今回は坂本龍馬を取り上げるぞ。土佐の出身で幕末の志士でとにかくカッコいいぜよ、しかしはっきり何をしたのか知りたいよな。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大好きな坂本龍馬について思い入れたっぷりに5分でわかるようにまとめた。

1-1、坂本龍馬は土佐の高知の生まれ

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

龍馬は、天保6年(1836年)11月15日、四国の土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士の父八平と母幸の2男として誕生。きょうだいは、22歳年上の長兄の権平、千鶴、栄、乙女の3人の姉で、龍馬は末っ子。尚、龍馬は通称で諱は直柔(なおなり)。偽名として才谷梅太郎なども。

1-2、龍馬の実家は郷士だが豪商の分家で裕福

坂本家は、質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、6代目の直益のときに長男直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興したということ。

土佐藩の武士階級には、山内家についてきた上士と長宗我部家の侍だった下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)で、家老の福岡家の家来、しかし分家の際に才谷屋から多額の財産(今のお金で億単位)を分与されており、非常に裕福だったそう。

1-3、よばあたれ、泣き虫と呼ばれた子供時代

 龍馬が生まれる前の晩、母または父が龍が天を飛ぶ瑞夢を見たため龍馬と命名、また龍馬の背には生まれたときから一塊の怪毛があり、大人になって本人が泥酔したときに、これが名前の由来だと着物を脱いで見せた話も。

弘化3年(1846年)、10歳のときに母幸が死去、父八平の後妻伊与に養育されたが、龍馬は12 、3歳ごろまで寝小便(土佐弁でよばあたれ)がなおらず、いじめられっ子で泣き虫だったそう。漢学の楠山塾に入学したが、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられたとか、先生に見放されたという話もあり、その後は3つ年上の姉乙女が武芸や学問を教えたということ。

1-4、龍馬、剣術で自信をつける

龍馬は、嘉永元年(1848年)12歳から日根野弁治の道場に入門して剣術の小栗流を学び、自分に自信が出来たらしく人が変わったように熱心に稽古、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に小栗流和兵法事目録を取得。

また龍馬は、姉乙女に連れられて継母伊与の前夫の実家の下田屋(川島家)をよく訪れ、長崎や下関の土産話などを聞いたり、珍しい世界地図輸入品を見る機会があったということ。

2-1、龍馬、江戸へ遊学

龍馬の父と兄は龍馬に剣術の才能があるのを喜んで、将来は道場主にしようと考え、小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のため1年間の江戸自費遊学で溝渕広之丞と出立、土佐藩江戸屋敷に寄宿して北辰一刀流の桶町千葉道場に入門。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟、定吉長男で親友となった重太郎、龍馬の婚約者と言われる娘のさな子らと知り合うことに。

2-2、黒船来航後、土佐へ帰国

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龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に。この年龍馬は、当代の軍学家、思想家の佐久間象山の私塾に短期間入学。安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。土佐では中伝目録を取得して日根野道場の師範代に。

また、中浜万次郎の聞き書き「漂巽記略」を編集した絵師河田小龍を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて近藤長次郎、長岡謙吉らを紹介されたそう。

2-3、龍馬再度の江戸留学

安政3年(1856年)9月には再度江戸に留学、大石弥太郎、龍馬と親戚で親友の武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿。安政4年(1857年)8月、龍馬の従兄弟でのちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨が盗みを働き切腹沙汰となったのを逃がした話も。そして 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から北辰一刀流長刀兵法目録を受けて千葉道場の塾頭に、同年9月に土佐へ帰国。

2-4、龍馬、武市半平太の土佐勤王党に加盟

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安政の大獄、そして桜田門外の変とあわただしい世の中となり、親友武市半平太は西国諸藩の情勢を探った後、文久元年(1861年)8月、江戸で土佐勤王党を結成、土佐に戻って192人の同志を募ったが、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟。

\次のページで「3-1、龍馬、土佐藩を脱藩」を解説!/

3-1、龍馬、土佐藩を脱藩

土佐藩の挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じ、諸藩の動向調査として、土佐勤王党の同志を四国、中国。九州などへ派遣したが、龍馬も、文久元年(1861年)10月、丸亀藩への剣術修行の名目で土佐を出立し、文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて久坂玄瑞と面会、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されたそう。

龍馬は2月に任務を終えて土佐に帰着したが、薩摩藩主の父島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、吉村虎太郎や沢村惣之丞らが脱藩、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意することに。龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日で、兄権平は龍馬の脱藩を警戒して身内や親戚友人に注意を促したうえに、龍馬の佩刀すべて取り上げたそう。このとき、乙女姉さんが倉庫に忍び入って秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に授けたという逸話も。

