今回はルイ14世を取り上げるぞ。太陽王でベルサイユ宮殿をつくったんだっけ、どんな人だったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルイ14世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルイ14世はパリ近郊の生まれ

ルイ14世は1638年9月5日にサン=ジェルマン=アン=レー城で誕生。父はルイ13世、母は王妃でスペイン王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリッシュの長男。きょうだいは2年後に生まれた弟のオルレアン公フィリップ。名前はルイ・デュードネ

1-2、ルイ14世の出生の秘密

Louis XIII, Anne of Austria, and their son Louis XIV, flanked by Cardinal Richelieu and the Duchesse de Chevreuse.jpg
unidentified painter from France, パブリック・ドメイン, リンクによる

ルイ14世の両親は23年別居中で不仲、母アンヌは若い頃に数回流産の経験があるが、父ルイ13世はゲイ疑惑もある人。そしてある日、ルイ13世は狩りに出て悪天候に見舞われ、別居中のアンヌの城館に宿泊、9か月後に生れたのがルイ14世。アンヌは妊娠を発表してすぐ修道院へ駆け込んだとか、ルイ・デュードネという名前は、神の賜物という意味だが、父親のない子に付けられる名前だとか、ルイ13世は認知はしたが、それは弟のオルレアン公ジャン・バティスト・ガストンにあとを譲るのが嫌だったかららしく、息子に無関心で、ルイ13世とルイ14世は全く似ていないそう。

このルイ14世の出生の秘密と鉄仮面伝説(顔を仮面で隠されたバスチーユ監獄の貴族階級と思しき謎の囚人)がリンクしているということで、ルイ14世の実の父を巡っては、リシュリュー枢機卿、マゼラン(当時はイタリア在住)など諸説入り乱れているということ。

1-3、ルイ14世、4歳で即位

ルイ14世の父ルイ13世は、王妃アンヌを信用していなかったので、死後に王妃が摂政にならないように、摂政諮問会議の設置を遺言。1643年5月、ルイ13世が41歳で死去後、ルイ14世が4歳で即位、母后アンヌと宰相のマザランはパリ高等法院の支持を受けてルイ13世の遺言を破棄し、摂政諮問会議を廃止、アンヌはマザランを摂政会議の座長で実質宰相に抜擢し全権を委ね、摂政に就任。

イタリア生まれでフランスに帰化したマザラン枢機卿は有能な政治家だったが、貪欲に私財を蓄えたために財政困難で重税に苦しめられ、フランス国民から貴族まで、スペイン生まれの摂政太后アンヌと枢機卿を憎んでいたということだが、このふたりには秘密結婚の疑惑もあり。

1-4、フロンドの乱が勃発

財政悪化により宰相マザランが官僚の減給や増税を断行したために、多くの貴族や市民が反発して、1648年にフロンドの乱が起こり、一部の王族も反乱に荷担してパリが無政府状態となったため、10代前半のルイ14世は二度も母アンヌとパリを逃れて逃亡生活を。1653年、ようやくフロンドの乱が鎮圧。

1-5、ルイ14世、スペイン・ハプスブルグ家のマリー・テレーズと政略結婚

三十年戦争終結後もフランスはスペインとの戦争が継続、フランスはイングランドから軍事支援を受けたために、1658年、ダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟が勝利、翌年、ピレネー条約でピレネー山脈をフランスとスペインの国境と確定し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(フランス語でマリー・テレーズ、母アンヌの姪)と婚約。

1660年の結婚後、マリー・テレーズはスペイン王位継承権を放棄したが、スペインは莫大な持参金の50万金エキュを結局支払わなかったため、後にルイ14世はこの未払いの持参金からマリー・テレーズの王位相続権を主張して、スペイン継承戦争に。

1-6、ルイ14世、親政開始

1661年3月にマザランが死去するとルイ14世は23歳で親政開始、以後は宰相を置かないことを宣言。この親政期に行政機構の整備が行われて、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后、王族、大貴族を排除、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用して大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化。

1665年からは財政部門ではコルベールを登用し、中央集権と重商主義政策を推進、軍政部門ではルーヴォワを重用したということ。また、1667年と1673年の王令では、高等法院から建言権を取り上げて抵抗を排除。地方には、ルイ13世の時代から行われていた地方監察官を派遣して司法、財政、治安維持の権限を与え人数を増大させ、地方総督の大貴族や自治都市の権限を縮小。また地方の名士を監察官の補佐として登用し、監察官の組織も整備して地方の勢力との折り合いもつけて支配を安定化。

