3-1、龍馬、土佐藩を脱藩
土佐藩の挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じ、諸藩の動向調査として、土佐勤王党の同志を四国、中国。九州などへ派遣したが、龍馬も、文久元年(1861年)10月、丸亀藩への剣術修行の名目で土佐を出立し、文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて久坂玄瑞と面会、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されたそう。
龍馬は2月に任務を終えて土佐に帰着したが、薩摩藩主の父島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、吉村虎太郎や沢村惣之丞らが脱藩、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意することに。龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日で、兄権平は龍馬の脱藩を警戒して身内や親戚友人に注意を促したうえに、龍馬の佩刀すべて取り上げたそう。このとき、乙女姉さんが倉庫に忍び入って秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に授けたという逸話も。
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3-2、龍馬、勝海舟と出会う
龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿。 この期間に龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流。 12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともに幕府政事総裁職の前越前福井藩主松平春嶽に拝謁。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並勝海舟への紹介状を受けた龍馬は、門田為之助、近藤長次郎と海舟の屋敷を訪問して門人となることに。
司馬遼太郎著「竜馬がゆく」には、龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、斬ろうとした重太郎の機先を制してその場で海舟の弟子になったという話になっていて、この話は海舟が明治23年に「追賛一話」で語ったものが元ネタ。しかし、春嶽から正式な紹介状をもらっての訪問であり、海舟の日記には、12月29日の千葉重太郎の訪問時、すでに龍馬は弟子であった可能性が高いため、龍馬と千葉重太郎が海舟を斬りに来たというドラマチックな話は、海舟の誇張か記憶違いとされているそう。
龍馬は乙女姉さんへの手紙で、海舟を「日本第一の人物」と称賛していたのは有名。海舟の方も龍馬を見込んだらしく、勝海舟は山内容堂に取りなしてくれたために、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩は赦免となり、さらに土佐藩士の海舟の私塾に入門も追認。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走、土佐藩出身の望月亀弥太らが海舟の門人に。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、3人の浪士に襲われた際、以蔵が一刀のもとに斬り捨てた事件も。
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3-3、龍馬、神戸海軍塾に入塾
勝海舟は海軍設立の必要性を説得するため、将軍家茂らを軍艦「順動丸」に乗艦させて、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け、海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められ、幕府から年3千両の経費の支給されることになったが、龍馬は5月に越前福井藩を訪問し、松平春嶽から不足分の千両を借りたということ。
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3-4、龍馬、再脱藩、横井小楠に出会う
文久3年10月、龍馬は神戸海軍塾塾頭になったが、翌元治元年(1864年)2月、前年に申請した帰国延期申請が拒否され、藩命を無視して帰国を拒絶したため再脱藩に。2月9日、海舟は長州藩の関門海峡封鎖の調停のために長崎出張し龍馬も同行。熊本で龍馬は海舟の紹介で横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈って海軍建設に関する諸提案をしたということ。
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3-5、龍馬、おりょうと出会い内祝言
元治元年(1864年)5月、龍馬は後に妻となる楢崎龍(おりょう)と出会い、懇意の寺田屋の女将お登勢に預けることに。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進、神戸海軍操練所が発足。 6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京都の過激攘夷志士たちを蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話したが、老中水野忠精も承知して資金も集めていたそう。
京都では池田屋事件が勃発、 犠牲になったなかには神戸海軍塾の塾生望月亀弥太と土佐の北添佶摩もいたため、のちに神戸海軍塾では問題に。その後、禁門の変が起こり、長州征伐に四国艦隊下関砲撃事件と長州はカオス状態だったが、おりょうによればこの動乱のさなかの8月1日、龍馬はお龍と内祝言を挙げたということ。
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3-6、龍馬、西郷隆盛に会う
8月中旬、龍馬は海舟の紹介で薩摩の西郷隆盛に初めて面会。龍馬は海舟に西郷について「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評し、海舟は感心したそう。しかし池田屋での望月亀弥太、禁門の変では安岡金馬の長州軍参加を幕府が問題にし、さらに海舟が老中阿部正外の不興を買い、海舟は11月10日に軍艦奉行を罷免に。海舟は龍馬ら塾生の後事を薩摩藩家老小松帯刀を通じ薩摩藩に庇護を依頼、尚、慶応元年(1865年)3月18日、神戸海軍操練所は廃止。
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4-1、亀山社中の誕生
