2-1、ルイ14世の行った侵略戦争
これだけの戦争を行えば、後のフランス革命につながる財政悪化も無理ないかも。
2-2、南ネーデルランド戦争
1667年から1668年ルイ14世は、外交的にはフランスの伝統でもあったハプスブルク家との対抗を維持しつつ、領土の拡張を。特に自然国境説を唱え、北西の国境をライン川までにすることを目指して、当時はスペイン支配だった南ネーデルラントを侵略、これはオランダに大きな脅威となったが、オランダ総督ウィレム3世はねばり強く抵抗。ウィレム3世はイギリスの名誉革命でカトリックの国王ジェームズ2世を排除後イギリス国王となったため、イギリス・オランダ連合となってフランスに抵抗。
イギリス対フランスの抗争は、アメリカ新大陸、インドでの植民地戦争とも並行して行われ、第2次英仏百年戦争に突入したということ。
2-3、オランダ戦争
1672年から1678年、イギリスのチャールズ2世との密約で共同でオランダと戦ったが、オランダ総督のウィレム3世は洪水作戦で抵抗、イギリスが脱落したあともルイ14世は戦闘をつづけたため領土を獲得し講和に。
2-4、プファルツ戦争
1688年から1697年、ルイ14世は弟オルレアン公フィリップの2度目の妃であるエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘でカール2世の妹)の相続権を主張し、ドイツのプファルツ選帝侯の継承問題に介入。オランダ、神聖ローマ皇帝、スペイン、スェーデンが「アウクスブルク同盟」を結成して対戦。1689年、名誉革命でオランダ総督ウィレム3世がイギリス王ウィリアム3世となったため、イギリスも同盟に参加。またアメリカ大陸ではイギリスとのウィリアム王戦争が展開。ここから英仏植民地戦争である第2次英仏百年戦争が始まり、両国の対立はナポレオン戦争まで続くことに。
2-5、スペイン継承戦争
1701年から1713年、スペインのハプスブルク家の王位継承問題を巡り、ルイ14世は王妃マリー・テレーズがスペイン王家出身のため、ふたりの間に生まれた長男の息子である孫のフィリップの継承権を主張、イギリス、オランダ、神聖ローマ皇帝、プロイセンと戦争に。同時にアメリカ大陸ではイギリスとの間でアン女王戦争を戦い、1713年、ユトレヒト条約でフィリップはスペイン王フェリペ5世として承認され、翌年の神聖ローマ皇帝とのラシュタット条約では、領土や海外植民地の多くを失うことに。
3-1、ルイ14世の行った国内政治
主なものをあげてみました。
3-2、ナントの勅令の廃止
ルイ14世は、彼自身はそれほどカトリック信仰が篤くはなかったが、1685年、王権神授説に立って一国家一宗教の原則を実現するためにナントの王令を廃止。これはフランスでの新教徒、カルヴァン派の信仰を認めないというもので、厳しい宗教統制に。当時フランスのプロテスタントはルイ13世のリシュリュー枢機卿の時代に厳しい弾圧を受けてかつての勢いはなかったが、都市の商工業者、技術者に信徒が多く、彼らの多くがこのためにフランスからイギリスやスイスに逃れたため、フランスの産業発展は遅れることに。
3-3、王立科学アカデミーの創設
コルベールの提唱で積極的な文化振興策を進め、1666年に王立科学アカデミーを設立し、科学者を保護して新技術の開発を促し、芸術家、学者に対する年金制度を創出。ルイ14世はリシュリュー枢機卿が1635年設立した、詩人、劇作家などの支援学術団体アカデミー・フランセーズの庇護者となって、劇作家のモリエール、「赤頭巾」「長靴をはいた猫」の童話作家のペローら、多くの文学者のパトロンに。またベルサイユ宮殿の内装を担当した画家のルブランを中心に、王立絵画彫刻アカデミーを設立し、芸術家も育成。
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