職権乱用で莫大な資材を蓄えたとして大蔵卿ニコラ・フーケを断罪し、投獄したことは親政開始の象徴的事件と言われているそう。

\次のページで「2-1、ルイ14世の行った侵略戦争」を解説!/

2-1、ルイ14世の行った侵略戦争

これだけの戦争を行えば、後のフランス革命につながる財政悪化も無理ないかも。

2-2、南ネーデルランド戦争

1667年から1668年ルイ14世は、外交的にはフランスの伝統でもあったハプスブルク家との対抗を維持しつつ、領土の拡張を。特に自然国境説を唱え、北西の国境をライン川までにすることを目指して、当時はスペイン支配だった南ネーデルラントを侵略、これはオランダに大きな脅威となったが、オランダ総督ウィレム3世はねばり強く抵抗。ウィレム3世はイギリスの名誉革命でカトリックの国王ジェームズ2世を排除後イギリス国王となったため、イギリス・オランダ連合となってフランスに抵抗。

イギリス対フランスの抗争は、アメリカ新大陸、インドでの植民地戦争とも並行して行われ、第2次英仏百年戦争に突入したということ。

2-3、オランダ戦争

1672年から1678年、イギリスのチャールズ2世との密約で共同でオランダと戦ったが、オランダ総督のウィレム3世は洪水作戦で抵抗、イギリスが脱落したあともルイ14世は戦闘をつづけたため領土を獲得し講和に。

2-4、プファルツ戦争

1688年から1697年、ルイ14世は弟オルレアン公フィリップの2度目の妃であるエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘でカール2世の妹)の相続権を主張し、ドイツのプファルツ選帝侯の継承問題に介入。オランダ、神聖ローマ皇帝、スペイン、スェーデンが「アウクスブルク同盟」を結成して対戦。1689年、名誉革命でオランダ総督ウィレム3世がイギリス王ウィリアム3世となったため、イギリスも同盟に参加。またアメリカ大陸ではイギリスとのウィリアム王戦争が展開。ここから英仏植民地戦争である第2次英仏百年戦争が始まり、両国の対立はナポレオン戦争まで続くことに。

2-5、スペイン継承戦争

1701年から1713年、スペインのハプスブルク家の王位継承問題を巡り、ルイ14世は王妃マリー・テレーズがスペイン王家出身のため、ふたりの間に生まれた長男の息子である孫のフィリップの継承権を主張、イギリス、オランダ、神聖ローマ皇帝、プロイセンと戦争に。同時にアメリカ大陸ではイギリスとの間でアン女王戦争を戦い、1713年、ユトレヒト条約でフィリップはスペイン王フェリペ5世として承認され、翌年の神聖ローマ皇帝とのラシュタット条約では、領土や海外植民地の多くを失うことに。

3-1、ルイ14世の行った国内政治

主なものをあげてみました。

3-2、ナントの勅令の廃止

ルイ14世は、彼自身はそれほどカトリック信仰が篤くはなかったが、1685年、王権神授説に立って一国家一宗教の原則を実現するためにナントの王令を廃止。これはフランスでの新教徒、カルヴァン派の信仰を認めないというもので、厳しい宗教統制に。当時フランスのプロテスタントはルイ13世のリシュリュー枢機卿の時代に厳しい弾圧を受けてかつての勢いはなかったが、都市の商工業者、技術者に信徒が多く、彼らの多くがこのためにフランスからイギリスやスイスに逃れたため、フランスの産業発展は遅れることに。

3-3、王立科学アカデミーの創設

コルベールの提唱で積極的な文化振興策を進め、1666年に王立科学アカデミーを設立し、科学者を保護して新技術の開発を促し、芸術家、学者に対する年金制度を創出。ルイ14世はリシュリュー枢機卿が1635年設立した、詩人、劇作家などの支援学術団体アカデミー・フランセーズの庇護者となって、劇作家のモリエール、「赤頭巾」「長靴をはいた猫」の童話作家のペローら、多くの文学者のパトロンに。またベルサイユ宮殿の内装を担当した画家のルブランを中心に、王立絵画彫刻アカデミーを設立し、芸術家も育成。

\次のページで「3-4、ベルサイユ宮殿の造営」を解説!/

3-4、ベルサイユ宮殿の造営

image by PIXTA / 14048019

それまでのフランス国王の宮廷は、ルーブル宮やパリ市内の王宮、フォンテーヌブロー宮殿などを移転していたが、ルイ14世は、王家の狩猟地であったパリ郊外のベルサイユに豪華な新宮殿を建設。ルイ14世は「史上最も豪華な宮殿をつくるように」と命令し、親政開始直後の1661年に造営開始し、1682年に未完成であったが王宮を移したということ。2万人の作業員が10年がかりで完成させたということで、ベルサイユ宮殿に貴族や官僚を集めて国王が統治するスタイルが実現。

尚、宮殿内のフレスコ画や彫刻、神の像のモデルはすべてルイ14世の顔だそう。

4-1、ルイ14世の逸話

Louis XIV of France.jpg
イアサント・リゴー - wartburg.edu[dead link], パブリック・ドメイン, リンクによる

4歳から77歳直前まで君臨し、とても勤勉で生活は規則正しく、規則に厳格、武芸や狩猟といった体を動かすことも好み、なんでも起床から就寝まで儀式にして貴族に公開したということですが、様々な逸話があります。

4-2、歯が1本もなかった

ルイ14世の侍医は、歯は全ての病気の温床という説を主張していたため、ルイ14世は、12回も手術を重ねた末、歯を1本残らず抜かれたということで、限られたものしか食べられず、胃腸の調子も良くなく、1日に何回もトイレに行く羽目に。また、ルイ14世は手づかみで食事をしていたということも有名。

4-3、バレエ、踊りが好きだった

ルイ14世は幼いころからバレエを習っていて、4歳の時の即位式典のパーティでも、自身が出演して躍ったという話で、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れたとか、太陽王も、バレエで太陽神アポロンの役を演じたことからだそう。

4-4、身長が低かった

ルイ14世は身長が160wp_ほどしかなく、身長が低いことを気にして、また禿げ始めたときにカツラを使用し、ハイヒールを履いて必要以上に背を高く見えるようにして国王の威厳を保っていたということ。

4-5、ダイヤモンドの価値を高めた

当時の最高の宝石は真珠だったが、ダイヤモンドのカット技術が向上したため、ルイ14世はダイヤモンドを非常に好み、ルイ14世の影響でパールよりもダイヤモンドの方が値段が高くなったそう。

4-6、フランス史上最長在位を誇る

ルイ14世の在位は4歳から72年もの長きにわたったが、これはフランス史上最長だそう。18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」と呼んだということで、中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物のギネスブックの世界記録にも認定されているということ。

\次のページで「5-1、ルイ14世の恋愛遍歴」を解説!/

5-1、ルイ14世の恋愛遍歴

ルイ14世は、王妃マリー・テレーズには全く愛情がなかったと言われていますが、輝かしい女性遍歴は有名。主な寵姫たちをご紹介しますね。

5-2、マゼラン姉妹

ルイ14世の最初の寵姫はマザラン枢機卿の姪マリー・マンチーニで、ルイ14世はスペイン王女との結婚を拒絶してマリーと結婚すると夢中に。しかし国益のかかる政略結婚なので、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせたということ。その後、マザリネットと呼ばれるマゼランの姪の姉妹たちが次々とルイ14世の愛人に。

5-3、アンリエット・ダングルテール

イギリス国王チャールズ1世の娘で母はアンリ4世の娘なので、ルイ14世の従妹。チャールズ1世の処刑後、母とフランスに亡命していたが、王政復古で兄がチャールズ2世となりイギリスに帰国。最初にルイ14世のお妃候補になったが、子供の時の印象が悪くルイ14世は断ったということ。それで弟オルレアン公フィリップと結婚したが、美しくなったアンリエットにルイ14世は惚れてしまい、不倫の仲に。アンリエットの急死(毒殺説も)でこの恋は終わることに。

5-4、ルイ―ズ・ド・ラ・ヴァリエール

LouiseDeLaValliere01.jpg
After Claude Lefèbvre - http://www.banqueimages.crcv.fr/fullscreenimage.aspx?rank=1&numero=MV3540, パブリック・ドメイン, リンクによる

アンリエットの侍女で控えめなルイ―ズは、アンリエットとルイ14世の仲を隠すためのカモフラージュとして選ばれ、ルイ14世はルイ―ズにアタック、最初は嫌がっていたルイ―ズは本気の愛に目覚めたということ。ルイ14世との間に6人の子供が生まれたが、2人が成人したのみ。気の弱いルイ―ズは宮廷生活になじめず何度も修道院へ逃げ入り、そのたびにルイ14世が連れ戻したが、最後は修道院に入ったということ。

