5-1、ルイ14世の恋愛遍歴
ルイ14世は、王妃マリー・テレーズには全く愛情がなかったと言われていますが、輝かしい女性遍歴は有名。主な寵姫たちをご紹介しますね。
5-2、マゼラン姉妹
ルイ14世の最初の寵姫はマザラン枢機卿の姪マリー・マンチーニで、ルイ14世はスペイン王女との結婚を拒絶してマリーと結婚すると夢中に。しかし国益のかかる政略結婚なので、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせたということ。その後、マザリネットと呼ばれるマゼランの姪の姉妹たちが次々とルイ14世の愛人に。
5-3、アンリエット・ダングルテール
イギリス国王チャールズ1世の娘で母はアンリ4世の娘なので、ルイ14世の従妹。チャールズ1世の処刑後、母とフランスに亡命していたが、王政復古で兄がチャールズ2世となりイギリスに帰国。最初にルイ14世のお妃候補になったが、子供の時の印象が悪くルイ14世は断ったということ。それで弟オルレアン公フィリップと結婚したが、美しくなったアンリエットにルイ14世は惚れてしまい、不倫の仲に。アンリエットの急死(毒殺説も)でこの恋は終わることに。
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5-4、ルイ―ズ・ド・ラ・ヴァリエール
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After Claude Lefèbvre – http://www.banqueimages.crcv.fr/fullscreenimage.aspx?rank=1&numero=MV3540, パブリック・ドメイン, リンクによる
アンリエットの侍女で控えめなルイ―ズは、アンリエットとルイ14世の仲を隠すためのカモフラージュとして選ばれ、ルイ14世はルイ―ズにアタック、最初は嫌がっていたルイ―ズは本気の愛に目覚めたということ。ルイ14世との間に6人の子供が生まれたが、2人が成人したのみ。気の弱いルイ―ズは宮廷生活になじめず何度も修道院へ逃げ入り、そのたびにルイ14世が連れ戻したが、最後は修道院に入ったということ。
5-5、モンテスパン侯爵夫人

Jean Petitot – www.muzeum-czartoryskich.krakow.pl, パブリック・ドメイン, リンクによる
名門貴族の娘として生まれ王妃マリー・テレーズの侍女となり、1663年にモンテスパン侯爵と結婚したフランソワーズ・アテナイスは、ルイ14世の寵姫を狙っていた野心家で、おとなしいルイ―ズ・ド・ラ・ヴァリエールを蹴落として寵姫におさまったということ。ルイ14世の子供を7人も産み、ルイ14世の寵愛を笠に傲慢にふるまうように。
そしてルイ14世の寵愛が、若く美しいマリー・アンジェリクに移ろうとしていた頃、モンテスパン公爵夫人は、当時魔女と呼ばれて黒魔術や堕胎、相続薬と呼ばれる毒殺を請け負っていた、ラ・ヴォワザンという女性に頼り、黒ミサの儀式まで行うことに。
この後、ド・ブランヴィリエ侯爵夫人が主犯の連続毒殺事件があきらかになり、ラ・ヴォワザンつながりでモンテスパン公爵夫人の名前も出てきたため、ルイ14世は自分の子供たちの母親でもあるモンテスパン侯爵夫人の黒ミサの儀式などの醜聞を恐れ、毒殺事件の捜査を中断させ、裁判調書などあらゆる証拠書類も焼却させて証拠隠滅し、モンテスパン侯爵夫人も失寵したということ。
5-6、マントノン夫人
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ピエール・ミニャール – 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる
劇作家のポール・スカロン夫人であったが、モンテスパン侯爵夫人とルイ14世の子供たちの教育係をつとめ、晩年のルイ14世の心を慰めるようになり、政治、信仰、経済を論じ合っていたということ。
1683年、王妃マリー・テレーズが死去後、46歳のルイ14世は3歳年上のマントノン侯爵夫人と秘密結婚、これは私的な結婚で王妃になったわけではないが、ルイ14世は顧問会議を彼女の部屋で行ったりと、夫人はルイ14世の意思決定に影響を与える存在に。
6、ルイ14世の晩年
ルイ14世とマリー・テレーズ王妃との間の嫡出子はほとんどが夭折、唯一成年となった王太子ルイも1711年に死去。王太子の3人の息子でルイ14世の孫である長男のブルゴーニュ公ルイも翌年の1712年に天然痘(または麻疹)で急逝、その長男でルイ14世の曾孫のブルターニュ公ルイまでが夭逝したため、ブルターニュ公の弟で乳母の機転で唯一生き残った幼いアンジュー公が王太子となり、後のルイ15世に。
1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化で死去。彼は死の床に幼い曾孫の王太子を呼んで、「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したということ。
尚、ルイ14世がパリ近郊のサン=ドニ大聖堂に埋葬される際、民衆はルイ14世の死に歓喜して、葬列に罵声を浴びせ石や泥を投げつけたということ。
フランス絶頂期を築いた太陽王
ルイ14世は4歳にして国王として即位、貴族の反乱で母と逃げ回ったこともありおとなしい子供だったはずが、成人後に別人のように尊大になって親政を行い、貴族の力を奪って君臨し、侵略戦争を行い、ベルサイユ宮殿を造営するなど、太陽王と言われた人。
愛人も多く持ち、歴史家が正確に数えるのをギブアップした多数の私生児をもうけたことでも有名、お世辞やお追従が大好きで、朕は国家なりと言い、王権神授説を唱え、国王としての理想像に取りつかれたように74年もの間フランスを統治し大世紀と呼ばれたのは、じつは出生の秘密があったためで、ルイ14世は生まれながらの国王というよりも、自分に自信が持てずことさらに国王として認められたいと強迫観念に苛まれていたという見方もあるそう。ルイ14世に関わる鉄仮面の謎は深まるばかりかも。



