天保の改革は老中首座の水野忠邦が主導して行ったが、その結果は江戸三大改革の中で最も無残なものだった。そこで、今回は天保の改革について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から天保の改革をわかりやすくまとめた。
化政文化の盛り上がり
天保の改革は1841年~1843年にかけて行われた改革で、この改革を主導したのは老中首座の水野忠邦です。ちなみに江戸時代には3度の大きな改革が行われており、最初に1716年の享保の改革、次に1787年の寛政の改革、最後に1841年の天保の改革、つまり天保の改革は江戸三大改革の最後に行われました。
寛政の改革では松平定信が秩序を高めるための厳しい取り締まりを行いましたが、やがて彼が失脚して時が過ぎると江戸の町に活気が戻り、化政文化と呼ばれる時代に突入します。化政文化とは江戸を中心に発展した町人文化で、浮世絵・歌舞伎・川柳などが大流行しました。
葛飾北斎が名を知らしめたのもこの頃で、寛政の改革で松平定信が取り締まった窮屈さは江戸の町から既に消え去り、都心に相応しい元の活気ある町の姿が戻ってきたのです。しかし、その一方で幕府の財政は深刻な状況に陥ってしまい、また外交においても対応を迫られる事態となっていました。
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迫られる幕府の財政改善と外交問題の解決
当時の将軍・徳川家斉は40人の側室を持ち、さらに55人の子供がいるほどの派手な生活を送る人物。当然幕府の財政は圧迫されて火の車となってしまいます。さらに追い打ちをかけるかのように起こった天保の大飢饉により、各地で農民による百姓一揆や打ちこわしが頻発するようになりました。
一揆も大塩平八郎の乱や生田万の乱など大規模なものが多く、国内事情は荒れていたのです。また、そのころは欧米からの貿易依頼も少しずつ増加していき、その影響で大津浜事件、シーボルト事件、モリソン号事件などが起こります。つまり財政も外交も深刻な事態、一刻も早い政治の安定が求められました。
行うべきは幕府の財政改善と外交問題の解決、そのためには再びの大規模な改革が必要でしょう。そんな中、徳川家斉が将軍を退いて徳川家慶が第12代目の将軍に就くと老中首座には水野忠邦が就任、そして水野忠邦は現状の窮地を脱するため1841年に天保の改革を行いました。
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人返し令
まず経済政策ですが、少々紛らわしいのが人返し令です。幕府の収入源は農村から納められた米ですが、飢饉で米の収穫がはかどらないことから、生活のために江戸へと出稼ぎに行く農民が続出。中には農業を放棄して江戸に行く人も少なくなく、江戸の人口は増加していきました。
このように、農村を捨てる農民が多くなったことで農村は人手不足となって米の生産量が低下します。要するに、農村から農民流出問題が勃発してしまい、そこで幕府は人返し令を発令して農民が農村を捨てること、そして江戸へと移住することを禁止しました。
実は、寛政の改革でも旧里帰農令と呼ばれる人返し令とよく似た制度が発令されています。しかし旧里帰農令は強制力のない奨励策なのに対して人返し令は完全な強制、つまり農民の意思関係なく農村放棄と江戸への移住が禁じられたのです。強制か奨励か、これが人返し令と旧里帰農令の大きな違いでしょう。
株仲間の解散
最も、1841年の天保の改革は1843年に終わってしまうため、人返し令は効果を発揮する間もありませんでした。と言うのも人返し令が発令されたのはそもそも1843年、改革の最終年だったためです。他に水野忠邦が経済政策と行ったのは株仲間の解散、これも松平定信が行ったことですね。
物価が上昇して経済が悪くなった原因が株仲間にあると考えた水野忠邦、そこで株仲間を解散させれば自由な価格設定により物価の高騰を防げると思うのでした。しかしこれが全くの逆効果、むしろ物価は逆に高騰してしまい、経済の流れはこれまで以上に悪化してしまいます。
そうなるともはや倹約令に頼るしかなく、支出を抑えて幕府の財政対策を行いました。とは言え、倹約令は享保の改革でも寛政の改革でも行われていますから、幕政として新しいものではありません。享保の改革で最初に倹約令を考えた徳川吉宗と違い、倹約令で水野忠邦が評価されることはなかったでしょう。
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