その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、八月十八日の政変について5分でわかるようにまとめた。
1-1、八月十八日の政変とは
文久3年(1863年)8月18日の深夜に京都で起こった政変で、薩摩藩が会津藩と同盟し、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦王)、前関白近衛忠煕、右大臣二条斉敬、京都守護職松平容保、京都所司代稲葉正邦らが京都御所に参内して朝議し、三条実美ら尊皇攘夷急進派の公家20余名を参内禁止、長州藩の堺町御門警備の解除及び御所門内への出入り禁止、孝明天皇の大和行幸延期を決定したクーデター。
堺町御門の変、文久の政変と呼ばれることも。翌日には、三条実美、三条西季知、東久世通頓、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、澤宣嘉の7名の急進派公家が、長州藩兵と共に長州に向かった七卿落ちに。
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1-2、八月十八日の政変の背景
安政の大獄を行った大老井伊直弼が安政5年(1860年)桜田門外の変で暗殺以来、幕府の権威は失墜の一途をたどっていましたが、文久2年(1862年)4月、薩摩藩主の父島津久光が軍勢を率いて京都へ入り、権大納言近衛忠房、議奏中山忠能、正親町三条実愛らの公家に働きかけ、安政の大獄の処分者の赦免および復権、前越前福井藩主松平慶永を大老に就任、一橋慶喜を将軍後見に、そして過激派尊攘浪士の取り締まりなどの建白書を提出。
この建白書は孝明天皇に受け入れられて、5月に大原重徳が勅使として江戸へ派遣、6月には久光と薩摩兵が随行して江戸へ入り、幕府と交渉。久光の建白書はほとんど幕府の文久の改革として実現することに。そして、この外様大名の父で無官の久光と朝廷の圧力に屈して改革を行ったことで、幕府の権威はダメージを受け、朝廷の権威が上昇、三条実美らの過激派の若い公卿たちの発言力も増すことに。
また、久光の上洛は実際は公武合体のためだったが、倒幕の挙兵のためとのうわさが広がり、攘夷、討幕、王政復古を目指した過激な志士らが京都に集まり、尊王攘夷の気運が盛り上がったということ。
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1-3、公武合体派と攘夷派
攘夷派というのは、江戸幕府が安政5年(1858年)、不平等条約を欧米列強と締結したため、鎖国下に5つの港を治外法権で開港したことで、列強に植民地化されかねない危機ととらえる考え方。「破約攘夷」「即今攘夷」「大攘夷(開国攘夷)」というヴァリエーションがあるが、とにかく幕府が頼りにならないため、朝廷の権威を借りて解決しようとするもので急進派。公武合体派というのは、朝廷の権威と、幕府及び諸藩を結んで幕藩体制の再編強化をはかろうというもの。
これに対して、ほぼ京都御所の中しかご存じなく、情報がほとんどないために孝明天皇は一貫して佐幕派で、出来ればペリーの黒船来航以前のように幕府が政治を行い、鎖国の状態に戻してほしいと願っておられたということ。
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2-1、事件の発端
文久2年(1862年)12月、文久の改革で京都守護職に就任した会津藩主松平容保が会津藩兵を率いて上洛、着任。将軍後見職の一橋慶喜は翌文久3年(1863年)1月に入京、土佐藩前藩主山内容堂は1月25日、越前福井藩前藩主松平春嶽は2月4日に入京し、将軍徳川家茂は3千の兵を率いて3月4日に上洛。
そして3月11日、長州藩世子毛利元徳(定広)の進言で、攘夷成功祈願の賀茂行幸、関白以下の廷臣に加え、将軍家茂、慶喜の他在京の諸大名は徒歩で随行。これは天皇が将軍や大名よりも上位であることを示すパフォーマンスでもあり、4月11日には石清水八幡宮へも行幸。ここでは、軍神で源氏の守護神である八幡宮の神前で将軍に節刀を賜う儀式が予定、しかし孝明天皇自身が望んでいなかったため、延期を求めたが、議奏の三条実美が無理にでも鳳輦に押し込めて乗せると天皇を脅して決行させたと後に孝明天皇が語られたそう。そして一橋慶喜は将軍家茂を病気を理由に供奉させず、自身は名代として男山の麓まで行ったが、急に眼病を発したと言って引き返したということ。
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