降伏したことでお互い戦う必要はなくなり、第一次長州征伐は不戦勝という形で幕府が平和的に勝利を収めました。

実は禁門の変が起こった後、西郷隆盛は長州征伐前に幕府の家臣・勝海舟に出会っています。勝海舟は坂本龍馬も弟子入りを望むほど見識が広く、西郷隆盛もまた勝海舟と出会ってそれを強く実感したそうです。そして、この時の出会いが第一次長州征伐の西郷隆盛の行動に深く関係していました。

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西郷隆盛と勝海舟の出会い

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日本の将来を話し合った西郷隆盛と勝海舟

勝海舟と出会った時に日本の将来について話し合った西郷隆盛、そこで西郷隆盛は色々なことを知らされます。江戸幕府は既に衰退しているということ、新政権樹立の時が迫られているということ、そして薩摩藩と長州藩が戦うことには意味がないということ。

さらに、勝海舟は「日本の未来のためには薩摩藩と長州藩が中心となって外国に立ち向かうべき」とも言いました。それまで西郷隆盛も長州討伐に賛成しており、特に京都御所に発砲した長州藩に対してはむしろ厳しく対処すべきと考えていたようです。

しかし、勝海舟と話し合ううちにその考えは変わっていき、長州藩と戦うべきではないと思うようになりました。ですから、西郷隆盛は第一次長州征伐の土壇場で説得を試みる行動を取ってみせたのです。西郷隆盛の説得により、第一次長州征伐は長州藩側にも幕府側にも犠牲が出ることなく終わりました。

幕末の結末につながった出会い

さて、幕末をドラマとして置き換えるなら、第一次長州征伐前の西郷隆盛と勝海舟の出会いはドラマの結末に向けた伏線と言ったところでしょうか。第一次長州征伐が終わってから2年経過した頃、1866年には幕府が第二次長州討伐を行いますが、これは幕府にとって無謀な戦いでした。

何しろ、この時の長州藩は薩摩藩との間に薩長同盟と呼ばれる同盟を結んでおり、全盛期以上の力を手にしていたのです。そのため幕府は長州藩に敗北、ちなみに薩長同盟実現に尽力したのは坂本龍馬で、坂本龍馬は弟子入りを望むほど勝海舟を尊敬していた人物になりますね。

また、幕末の最後には幕府と新政府が決着をつけるための戊辰戦争が勃発しますが、その中で西郷隆盛は江戸無血開城という功績を残しました。これもやはり西郷隆盛と勝海舟が関わっていますし、新政府樹立も勝海舟の言葉どおり。つまり、第一次長州征伐における西郷隆盛と勝海舟の出会いは、幕末の未来を決める出会いとなったのです。

第一次長州征伐が行われたのは長州藩が朝敵となったため!

第一次長州征伐前のポイントは2つです。1つ目は長州藩が討伐される理由で、これは禁門の変によって朝敵となったことが直接の理由ですし、禁門の変に至るまでの流れはそれ以前の出来事から分かります。

2つ目は第一次長州征伐の結果で、「討伐」というからには戦いを想像しますが、実際には幕府の不戦勝という形が決着がついていますね。もちろん、それに関わった西郷隆盛のことはきちんと抑えておきましょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

朝敵となった長州藩を攻める幕府「第一次長州征伐」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)について勉強していきます。江戸時代も幕末になると様々な思想が広がり、長州藩は天皇が中心となって政治を行う尊王攘夷を思想としていた。

一方、朝廷はそんな長州藩を朝敵とみなして討伐を命じている。一見矛盾したこの状況はどのようにして起こったのか。そこで、今回は第一次長州征伐について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から第一次長州征伐をわかりやすくまとめた。

外国と対等に渡り合えない幕府

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日米修好通商条約締結の問題

1854年、幕府はこれまで行ってきた鎖国と呼ばれる対外政策に終止符を打って開国。以後日本には外国人が訪れるようになりますが、これまで外国との交流がなかった日本にとって外国人は歓迎すべき来客ではありませんでした。そんな中、日本は1858年に日米修好通商条約を締結させます。

しかし、この日米修好通商条約の締結には2つの大きな問題がありました。1つ目にこれが不平等条約であったこと……アメリカのハリスが要求した日米修好通商条約でしたが、その内容は日本にとって不利なものになっており、条約締結によって多くの国民の生活を苦しくさせてしまいました。

2つ目に条約締結の調印が天皇に無許可で行われたこと……武家政権において政治の実権を握る幕府でしたが、外交においての条約調印には天皇の許可が必須。しかし、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく無勅許で日米修好通商条約に調印してしまったのです。

公武合体論と尊王攘夷論の誕生

ここで疑問なのは「なぜ幕府はみすみす不利な条約に調印したのか?」という点ですが、それは幕府が外国の軍事力の高さを怖れていたからです。そもそも、1853年にペリーが黒船で日本に来航した際、幕府は圧倒的な大きさと技術力の高さを感じさせるその黒船に威圧されていました。

しかし、いくら外国の軍事力の高さを怖れたとは言え、これでは幕府も頼りにならず、そのため日本では2つの新たな思想が生まれます。1つは幕府だけでなく朝廷も政治に加わり、朝廷と幕府が協力して政治を行うべきという公武合体論で、これを支持していたのは薩摩藩。

もう1つは頼りにならない幕府に見切りをつけ、今後は朝廷の天皇を中心に政治を行って外国も排除すべきという尊王攘夷論、これを支持したのは長州藩でした。最も、正確には長州藩も当初は公武合体論を掲げていましたが、次第に尊王攘夷論を推すようになっていったのです。

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