その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、坂本龍馬は土佐の高知の生まれ
- 1-2、龍馬の実家は郷士だが豪商の分家で裕福
- 1-3、よばあたれ、泣き虫と呼ばれた子供時代
- 1-4、龍馬、剣術で自信をつける
- 2-1、龍馬、江戸へ遊学
- 2-2、黒船来航後、土佐へ帰国
- 2-3、龍馬再度の江戸留学
- 2-4、龍馬、武市半平太の土佐勤王党に加盟
- 3-1、龍馬、土佐藩を脱藩
- 3-2、龍馬、勝海舟と出会う
- 3-3、龍馬、神戸海軍塾に入塾
- 3-4、龍馬、再脱藩、横井小楠に出会う
- 3-5、龍馬、おりょうと出会い内祝言
- 3-6、龍馬、西郷隆盛に会う
- 4-1、亀山社中の誕生
- 4-2、龍馬、薩長同盟に向けて尽力
- 4-3、亀山社中、初仕事で長州に武器を調達
- 4-4、薩長同盟第2ラウンドで成立
- 4-5、龍馬、寺田屋で遭難しかけ、治療のため新婚旅行に
- 4-6、ワイル・ウエフ号遭難
- 4-7、龍馬、長崎で後藤象二郎と会談し亀山社中が海援隊と改称
- 4-8、いろは丸沈没事件発生
- 4-9、船中八策
- 4-10、土佐へ一時帰郷、そして大政奉還
- 4-11、龍馬、新政府の役職を考える
- 4-12、龍馬、三岡八郎を抜擢後、近江屋で遭難
- 4-13、龍馬暗殺の犯人は
- 自由な発想で明治維新に貢献したロマンの男
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大好きな坂本龍馬について思い入れたっぷりに5分でわかるようにまとめた。
1-1、坂本龍馬は土佐の高知の生まれ
龍馬は、天保6年(1836年)11月15日、四国の土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士の父八平と母幸の2男として誕生。きょうだいは、22歳年上の長兄の権平、千鶴、栄、乙女の3人の姉で、龍馬は末っ子。尚、龍馬は通称で諱は直柔(なおなり)。偽名として才谷梅太郎なども。
1-2、龍馬の実家は郷士だが豪商の分家で裕福
坂本家は、質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、6代目の直益のときに長男直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興したということ。
土佐藩の武士階級には、山内家についてきた上士と長宗我部家の侍だった下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)で、家老の福岡家の家来、しかし分家の際に才谷屋から多額の財産(今のお金で億単位)を分与されており、非常に裕福だったそう。
1-3、よばあたれ、泣き虫と呼ばれた子供時代
龍馬が生まれる前の晩、母または父が龍が天を飛ぶ瑞夢を見たため龍馬と命名、また龍馬の背には生まれたときから一塊の怪毛があり、大人になって本人が泥酔したときに、これが名前の由来だと着物を脱いで見せた話も。
弘化3年(1846年)、10歳のときに母幸が死去、父八平の後妻伊与に養育されたが、龍馬は12 、3歳ごろまで寝小便(土佐弁でよばあたれ)がなおらず、いじめられっ子で泣き虫だったそう。漢学の楠山塾に入学したが、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられたとか、先生に見放されたという話もあり、その後は3つ年上の姉乙女が武芸や学問を教えたということ。
1-4、龍馬、剣術で自信をつける
龍馬は、嘉永元年(1848年)12歳から日根野弁治の道場に入門して剣術の小栗流を学び、自分に自信が出来たらしく人が変わったように熱心に稽古、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に小栗流和兵法事目録を取得。
また龍馬は、姉乙女に連れられて継母伊与の前夫の実家の下田屋(川島家)をよく訪れ、長崎や下関の土産話などを聞いたり、珍しい世界地図輸入品を見る機会があったということ。
2-1、龍馬、江戸へ遊学
龍馬の父と兄は龍馬に剣術の才能があるのを喜んで、将来は道場主にしようと考え、小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のため1年間の江戸自費遊学で溝渕広之丞と出立、土佐藩江戸屋敷に寄宿して北辰一刀流の桶町千葉道場に入門。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟、定吉長男で親友となった重太郎、龍馬の婚約者と言われる娘のさな子らと知り合うことに。
2-2、黒船来航後、土佐へ帰国
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に。この年龍馬は、当代の軍学家、思想家の佐久間象山の私塾に短期間入学。安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。土佐では中伝目録を取得して日根野道場の師範代に。
また、中浜万次郎の聞き書き「漂巽記略」を編集した絵師河田小龍を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて近藤長次郎、長岡謙吉らを紹介されたそう。
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2-3、龍馬再度の江戸留学
安政3年(1856年)9月には再度江戸に留学、大石弥太郎、龍馬と親戚で親友の武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿。安政4年(1857年)8月、龍馬の従兄弟でのちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨が盗みを働き切腹沙汰となったのを逃がした話も。そして 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から北辰一刀流長刀兵法目録を受けて千葉道場の塾頭に、同年9月に土佐へ帰国。
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2-4、龍馬、武市半平太の土佐勤王党に加盟
安政の大獄、そして桜田門外の変とあわただしい世の中となり、親友武市半平太は西国諸藩の情勢を探った後、文久元年(1861年)8月、江戸で土佐勤王党を結成、土佐に戻って192人の同志を募ったが、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟。
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