3-2、龍馬、勝海舟と出会う

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不明 - [1] and [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿。 この期間に龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流。 12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともに幕府政事総裁職の前越前福井藩主松平春嶽に拝謁。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並勝海舟への紹介状を受けた龍馬は、門田為之助、近藤長次郎と海舟の屋敷を訪問して門人となることに。

司馬遼太郎著「竜馬がゆく」には、龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、斬ろうとした重太郎の機先を制してその場で海舟の弟子になったという話になっていて、この話は海舟が明治23年に「追賛一話」で語ったものが元ネタ。しかし、春嶽から正式な紹介状をもらっての訪問であり、海舟の日記には、12月29日の千葉重太郎の訪問時、すでに龍馬は弟子であった可能性が高いため、龍馬と千葉重太郎が海舟を斬りに来たというドラマチックな話は、海舟の誇張か記憶違いとされているそう。

龍馬は乙女姉さんへの手紙で、海舟を「日本第一の人物」と称賛していたのは有名。海舟の方も龍馬を見込んだらしく、勝海舟は山内容堂に取りなしてくれたために、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩は赦免となり、さらに土佐藩士の海舟の私塾に入門も追認。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走、土佐藩出身の望月亀弥太らが海舟の門人に。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、3人の浪士に襲われた際、以蔵が一刀のもとに斬り捨てた事件も。

3-3、龍馬、神戸海軍塾に入塾

勝海舟は海軍設立の必要性を説得するため、将軍家茂らを軍艦「順動丸」に乗艦させて、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け、海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められ、幕府から年3千両の経費の支給されることになったが、龍馬は5月に越前福井藩を訪問し、松平春嶽から不足分の千両を借りたということ。

3-4、龍馬、再脱藩、横井小楠に出会う

文久3年10月、龍馬は神戸海軍塾塾頭になったが、翌元治元年(1864年)2月、前年に申請した帰国延期申請が拒否され、藩命を無視して帰国を拒絶したため再脱藩に。2月9日、海舟は長州藩の関門海峡封鎖の調停のために長崎出張し龍馬も同行。熊本で龍馬は海舟の紹介で横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈って海軍建設に関する諸提案をしたということ。

3-5、龍馬、おりょうと出会い内祝言

元治元年(1864年)5月、龍馬は後に妻となる楢崎龍(おりょう)と出会い、懇意の寺田屋の女将お登勢に預けることに。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進、神戸海軍操練所が発足。 6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京都の過激攘夷志士たちを蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話したが、老中水野忠精も承知して資金も集めていたそう。

京都では池田屋事件が勃発、 犠牲になったなかには神戸海軍塾の塾生望月亀弥太と土佐の北添佶摩もいたため、のちに神戸海軍塾では問題に。その後、禁門の変が起こり、長州征伐に四国艦隊下関砲撃事件と長州はカオス状態だったが、おりょうによればこの動乱のさなかの8月1日、龍馬はお龍と内祝言を挙げたということ。

3-6、龍馬、西郷隆盛に会う

8月中旬、龍馬は海舟の紹介で薩摩の西郷隆盛に初めて面会。龍馬は海舟に西郷について「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評し、海舟は感心したそう。しかし池田屋での望月亀弥太、禁門の変では安岡金馬の長州軍参加を幕府が問題にし、さらに海舟が老中阿部正外の不興を買い、海舟は11月10日に軍艦奉行を罷免に。海舟は龍馬ら塾生の後事を薩摩藩家老小松帯刀を通じ薩摩藩に庇護を依頼、尚、慶応元年(1865年)3月18日、神戸海軍操練所は廃止。

4-1、亀山社中の誕生

薩摩藩は、龍馬ら塾生の庇護を引き受け、慶応元年(1865年)5月頃、航海術の専門知識を見込んで龍馬らに出資、亀山社中が誕生。亀山社中は商業活動に従事するための株式会社のような近代的な組織で、長崎の小曽根乾堂家を根拠地に、下関の伊藤助太夫家、京都の酢屋に事務所を設置。尚、亀山社中は商業活動で利潤を上げるほか、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を和解させる目的もあって、薩長同盟成立に貢献することに。

4-2、龍馬、薩長同盟に向けて尽力

当時の長州藩は、8月18日の政変以降、薩摩と会津に対する反感が大きかったが、土佐脱藩の中岡慎太郎と土方久元は薩摩、長州が同盟したうえでの武力討幕を実現させたいと画策。