薩摩藩は、龍馬ら塾生の庇護を引き受け、慶応元年(1865年)5月頃、航海術の専門知識を見込んで龍馬らに出資、亀山社中が誕生。亀山社中は商業活動に従事するための株式会社のような近代的な組織で、長崎の小曽根乾堂家を根拠地に、下関の伊藤助太夫家、京都の酢屋に事務所を設置。尚、亀山社中は商業活動で利潤を上げるほか、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を和解させる目的もあって、薩長同盟成立に貢献することに。
4-2、龍馬、薩長同盟に向けて尽力
当時の長州藩は、8月18日の政変以降、薩摩と会津に対する反感が大きかったが、土佐脱藩の中岡慎太郎と土方久元は薩摩、長州が同盟したうえでの武力討幕を実現させたいと画策。
龍馬も同じ思いでいたため、大村藩の志士で桂小五郎と練兵館で一緒だった旧友渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説。渡辺は長州藩と龍馬を周旋、長崎で龍馬と桂を引き合わせ、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを説得、中岡は薩摩で西郷を説得し、慶応元年(1865年)閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、西郷は下関へは向かったものの途中で朝議が幕府の主張する第二次長州征伐を阻止するため、京都へ向かったという中岡の説明に桂は激怒、第一回の会談は失敗に。
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4-3、亀山社中、初仕事で長州に武器を調達
当時、長州藩は第二次長州征伐の準備に武器を調達したいが、薩摩藩は兵糧米が不足していたため、龍馬は薩摩藩名義で武器を調達、それを長州に転売して長州から薩摩へ米を回送する策を提案し合意したのが亀山社中の初仕事。
慶応元年(1865年)8月、亀山社中と龍馬は長崎のグラバー商会から、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を薩摩藩名義で買い付けて長州へ斡旋し、薩長和解の契機に。そして近藤長次郎(当時は上杉宗次郎)の働きで薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名は桜島丸、長州名は乙丑丸)の購入に成功、10月と12月に長州藩と桜島丸条約が結ばれてこの船の運航は亀山社中が委ねられたということ。
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4-4、薩長同盟第2ラウンドで成立
慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷で桂と西郷が会談。しかし話し合いは難航。龍馬が1月20日に下関から京都に到着、まだ盟約が成立していないと驚いたが、桂が長州はこれ以上頭を下げられないと発言。そして薩摩藩は6か条の条文を提示し検討した桂が了承、薩長同盟が結ばれたということ。龍馬はこの締結の場に列席し、盟約成立後に桂は自分の記憶に誤りがないかと龍馬に条文の確認を行って、間違いないと返書したそう。
このときの龍馬の役割がただ立ち会っただけか、交渉をまとめた立役者とするか意見が分かれるということ。
4-5、龍馬、寺田屋で遭難しかけ、治療のため新婚旅行に
盟約成立後の1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士三吉慎蔵と伏見寺田屋で逗留中、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進め、深夜2時ごろ一階で入浴していたおりょうが窓の外に捕り方多数を察知、袷一枚羽織った姿で二階に駆け上がって龍馬らに知らせ、龍馬らは応戦したが負傷して裏から屋外に脱出、薩摩藩に救出されたということ。龍馬は後に兄に宛てた手紙で詳しく報告し、おりょうのおかげで助かったと感謝。
その後、龍馬は西郷のすすめで寺田屋で負った刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することに。2月29日、薩摩藩船三邦丸に便乗して3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留。おりょうと龍馬は温泉療養のほか、霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡ったが、これが日本最初の新婚旅行に。
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4-6、ワイル・ウエフ号遭難
5月1日、薩摩藩からの要請で、長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲に。幕府による第二次長州再征が迫っていたため薩摩は国難真っただ中の長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返したそう。
6月16日に龍馬はユニオン号で下関に寄港し、長州藩の求めで参戦することになり、高杉晋作の指揮で龍馬は小倉藩への渡海作戦でユニオン号で最初で最後の実戦を経験。龍馬は後に兄権平に戦況図つきの長文の手紙で解説。そして帆船ワイルウェフ号が沈没し、ユニオン号も長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなったが、薩摩藩は10月に帆船「大極丸」を亀山社中に供与したということ。
4-7、龍馬、長崎で後藤象二郎と会談し亀山社中が海援隊と改称
土佐藩は、尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清したが、このころ、参政後藤象二郎が責任者となって、長崎で武器弾薬の購入を盛んに行うように。そして航海と通商の専門技術を持ち薩長とも関係の深い龍馬に注目、慶応2年(1866年)11月ごろから溝渕広之丞を介して龍馬と接触、慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤の会談が清風亭で実現。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることになり、4月上旬、亀山社中は海援隊と改称。
海援隊は海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)に加え他藩出身の陸奥陽之助(紀州藩)、白峰駿馬(長岡藩)などで、水夫を加えて約50人に。尚、同時期に中岡慎太郎は陸援隊を結成。
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