今日は墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)について勉強していきます。743年のこと、聖武天皇は土地を開墾すればその分だけ自分の土地にできるという墾田永年私財法を定めた。

考えようによっては自分の土地をいくらでも増やせるこの法令、聖武天皇はどのような理由でこれを実施したのか。そこで、今回は墾田永年私財法について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から墾田永年私財法をわかりやすくまとめた。

税の減少を止めたい朝廷

image by PIXTA / 37008498

公地公民制の問題

645年の大化の改新により、日本は公地公民制が採用されました。これは「公地公民」の文字から推測できるとおり、全ての土地と人民は天皇のものであるという考えです。さて、当時の日本の土地の概念は現在とは全く異なり、そもそも土地の所有が許可されていませんでした。

「土地が欲しければお金を支払って購入し、購入した土地を住居やビジネスとして自由に利用する」……これが現在の土地の概念でしょう。しかし、当時は口分田と呼ばれる農地を貸し与えられ、そこで収穫できたものからと呼ばれる税を納めるのが人々の暮らしだったのです。

自分の土地を持てないこの状況は、人々の労働に対する意欲を消失させました。「いくら田を耕してもそこは自分の土地にならない。年貢を納めるのも辛く、それならいっぞ田を耕すのも止めてしまおう!」と考える人が増えてしまい、そのため日本で土地を耕す人は激減。税の減少という問題を引き起こします。

一時的な効果しかなかった三世一身法

税の減少で困るのは税を受け取る側、つまり天皇が存在する朝廷です。朝廷は税の減少を食い止めるための策を考え、そのためには人々に労働意欲を持たせることが必要だと気づきます。そこで723年に三世一身法を発令、これは土地を開墾して田を作った場合、その土地を三世代まで自分の土地にできるというものです。

三世代とはつまり親・子・孫の代までのこと。人々に土地を所有する権利を与えたことで労働意欲が湧くと思いきや、実際にはそうはいかず、なぜなら所詮三世代経過すれば再び土地が失われてしまうからです。ですから効果はあってもそれは一時的なものでしかなく、再び安定した税は得られなくなりました。

税の減少が続く朝廷は火の車、当然現状を維持できるはずがなく、740年になった頃は本格的な財政難に苦しんでしまいます。また、せっかく開墾した土地も返却時期が迫ることで耕されなくなり、再び荒地に戻ってしまうというパターンも稀ではありませんでした。

743年 墾田永年私財法の発令

image by PIXTA / 60263742

\次のページで「赤字続きの朝廷」を解説!/

赤字続きの朝廷

収入が減少すれば支出を抑えるのが基本、しかし当時の朝廷はむしろお金を使っており、なぜなら都を移す遷都を繰り返したためです。710年に平城京、740年に恭仁京、本来長期間使用できる都をこうも頻繁に遷都していては、膨大な費用が発生して支出が増えるのは当然でしょう。

しかも東大寺には大仏を建て、全国には国分寺と国分尼寺と建て、蓄えてあった朝廷の財産は瞬く間に失われていきました。もはやこれ以上税の減少が起こることが許されない朝廷、そこで発令したのが743年の墾田永年私財法で、考えてみればこれは朝廷にとって苦肉の策だったのかもしれません。

三世一身法は人々が土地を所有できることで当初は効果がありました。しかし所有できるのは三世代まで……つまり一時的な所有しかできなかったため、その効果もまた一時的なものに留まってしまったのです。それなら、土地の所有を永久にすれば効果も永久となるのではないでしょうか。

墾田永年私財法の成功

土地の所有を永久にすれば人々の労働意欲も永久のものとなる、その発想で生まれたのが墾田永年私財法です。要するに、土地を開墾すればその土地は完全に自分のものになるというのが墾田永年私財法の意味、これによって人々の暮らしと朝廷の税収に大きな変化が起こりしました。

人々は自分の土地を所有できるようになったことで、農民として年貢に納める米以外にも麦などの穀類を育てるようになります。そして労働意欲が増したことで年貢もきちんと納められるようになり、赤字続きだった朝廷の財政も潤うようになってきたのです。

「農業は自分の農地があるからこそ頑張れる」、現在でこそそれは常識となっているでしょう。しかし、公地公民制だった当時にその常識はなく、自分の土地にならないことで人々は労働意欲を失くしてしまい、その改善のため743年に墾田永年私財法が発令されたのです。