龍馬も同じ思いでいたため、大村藩の志士で桂小五郎と練兵館で一緒だった旧友渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説。渡辺は長州藩と龍馬を周旋、長崎で龍馬と桂を引き合わせ、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを説得、中岡は薩摩で西郷を説得し、慶応元年(1865年)閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、西郷は下関へは向かったものの途中で朝議が幕府の主張する第二次長州征伐を阻止するため、京都へ向かったという中岡の説明に桂は激怒、第一回の会談は失敗に。

4-3、亀山社中、初仕事で長州に武器を調達

当時、長州藩は第二次長州征伐の準備に武器を調達したいが、薩摩藩は兵糧米が不足していたため、龍馬は薩摩藩名義で武器を調達、それを長州に転売して長州から薩摩へ米を回送する策を提案し合意したのが亀山社中の初仕事。

慶応元年(1865年)8月、亀山社中と龍馬は長崎のグラバー商会から、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を薩摩藩名義で買い付けて長州へ斡旋し、薩長和解の契機に。そして近藤長次郎(当時は上杉宗次郎)の働きで薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名は桜島丸、長州名は乙丑丸)の購入に成功、10月と12月に長州藩と桜島丸条約が結ばれてこの船の運航は亀山社中が委ねられたということ。

4-4、薩長同盟第2ラウンドで成立

慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷で桂と西郷が会談。しかし話し合いは難航。龍馬が1月20日に下関から京都に到着、まだ盟約が成立していないと驚いたが、桂が長州はこれ以上頭を下げられないと発言。そして薩摩藩は6か条の条文を提示し検討した桂が了承、薩長同盟が結ばれたということ。龍馬はこの締結の場に列席し、盟約成立後に桂は自分の記憶に誤りがないかと龍馬に条文の確認を行って、間違いないと返書したそう。

このときの龍馬の役割がただ立ち会っただけか、交渉をまとめた立役者とするか意見が分かれるということ。

4-5、龍馬、寺田屋で遭難しかけ、治療のため新婚旅行に

盟約成立後の1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士三吉慎蔵と伏見寺田屋で逗留中、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進め、深夜2時ごろ一階で入浴していたおりょうが窓の外に捕り方多数を察知、袷一枚羽織った姿で二階に駆け上がって龍馬らに知らせ、龍馬らは応戦したが負傷して裏から屋外に脱出、薩摩藩に救出されたということ。龍馬は後に兄に宛てた手紙で詳しく報告し、おりょうのおかげで助かったと感謝。

その後、龍馬は西郷のすすめで寺田屋で負った刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することに。2月29日、薩摩藩船三邦丸に便乗して3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留。おりょうと龍馬は温泉療養のほか、霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡ったが、これが日本最初の新婚旅行に。

4-6、ワイル・ウエフ号遭難

5月1日、薩摩藩からの要請で、長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲に。幕府による第二次長州再征が迫っていたため薩摩は国難真っただ中の長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返したそう。

6月16日に龍馬はユニオン号で下関に寄港し、長州藩の求めで参戦することになり、高杉晋作の指揮で龍馬は小倉藩への渡海作戦でユニオン号で最初で最後の実戦を経験。龍馬は後に兄権平に戦況図つきの長文の手紙で解説。そして帆船ワイルウェフ号が沈没し、ユニオン号も長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなったが、薩摩藩は10月に帆船「大極丸」を亀山社中に供与したということ。

4-7、龍馬、長崎で後藤象二郎と会談し亀山社中が海援隊と改称

土佐藩は、尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清したが、このころ、参政後藤象二郎が責任者となって、長崎で武器弾薬の購入を盛んに行うように。そして航海と通商の専門技術を持ち薩長とも関係の深い龍馬に注目、慶応2年(1866年)11月ごろから溝渕広之丞を介して龍馬と接触、慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤の会談が清風亭で実現。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることになり、4月上旬、亀山社中は海援隊と改称。


海援隊は海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)に加え他藩出身の陸奥陽之助(紀州藩)、白峰駿馬(長岡藩)などで、水夫を加えて約50人に。尚、同時期に中岡慎太郎は陸援隊を結成。

\次のページで「4-8、いろは丸沈没事件発生」を解説!/

4-8、いろは丸沈没事件発生

 海援隊結成からすぐ、慶応3年(1867年)4月23日、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船いろは丸が、瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突して沈没。

龍馬は万国公法をもとにして紀州藩側の過失を追及し、長崎で「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の流行歌を流行らせるなどアピールして紀州藩を批判。薩摩藩士五代友厚の調停で、紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁などの銃火器35630両、金塊、陶器などの品の賠償金の支払に同意。尚、最近になって沈没したいろは丸が発見されて調査が行われたが、銃は一丁も発見されていないという話。

