赤字続きの朝廷
収入が減少すれば支出を抑えるのが基本、しかし当時の朝廷はむしろお金を使っており、なぜなら都を移す遷都を繰り返したためです。710年に平城京、740年に恭仁京、本来長期間使用できる都をこうも頻繁に遷都していては、膨大な費用が発生して支出が増えるのは当然でしょう。
しかも東大寺には大仏を建て、全国には国分寺と国分尼寺と建て、蓄えてあった朝廷の財産は瞬く間に失われていきました。もはやこれ以上税の減少が起こることが許されない朝廷、そこで発令したのが743年の墾田永年私財法で、考えてみればこれは朝廷にとって苦肉の策だったのかもしれません。
三世一身法は人々が土地を所有できることで当初は効果がありました。しかし所有できるのは三世代まで……つまり一時的な所有しかできなかったため、その効果もまた一時的なものに留まってしまったのです。それなら、土地の所有を永久にすれば効果も永久となるのではないでしょうか。
墾田永年私財法の成功
土地の所有を永久にすれば人々の労働意欲も永久のものとなる、その発想で生まれたのが墾田永年私財法です。要するに、土地を開墾すればその土地は完全に自分のものになるというのが墾田永年私財法の意味、これによって人々の暮らしと朝廷の税収に大きな変化が起こりしました。
人々は自分の土地を所有できるようになったことで、農民として年貢に納める米以外にも麦などの穀類を育てるようになります。そして労働意欲が増したことで年貢もきちんと納められるようになり、赤字続きだった朝廷の財政も潤うようになってきたのです。
「農業は自分の農地があるからこそ頑張れる」、現在でこそそれは常識となっているでしょう。しかし、公地公民制だった当時にその常識はなく、自分の土地にならないことで人々は労働意欲を失くしてしまい、その改善のため743年に墾田永年私財法が発令されたのです。
墾田永年私財法に定められた決まり事
墾田永年私財法は土地の私有化を認める内容のため、これを律令体制の崩壊の兆しと捉える意見もあります。律令体制とは、租・庸・調など税の負担を強制する代わりとして一定の広さの耕地を保障する制度ですから、耕地が私有地になるとすると確かに意味合いは変わってきますね。
さて、こうして発令された墾田永年私財法ですがもちろんいくつかの決まりもあり、好きな時に土地を得て好きなように利用できるというわけではないのです。まず、開墾する上で必ず国に申請しなければならないですし、許可が下りた後は3年以内に土地を開発しなければなりません。
また、開墾する場所にもルールが定められていて、公衆の妨げとなる場所での土地の所有は認められませんでした。墾田永年私財法の内容だけで判断すると、いくらでも土地を好きなように所有できるように思えますが、そんなことになってしまえば国家は成り立たず、実際にはこのような決まり事がありました。
収穫に必要となる資金
墾田永年私財法によって全ての農民の収穫がはかどったわけではありません。確かに、開墾した土地には永代の私財化が許可されましたが、中には収穫に恵まれなかった土地もあったようです。米も野菜もただ植えれば育つというものではなく、収穫するには整備が必要になります。
まずは水、これには用水路を作って確保しなければならず、そのためかかる費用は国ではなく自分で支払わなければなりません。このため、せっかく開墾しても資金がなければ収穫につながらず、依然として生活に苦しむままの農民も少なくなかったようですね。
思えば、公地公民制により人々は労働意欲を失っていました。その労働意欲を湧かせて高めるために墾田永年私財法を発令。しかし、労働意欲や労働力だけでは収穫に至らず、収穫に至るためには資金も必要としたのです。つまり、墾田永年私財法で農民の暮らしが豊かになったわけではありませんでした。
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