墾田永年私財法の内容

image by PIXTA / 5720453

墾田永年私財法に定められた決まり事

墾田永年私財法は土地の私有化を認める内容のため、これを律令体制の崩壊の兆しと捉える意見もあります。律令体制とは、租・庸・調など税の負担を強制する代わりとして一定の広さの耕地を保障する制度ですから、耕地が私有地になるとすると確かに意味合いは変わってきますね。

さて、こうして発令された墾田永年私財法ですがもちろんいくつかの決まりもあり、好きな時に土地を得て好きなように利用できるというわけではないのです。まず、開墾する上で必ず国に申請しなければならないですし、許可が下りた後は3年以内に土地を開発しなければなりません。

また、開墾する場所にもルールが定められていて、公衆の妨げとなる場所での土地の所有は認められませんでした。墾田永年私財法の内容だけで判断すると、いくらでも土地を好きなように所有できるように思えますが、そんなことになってしまえば国家は成り立たず、実際にはこのような決まり事がありました。

収穫に必要となる資金

墾田永年私財法によって全ての農民の収穫がはかどったわけではありません。確かに、開墾した土地には永代の私財化が許可されましたが、中には収穫に恵まれなかった土地もあったようです。米も野菜もただ植えれば育つというものではなく、収穫するには整備が必要になります。

まずは水、これには用水路を作って確保しなければならず、そのためかかる費用は国ではなく自分で支払わなければなりません。このため、せっかく開墾しても資金がなければ収穫につながらず、依然として生活に苦しむままの農民も少なくなかったようですね。

思えば、公地公民制により人々は労働意欲を失っていました。その労働意欲を湧かせて高めるために墾田永年私財法を発令。しかし、労働意欲や労働力だけでは収穫に至らず、収穫に至るためには資金も必要としたのです。つまり、墾田永年私財法で農民の暮らしが豊かになったわけではありませんでした。

\次のページで「貴族や僧侶に対する優遇」を解説!/

貴族や僧侶に対する優遇

image by PIXTA / 41221733

農民以上に多くの土地を開墾できた貴族や僧侶

墾田永年私財法は、貴族や僧侶が優遇された内容になっているのも特徴の一つでしょう。墾田永年私財法の発令以前、充分な年貢を徴収できないことから財政難に陥っていた朝廷、その一方で裕福で余裕のある生活を送っていたのが橘家と藤原家、どちらも高い勢力を持つ貴族です。

朝廷からすれば二つの貴族は羨むべき存在、そこで朝廷は橘家と藤原家の両家に財政の援助を目論みます。そのため貴族や僧侶を優遇させ、農民に比べて多くの土地を開墾できるようにしました。最も、このように優遇するのは開墾の効率を考えればむしろ当然のこともかもしれません。

農民は個人、一方で貴族や僧侶にはたくさんの部下がいましたから、一人個人で行う開墾と大人数で行う開墾では後者の開墾が早く終わるのは明白ですからね。そう考えれば、貴族や僧侶により多くの土地の開墾を許すのは朝廷にとっても都合が良かったのでしょう。

格差の発生

貴族や僧侶への優遇は、朝廷にとって思わぬ事態をもたらしました。優遇された貴族や僧侶はその優遇を活かして次々と土地を開墾していきますが、その広さは朝廷が想像していた範囲を遥かに上回り、結果的に大規模な土地を所有する勢力が誕生したのです。

やがて、このような大規模な土地は荘園と呼ばれるようになりました。さらに、興福寺や東大寺はあまりにも土地を開墾しすぎたため朝廷の中でも僧侶が増えていきます。それは朝廷にとって寺社勢力を高めることになってしまい、後の平安京に遷都を行う理由にもなりました。

一方で農民の暮らしは改善されず、なぜなら収穫してもその分年貢を徴収されてしまっていたからです。ですから、墾田永年私財法の発令後も土地を放棄する農民がいましたし、貴族や寺社はそんな農民に対して生活を約束する代わりに土地を開墾させ、小作人として働かせました。

墾田永年私財法の影響

image by PIXTA / 57796518

\次のページで「荘園、武士の誕生」を解説!/

荘園、武士の誕生

墾田永年私財法が発令されたことにより、公地公民制は崩壊の道を辿っていきました。最も、元々は公地公民制に反対する農民への対策として制定されたのが墾田永年私財法ですから、公地公民制の崩壊は容易に想像できるでしょう。また、貴族や僧侶の私有地となる荘園が誕生しました。

そして、大規模な土地である荘園には護衛が必要となり、その護衛として誕生したのが武士なのです。将来訪れる武家政権の時代では主役の武士ですが、最初は荘園の護衛役を務めていたのですね。それにしても、この状況を良しとしなかったのが朝廷でした。