龍馬は海運通商活動以外に蝦夷地の開拓も構想していたが、海援隊の経済状態はよくなく、土佐藩開成館の長崎商会主任だった岩崎弥太郎は海援隊からの金の無心に苦い思いをしていたということ。

4-9、船中八策

慶応3年(1867年)6月9日、龍馬はいろは丸事件の談判後、後藤象二郎と土佐藩の藩船夕顔丸で長崎から兵庫へ行き、龍馬が船内で後藤に示したのが、大政奉還、議会開設などをあらわした船中八策で、長岡謙吉が筆記。

明治新政府の綱領の原本となったものだが、龍馬の書いた原文は見つかっていないために創作とする説もあるが、新政府綱領八策の自筆本はあるそう。尚、後藤が自分の建白書として山内容堂に差し出したことは、龍馬も了解済みということ。このときは中岡慎太郎が周旋して乾退助(板垣)らと西郷隆盛らが薩土倒幕を結んだあとで、後藤はその後、薩摩藩の西郷らと土佐藩は龍馬、中岡らと会合、薩土盟約を結ぶことに。

4-10、土佐へ一時帰郷、そして大政奉還

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邨田丹陵, Tanryō Murata - 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

7月6日、長崎でイギリス軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられたイカロス号が発生。龍馬と後藤は対応のために長崎へ戻り、後藤はイギリス公使パークスと談判したが、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れたということで、後に犯人は福岡藩士金子才吉で事件直後に自刃したことが判明。

イカロス号事件の余波と薩土両藩の思惑の違いで、9月7日に薩土盟約は解消してしまい薩摩は討幕の準備を。 一方、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃を船に積んで土佐へ運び、9月23日に5年半ぶりに故郷で家族と再会。10月9日に龍馬は京都へ行き、容堂の同意を得た後藤は10月3日に二条城で、老中板倉勝静に大政奉還建白書を提出。将軍慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣を前に大政奉還、翌日に明治天皇に上奏、15日に勅許。
この大政奉還上奏の直前に討幕の密勅が薩摩と長州に下されたが、大政奉還の成立で討幕の大義名分が失われたということ。龍馬は慶喜の大政奉還の覚悟に感激し、慶喜のために命を捨てると叫んだ話は有名。

4-11、龍馬、新政府の役職を考える

大政奉還後の龍馬は、10月16日、戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を作成。龍馬がこれを西郷に見せたとき、新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名がなく、西郷が不思議に思って聞くと、龍馬は役人などにはならない、「世界の海援隊をやります」と答え、側にいた陸奥陽之助(宗光)が西郷より大きく見えたと後に語ったというのは有名。

また、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄で、龍馬が誰を意図していたのかは謎。

4-12、龍馬、三岡八郎を抜擢後、近江屋で遭難

龍馬は、後藤象二郎の依頼で慶応3年(1867年)10月24日に山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促した後、春嶽に罪人として蟄居中の経済に強い三岡八郎(由利公正)を特別に呼び出してもらって会談、11月5日に帰京。帰京直後、三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙を、11月10日に福井藩士中根雪江宛てに、三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記したそう。

そして、11月15日、龍馬は河原町蛸薬師の醤油商近江屋新助宅の二階にいたところを、陸援隊の中岡慎太郎が訪問、午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところへ十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪、従僕の藤吉が取り次いだが、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入り、龍馬達は帯刀していなかったため、ほとんど即死に近い形で殺害。享年33歳。中岡も2日後に死去。墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎(木戸孝允)が揮毫。高知県護国神社と靖国神社にも祀られているということ。

4-13、龍馬暗殺の犯人は

当初は新選組の関与が疑われたが、海援隊士たちはいろは丸事件の報復で紀州藩を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人三浦休太郎を襲撃、三浦の護衛の新選組と斬り合いに。

そして慶応4年(1868年)4月、下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長近藤勇は、部隊の小監察の土佐藩士谷干城の強い主張で切腹ではなく斬首となったことも、谷自身は龍馬の名は出さなかったが、有志の徒を殺害したと言及したためであるのは明白。

また、新選組の大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末、龍馬殺害を自白したが、のちに撤回。明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に与頭佐々木只三郎とその部下今井信郎ら6人が龍馬と中岡を殺害したと供述、現在では見廻組犯人説が定説に。

自由な発想で明治維新に貢献したロマンの男

坂本龍馬は土佐の郷士の生まれで、どうも多動性発達障害か何かで子供の頃はしっかりしなかったようですが、3歳上の乙女姉さんの薫陶の賜物で真っ直ぐ育ち、そして剣術が上手になり江戸へ修業に出て見聞を広め自信も出来と、見違えるように成長。

坂本家は郷士で身分は低いが裕福な家でのびのび育ったせいもあり、龍馬は普通の武士のような型にはまった考え方をせず、勝海舟に出会って見込まれたことで当時の知識人に次々と紹介してもらって話を聞き、頭に入れた情報や知識の本質をつかんで倒幕と倒幕後の新政府の方向性などの構想に役立てることが出来た人。

激動の幕末で活躍したが、龍馬の構想の新政府の樹立直前で暗殺されたのは本当に残念としか言いようがないです。

" /> 海援隊を主宰した「坂本龍馬」船中八策を考えた男を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

海援隊を主宰した「坂本龍馬」船中八策を考えた男を歴女がわかりやすく解説

今回は坂本龍馬を取り上げるぞ。土佐の出身で幕末の志士でとにかくカッコいいぜよ、しかしはっきり何をしたのか知りたいよな。

その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大好きな坂本龍馬について思い入れたっぷりに5分でわかるようにまとめた。

1-1、坂本龍馬は土佐の高知の生まれ

Sakamoto Ryoma.jpg
不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

龍馬は、天保6年(1836年)11月15日、四国の土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士の父八平と母幸の2男として誕生。きょうだいは、22歳年上の長兄の権平、千鶴、栄、乙女の3人の姉で、龍馬は末っ子。尚、龍馬は通称で諱は直柔(なおなり)。偽名として才谷梅太郎なども。

1-2、龍馬の実家は郷士だが豪商の分家で裕福

坂本家は、質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、6代目の直益のときに長男直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興したということ。

土佐藩の武士階級には、山内家についてきた上士と長宗我部家の侍だった下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)で、家老の福岡家の家来、しかし分家の際に才谷屋から多額の財産(今のお金で億単位)を分与されており、非常に裕福だったそう。

1-3、よばあたれ、泣き虫と呼ばれた子供時代

 龍馬が生まれる前の晩、母または父が龍が天を飛ぶ瑞夢を見たため龍馬と命名、また龍馬の背には生まれたときから一塊の怪毛があり、大人になって本人が泥酔したときに、これが名前の由来だと着物を脱いで見せた話も。

弘化3年(1846年)、10歳のときに母幸が死去、父八平の後妻伊与に養育されたが、龍馬は12 、3歳ごろまで寝小便(土佐弁でよばあたれ)がなおらず、いじめられっ子で泣き虫だったそう。漢学の楠山塾に入学したが、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられたとか、先生に見放されたという話もあり、その後は3つ年上の姉乙女が武芸や学問を教えたということ。

1-4、龍馬、剣術で自信をつける

龍馬は、嘉永元年(1848年)12歳から日根野弁治の道場に入門して剣術の小栗流を学び、自分に自信が出来たらしく人が変わったように熱心に稽古、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に小栗流和兵法事目録を取得。

また龍馬は、姉乙女に連れられて継母伊与の前夫の実家の下田屋(川島家)をよく訪れ、長崎や下関の土産話などを聞いたり、珍しい世界地図輸入品を見る機会があったということ。

2-1、龍馬、江戸へ遊学

龍馬の父と兄は龍馬に剣術の才能があるのを喜んで、将来は道場主にしようと考え、小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のため1年間の江戸自費遊学で溝渕広之丞と出立、土佐藩江戸屋敷に寄宿して北辰一刀流の桶町千葉道場に入門。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟、定吉長男で親友となった重太郎、龍馬の婚約者と言われる娘のさな子らと知り合うことに。

2-2、黒船来航後、土佐へ帰国

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龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に。この年龍馬は、当代の軍学家、思想家の佐久間象山の私塾に短期間入学。安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。土佐では中伝目録を取得して日根野道場の師範代に。

また、中浜万次郎の聞き書き「漂巽記略」を編集した絵師河田小龍を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて近藤長次郎、長岡謙吉らを紹介されたそう。

2-3、龍馬再度の江戸留学

安政3年(1856年)9月には再度江戸に留学、大石弥太郎、龍馬と親戚で親友の武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿。安政4年(1857年)8月、龍馬の従兄弟でのちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨が盗みを働き切腹沙汰となったのを逃がした話も。そして 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から北辰一刀流長刀兵法目録を受けて千葉道場の塾頭に、同年9月に土佐へ帰国。

2-4、龍馬、武市半平太の土佐勤王党に加盟

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安政の大獄、そして桜田門外の変とあわただしい世の中となり、親友武市半平太は西国諸藩の情勢を探った後、文久元年(1861年)8月、江戸で土佐勤王党を結成、土佐に戻って192人の同志を募ったが、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟。

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