5-5、モンテスパン侯爵夫人

Petitot Madame de Montespan.jpg
Jean Petitot - www.muzeum-czartoryskich.krakow.pl, パブリック・ドメイン, リンクによる

名門貴族の娘として生まれ王妃マリー・テレーズの侍女となり、1663年にモンテスパン侯爵と結婚したフランソワーズ・アテナイスは、ルイ14世の寵姫を狙っていた野心家で、おとなしいルイ―ズ・ド・ラ・ヴァリエールを蹴落として寵姫におさまったということ。ルイ14世の子供を7人も産み、ルイ14世の寵愛を笠に傲慢にふるまうように。

そしてルイ14世の寵愛が、若く美しいマリー・アンジェリクに移ろうとしていた頃、モンテスパン公爵夫人は、当時魔女と呼ばれて黒魔術や堕胎、相続薬と呼ばれる毒殺を請け負っていた、ラ・ヴォワザンという女性に頼り、黒ミサの儀式まで行うことに。

この後、ド・ブランヴィリエ侯爵夫人が主犯の連続毒殺事件があきらかになり、ラ・ヴォワザンつながりでモンテスパン公爵夫人の名前も出てきたため、ルイ14世は自分の子供たちの母親でもあるモンテスパン侯爵夫人の黒ミサの儀式などの醜聞を恐れ、毒殺事件の捜査を中断させ、裁判調書などあらゆる証拠書類も焼却させて証拠隠滅し、モンテスパン侯爵夫人も失寵したということ。

5-6、マントノン夫人

Pierre Mignard - Françoise d'Aubigné, marquise de Maintenon (1694).jpg
ピエール・ミニャール - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

劇作家のポール・スカロン夫人であったが、モンテスパン侯爵夫人とルイ14世の子供たちの教育係をつとめ、晩年のルイ14世の心を慰めるようになり、政治、信仰、経済を論じ合っていたということ。

1683年、王妃マリー・テレーズが死去後、46歳のルイ14世は3歳年上のマントノン侯爵夫人と秘密結婚、これは私的な結婚で王妃になったわけではないが、ルイ14世は顧問会議を彼女の部屋で行ったりと、夫人はルイ14世の意思決定に影響を与える存在に。

6、ルイ14世の晩年

ルイ14世とマリー・テレーズ王妃との間の嫡出子はほとんどが夭折、唯一成年となった王太子ルイも1711年に死去。王太子の3人の息子でルイ14世の孫である長男のブルゴーニュ公ルイも翌年の1712年に天然痘(または麻疹)で急逝、その長男でルイ14世の曾孫のブルターニュ公ルイまでが夭逝したため、ブルターニュ公の弟で乳母の機転で唯一生き残った幼いアンジュー公が王太子となり、後のルイ15世に。

1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化で死去。彼は死の床に幼い曾孫の王太子を呼んで、「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したということ。

尚、ルイ14世がパリ近郊のサン=ドニ大聖堂に埋葬される際、民衆はルイ14世の死に歓喜して、葬列に罵声を浴びせ石や泥を投げつけたということ。

フランス絶頂期を築いた太陽王

ルイ14世は4歳にして国王として即位、貴族の反乱で母と逃げ回ったこともありおとなしい子供だったはずが、成人後に別人のように尊大になって親政を行い、貴族の力を奪って君臨し、侵略戦争を行い、ベルサイユ宮殿を造営するなど、太陽王と言われた人。

愛人も多く持ち、歴史家が正確に数えるのをギブアップした多数の私生児をもうけたことでも有名、お世辞やお追従が大好きで、朕は国家なりと言い、王権神授説を唱え、国王としての理想像に取りつかれたように74年もの間フランスを統治し大世紀と呼ばれたのは、じつは出生の秘密があったためで、ルイ14世は生まれながらの国王というよりも、自分に自信が持てずことさらに国王として認められたいと強迫観念に苛まれていたという見方もあるそう。ルイ14世に関わる鉄仮面の謎は深まるばかりかも。

" /> 太陽王と呼ばれ絶対王政を確立したフランス国王「ルイ14世」を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
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太陽王と呼ばれ絶対王政を確立したフランス国王「ルイ14世」を歴女がわかりやすく解説

今回はルイ14世を取り上げるぞ。太陽王でベルサイユ宮殿をつくったんだっけ、どんな人だったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルイ14世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルイ14世はパリ近郊の生まれ