743年に発令した墾田永年私財法はあまりに加熱しすぎたことで765年に一次中断、寺社を除く一切の墾田私有が禁止となります。しかし772年には再び解禁、これは力を持つ藤原氏や寺院による圧力によるものと考えられており、どうやら完全な朝廷の意思ではなかったようです。

公地公民制の崩壊から荘園制へ

墾田永年私財法はその後の日本の歴史に大きく関連するものを数多く誕生させました。まずは荘園、これは墾田永年私財法によって貴族や僧侶が大規模な私有地を手に入れたのがきっかけで誕生しました。そして、その荘園を護衛するために武士が誕生します。

朝廷は公地公民制を破棄したことで新たな税の徴収方法を模索していきますが、そんな朝廷が目をつけたのが荘園でした。それは実現して、荘園制と呼ばれる制度が誕生することになります。そしてやがては荘園を直接支配する荘園領主や、荘園を開発する開発領主と呼ばれる支配者も生まれました。

ちなみに、公地公民制の時代に農民に貸し与えていた田を口分田と呼んでいましたが、墾田永年私財法が発令されてから開墾された土地は輸租田と呼ばれます。墾田永年私財法はこれだけ多くのものを誕生させるきっかけとなり、また貧富の差を生む要因にもなりました。

荘園や武士は墾田永年私財法の過程で誕生した!

墾田永年私財法を覚えるには、まずなぜこの法令が出されたのかを考えましょう。その答えはこれまでの公地公民制にあり、農民が土地を自分のものにできない不満から考えられたものです。

土地を自分のものにできない農民は農業を放棄、それが朝廷の財政悪化につながったため、その打開策として墾田永年私財法を制定しました。また、初めて荘園や武士が登場する点も要チェックですね。

" /> 荘園と武士はここからスタート「墾田永年私財法」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説 – Study-Z
奈良時代日本史歴史

荘園と武士はここからスタート「墾田永年私財法」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)について勉強していきます。743年のこと、聖武天皇は土地を開墾すればその分だけ自分の土地にできるという墾田永年私財法を定めた。

考えようによっては自分の土地をいくらでも増やせるこの法令、聖武天皇はどのような理由でこれを実施したのか。そこで、今回は墾田永年私財法について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から墾田永年私財法をわかりやすくまとめた。

税の減少を止めたい朝廷

image by PIXTA / 37008498

公地公民制の問題

645年の大化の改新により、日本は公地公民制が採用されました。これは「公地公民」の文字から推測できるとおり、全ての土地と人民は天皇のものであるという考えです。さて、当時の日本の土地の概念は現在とは全く異なり、そもそも土地の所有が許可されていませんでした。

「土地が欲しければお金を支払って購入し、購入した土地を住居やビジネスとして自由に利用する」……これが現在の土地の概念でしょう。しかし、当時は口分田と呼ばれる農地を貸し与えられ、そこで収穫できたものからと呼ばれる税を納めるのが人々の暮らしだったのです。

自分の土地を持てないこの状況は、人々の労働に対する意欲を消失させました。「いくら田を耕してもそこは自分の土地にならない。年貢を納めるのも辛く、それならいっぞ田を耕すのも止めてしまおう!」と考える人が増えてしまい、そのため日本で土地を耕す人は激減。税の減少という問題を引き起こします。

一時的な効果しかなかった三世一身法

税の減少で困るのは税を受け取る側、つまり天皇が存在する朝廷です。朝廷は税の減少を食い止めるための策を考え、そのためには人々に労働意欲を持たせることが必要だと気づきます。そこで723年に三世一身法を発令、これは土地を開墾して田を作った場合、その土地を三世代まで自分の土地にできるというものです。

三世代とはつまり親・子・孫の代までのこと。人々に土地を所有する権利を与えたことで労働意欲が湧くと思いきや、実際にはそうはいかず、なぜなら所詮三世代経過すれば再び土地が失われてしまうからです。ですから効果はあってもそれは一時的なものでしかなく、再び安定した税は得られなくなりました。

税の減少が続く朝廷は火の車、当然現状を維持できるはずがなく、740年になった頃は本格的な財政難に苦しんでしまいます。また、せっかく開墾した土地も返却時期が迫ることで耕されなくなり、再び荒地に戻ってしまうというパターンも稀ではありませんでした。

743年 墾田永年私財法の発令

image by PIXTA / 60263742

\次のページで「赤字続きの朝廷」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: