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海援隊を主宰した「坂本龍馬」船中八策を考えた男を歴女が解説

4-8、いろは丸沈没事件発生

 海援隊結成からすぐ、慶応3年(1867年)4月23日、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船いろは丸が、瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突して沈没。

龍馬は万国公法をもとにして紀州藩側の過失を追及し、長崎で「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の流行歌を流行らせるなどアピールして紀州藩を批判。薩摩藩士五代友厚の調停で、紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁などの銃火器35630両、金塊、陶器などの品の賠償金の支払に同意。尚、最近になって沈没したいろは丸が発見されて調査が行われたが、銃は一丁も発見されていないという話。

龍馬は海運通商活動以外に蝦夷地の開拓も構想していたが、海援隊の経済状態はよくなく、土佐藩開成館の長崎商会主任だった岩崎弥太郎は海援隊からの金の無心に苦い思いをしていたということ。

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4-9、船中八策

慶応3年(1867年)6月9日、龍馬はいろは丸事件の談判後、後藤象二郎と土佐藩の藩船夕顔丸で長崎から兵庫へ行き、龍馬が船内で後藤に示したのが、大政奉還、議会開設などをあらわした船中八策で、長岡謙吉が筆記。

明治新政府の綱領の原本となったものだが、龍馬の書いた原文は見つかっていないために創作とする説もあるが、新政府綱領八策の自筆本はあるそう。尚、後藤が自分の建白書として山内容堂に差し出したことは、龍馬も了解済みということ。このときは中岡慎太郎が周旋して乾退助(板垣)らと西郷隆盛らが薩土倒幕を結んだあとで、後藤はその後、薩摩藩の西郷らと土佐藩は龍馬、中岡らと会合、薩土盟約を結ぶことに。

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4-10、土佐へ一時帰郷、そして大政奉還

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邨田丹陵, Tanryō Murata – 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

7月6日、長崎でイギリス軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられたイカロス号が発生。龍馬と後藤は対応のために長崎へ戻り、後藤はイギリス公使パークスと談判したが、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れたということで、後に犯人は福岡藩士金子才吉で事件直後に自刃したことが判明。

イカロス号事件の余波と薩土両藩の思惑の違いで、9月7日に薩土盟約は解消してしまい薩摩は討幕の準備を。 一方、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃を船に積んで土佐へ運び、9月23日に5年半ぶりに故郷で家族と再会。10月9日に龍馬は京都へ行き、容堂の同意を得た後藤は10月3日に二条城で、老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出。将軍慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣を前に大政奉還、翌日に明治天皇に上奏、15日に勅許。
この大政奉還上奏の直前に討幕の密勅が薩摩と長州に下されたが、大政奉還の成立で討幕の大義名分が失われたということ。龍馬は慶喜の大政奉還の覚悟に感激し、慶喜のために命を捨てると叫んだ話は有名。

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4-11、龍馬、新政府の役職を考える

大政奉還後の龍馬は、10月16日、戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を作成。龍馬がこれを西郷に見せたとき、新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名がなく、西郷が不思議に思って聞くと、龍馬は役人などにはならない、「世界の海援隊をやります」と答え、側にいた陸奥陽之助(宗光)が西郷より大きく見えたと後に語ったというのは有名。

また、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄で、龍馬が誰を意図していたのかは謎。

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うむ、世界の海援隊か、かっこいいぞ

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4-12、龍馬、三岡八郎を抜擢後、近江屋で遭難

龍馬は、後藤象二郎の依頼で慶応3年(1867年)10月24日に山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促した後、春嶽に罪人として蟄居中の経済に強い三岡八郎(由利公正)を特別に呼び出してもらって会談、11月5日に帰京。帰京直後、三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙を、11月10日に福井藩士中根雪江宛てに、三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記したそう。

そして、11月15日、龍馬は河原町蛸薬師の醤油商近江屋新助宅の二階にいたところを、陸援隊の中岡慎太郎が訪問、午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところへ十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪、従僕の藤吉が取り次いだが、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入り、龍馬達は帯刀していなかったため、ほとんど即死に近い形で殺害。享年33歳。中岡も2日後に死去。墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎(木戸孝允)が揮毫。高知県護国神社と靖国神社にも祀られているということ。

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4-13、龍馬暗殺の犯人は

当初は新選組の関与が疑われたが、海援隊士たちはいろは丸事件の報復で紀州藩を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人三浦休太郎を襲撃、三浦の護衛の新選組と斬り合いに。

そして慶応4年(1868年)4月、下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長近藤勇は、部隊の小監察の土佐藩士谷干城の強い主張で切腹ではなく斬首となったことも、谷自身は龍馬の名は出さなかったが、有志の徒を殺害したと言及したためであるのは明白。

また、新選組の大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末、龍馬殺害を自白したが、のちに撤回。明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に与頭佐々木只三郎とその部下今井信郎ら6人が龍馬と中岡を殺害したと供述、現在では見廻組犯人説が定説に。

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誰が犯人にせよ、何を考えてたんだろう、まったく

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自由な発想で明治維新に貢献したロマンの男

坂本龍馬は土佐の郷士の生まれで、どうも多動性発達障害か何かで子供の頃はしっかりしなかったようですが、3歳上の乙女姉さんの薫陶の賜物で真っ直ぐ育ち、そして剣術が上手になり江戸へ修業に出て見聞を広め自信も出来と、見違えるように成長。

坂本家は郷士で身分は低いが裕福な家でのびのび育ったせいもあり、龍馬は普通の武士のような型にはまった考え方をせず、勝海舟に出会って見込まれたことで当時の知識人に次々と紹介してもらって話を聞き、頭に入れた情報や知識の本質をつかんで倒幕と倒幕後の新政府の方向性などの構想に役立てることが出来た人。

激動の幕末で活躍したが、龍馬の構想の新政府の樹立直前で暗殺されたのは本当に残念としか言いようがないです。

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angelica