囲い米の制、七分積金
寛政の改革を行ったのは1787年~1793年まで、この改革は江戸三大改革の一つに数えられており、改革を主導したのは老中首座の松平定信でした。まず経済政策ですが、寛政の改革では囲い米の制・七分積金・旧里帰農令などが有名ですね。まず囲い米ですが、これは全国の藩で米を蓄えておく制度です。
当時日本では飢饉で苦しめられることが多く、そのたびに餓死や打ちこわしが起こっていました。そこで松平定信は全国の大名に対して1万石につき50石の備蓄を強制、普段から米を蓄えておくことで飢饉による米不足を解消しようとしたのです。これは現在で言うところの貯金と同じ発想ですね。
次に七分積金、江戸時代では町人は町を運営するための税を支払っていましたが、この税を削減してさらにそのうちの7割を積み立てていったのが七分積金です。これも飢饉への対策となり、また地主や役人の負担軽減、積み立てを増やして救済施設を設置するなど貧困者の救済にもつながりました。
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旧里帰農令
最後に旧里帰農令、これは江戸に流入した貧農を農村に戻るように勧めた法令です。この「勧めた」の表現が実は大きなポイントで、勧めるというのは奨励であって強制ではありません。後の天保の改革では人返し令と呼ばれるこれと似た法令が制定されましたが、人返し令は奨励ではなく強制となりました。
貧農は農業で稼げないため、仕事を求めて江戸に行きます。しかしそうなると2つの問題が起こり、まず1つ目に江戸の人口が増加しすぎてしまうこと、2つ目に農村の人口が減って米の生産量に影響することです。幕府は農民が納める米を財源にしていましたから、米の生産量の低下は絶対に避けなければなりませんでした。
そんな事態に陥らないよう旧里帰農令を発令したのです。最も、前述したように旧里帰農令は奨励策ですから強制力はありません。そのため農村に戻ることを拒む者も少なくなく、流入した多くの貧農は依然江戸に留まったため、政策としての効果はほとんど得られませんでした。
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