ルイ14世は1638年9月5日にサン=ジェルマン=アン=レー城で誕生。父はルイ13世、母は王妃でスペイン王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリッシュの長男。きょうだいは2年後に生まれた弟のオルレアン公フィリップ。名前はルイ・デュードネ

1-2、ルイ14世の出生の秘密

Louis XIII, Anne of Austria, and their son Louis XIV, flanked by Cardinal Richelieu and the Duchesse de Chevreuse.jpg
unidentified painter from France, パブリック・ドメイン, リンクによる

ルイ14世の両親は23年別居中で不仲、母アンヌは若い頃に数回流産の経験があるが、父ルイ13世はゲイ疑惑もある人。そしてある日、ルイ13世は狩りに出て悪天候に見舞われ、別居中のアンヌの城館に宿泊、9か月後に生れたのがルイ14世。アンヌは妊娠を発表してすぐ修道院へ駆け込んだとか、ルイ・デュードネという名前は、神の賜物という意味だが、父親のない子に付けられる名前だとか、ルイ13世は認知はしたが、それは弟のオルレアン公ジャン・バティスト・ガストンにあとを譲るのが嫌だったかららしく、息子に無関心で、ルイ13世とルイ14世は全く似ていないそう。

このルイ14世の出生の秘密と鉄仮面伝説(顔を仮面で隠されたバスチーユ監獄の貴族階級と思しき謎の囚人)がリンクしているということで、ルイ14世の実の父を巡っては、リシュリュー枢機卿、マゼラン(当時はイタリア在住)など諸説入り乱れているということ。

1-3、ルイ14世、4歳で即位

ルイ14世の父ルイ13世は、王妃アンヌを信用していなかったので、死後に王妃が摂政にならないように、摂政諮問会議の設置を遺言。1643年5月、ルイ13世が41歳で死去後、ルイ14世が4歳で即位、母后アンヌと宰相のマザランはパリ高等法院の支持を受けてルイ13世の遺言を破棄し、摂政諮問会議を廃止、アンヌはマザランを摂政会議の座長で実質宰相に抜擢し全権を委ね、摂政に就任。

イタリア生まれでフランスに帰化したマザラン枢機卿は有能な政治家だったが、貪欲に私財を蓄えたために財政困難で重税に苦しめられ、フランス国民から貴族まで、スペイン生まれの摂政太后アンヌと枢機卿を憎んでいたということだが、このふたりには秘密結婚の疑惑もあり。

1-4、フロンドの乱が勃発

財政悪化により宰相マザランが官僚の減給や増税を断行したために、多くの貴族や市民が反発して、1648年にフロンドの乱が起こり、一部の王族も反乱に荷担してパリが無政府状態となったため、10代前半のルイ14世は二度も母アンヌとパリを逃れて逃亡生活を。1653年、ようやくフロンドの乱が鎮圧。

1-5、ルイ14世、スペイン・ハプスブルグ家のマリー・テレーズと政略結婚

三十年戦争終結後もフランスはスペインとの戦争が継続、フランスはイングランドから軍事支援を受けたために、1658年、ダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟が勝利、翌年、ピレネー条約でピレネー山脈をフランスとスペインの国境と確定し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(フランス語でマリー・テレーズ、母アンヌの姪)と婚約。

1660年の結婚後、マリー・テレーズはスペイン王位継承権を放棄したが、スペインは莫大な持参金の50万金エキュを結局支払わなかったため、後にルイ14世はこの未払いの持参金からマリー・テレーズの王位相続権を主張して、スペイン継承戦争に。

1-6、ルイ14世、親政開始

1661年3月にマザランが死去するとルイ14世は23歳で親政開始、以後は宰相を置かないことを宣言。この親政期に行政機構の整備が行われて、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后、王族、大貴族を排除、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用して大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化。

1665年からは財政部門ではコルベールを登用し、中央集権と重商主義政策を推進、軍政部門ではルーヴォワを重用したということ。また、1667年と1673年の王令では、高等法院から建言権を取り上げて抵抗を排除。地方には、ルイ13世の時代から行われていた地方監察官を派遣して司法、財政、治安維持の権限を与え人数を増大させ、地方総督の大貴族や自治都市の権限を縮小。また地方の名士を監察官の補佐として登用し、監察官の組織も整備して地方の勢力との折り合いもつけて支配を安定化。

職権乱用で莫大な資材を蓄えたとして大蔵卿ニコラ・フーケを断罪し、投獄したことは親政開始の象徴的事件と言われているそう。

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