考えようによっては自分の土地をいくらでも増やせるこの法令、聖武天皇はどのような理由でこれを実施したのか。そこで、今回は墾田永年私財法について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から墾田永年私財法をわかりやすくまとめた。
公地公民制の問題
645年の大化の改新により、日本は公地公民制が採用されました。これは「公地公民」の文字から推測できるとおり、全ての土地と人民は天皇のものであるという考えです。さて、当時の日本の土地の概念は現在とは全く異なり、そもそも土地の所有が許可されていませんでした。
「土地が欲しければお金を支払って購入し、購入した土地を住居やビジネスとして自由に利用する」……これが現在の土地の概念でしょう。しかし、当時は口分田と呼ばれる農地を貸し与えられ、そこで収穫できたものから租と呼ばれる税を納めるのが人々の暮らしだったのです。
自分の土地を持てないこの状況は、人々の労働に対する意欲を消失させました。「いくら田を耕してもそこは自分の土地にならない。年貢を納めるのも辛く、それならいっぞ田を耕すのも止めてしまおう!」と考える人が増えてしまい、そのため日本で土地を耕す人は激減。税の減少という問題を引き起こします。
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一時的な効果しかなかった三世一身法
税の減少で困るのは税を受け取る側、つまり天皇が存在する朝廷です。朝廷は税の減少を食い止めるための策を考え、そのためには人々に労働意欲を持たせることが必要だと気づきます。そこで723年に三世一身法を発令、これは土地を開墾して田を作った場合、その土地を三世代まで自分の土地にできるというものです。
三世代とはつまり親・子・孫の代までのこと。人々に土地を所有する権利を与えたことで労働意欲が湧くと思いきや、実際にはそうはいかず、なぜなら所詮三世代経過すれば再び土地が失われてしまうからです。ですから効果はあってもそれは一時的なものでしかなく、再び安定した税は得られなくなりました。
税の減少が続く朝廷は火の車、当然現状を維持できるはずがなく、740年になった頃は本格的な財政難に苦しんでしまいます。また、せっかく開墾した土地も返却時期が迫ることで耕されなくなり、再び荒地に戻ってしまうというパターンも稀ではありませんでした。
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