今日は寛政の改革(かんせいのかいかく)について勉強していきます。江戸幕府が成立しておよそ100年経過した頃、幕府の財政は悪化してその改善のために享保の改革と呼ばれる改革を行った。

この改革を始まりに江戸時代では幕府が3度の改革を行っており、2度目の改革は寛政の改革と呼ばれる改革です。そこで、今回は寛政の改革について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から寛政の改革をわかりやすくまとめた。

寛政の改革を行うまで

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田沼意次の考え

徳川吉宗が1716年~1746年にかけて行った享保の改革は一定の成果をもたらしたものの、その効果は一時的なものでした。再び迫られる改革の時、そこで幕府の老中・田沼意次は重商主義政策と呼ばれる財政改革を行います。「重商」のキーワードから想像できるとおり、田沼意次の改革は商業を重視した新しい考えでした。

ちなみに、重商主義と対称になるのは農業を重視した重農主義、江戸時代の3度の大きな改革は全て重農主義で考えられています。ですから、徳川吉宗が行った享保の改革も当然重農主義であり、田沼意次は当時この考えに限界を感じていました。

いくら年貢の税率を変えたとしてもそもそも農業は不安定、気候や気温次第では豊作にも凶作にもなってしまうのです。そのため安定した税の徴収に農業は不向きというのが田沼意次の考えになります。そこで田沼意次が目をつけたのは商人と貨幣で、これは当時としては非常に斬新な考えでした。

重商主義政策の成果と結末

同業者の商人達は株仲間と呼ばれるグループを作ります。株仲間は販売する商品に対して価格を自由に設定、当然それが貴重なものであればあるほど価格は高くなるでしょう。しかし、いくら価格が高くても民衆はそれを購入するしかなく、そうすれば株仲間は莫大な利益を手にします。

こうして大儲けする商人達、そこで幕府は商人に対して冥加金と呼ばれる営業税を徴収、商人が利益を上げることで安定した冥加金の徴収が可能となり、幕府の財政を潤したのです。これが田沼意次が行った財政政策で結果は見事成功、田沼意次は田沼時代と称されるほど評価されました。

しかし、そんな田沼意次も賄賂政治の横行や開拓の失敗などによる批判からやがて失脚。そこで新たに財政改革を任されたのが松平定信、彼には白河藩の財政の立て直しに成功した実績がありました。そして1787年、老中首座の松平定信が主導して行ったのが寛政の改革です。

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寛政の改革 ~経済政策~

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囲い米の制、七分積金

寛政の改革を行ったのは1787年~1793年まで、この改革は江戸三大改革の一つに数えられており、改革を主導したのは老中首座の松平定信でした。まず経済政策ですが、寛政の改革では囲い米の制・七分積金・旧里帰農令などが有名ですね。まず囲い米ですが、これは全国の藩で米を蓄えておく制度です。

当時日本では飢饉で苦しめられることが多く、そのたびに餓死や打ちこわしが起こっていました。そこで松平定信は全国の大名に対して1万石につき50石の備蓄を強制、普段から米を蓄えておくことで飢饉による米不足を解消しようとしたのです。これは現在で言うところの貯金と同じ発想ですね。

次に七分積金、江戸時代では町人は町を運営するための税を支払っていましたが、この税を削減してさらにそのうちの7割を積み立てていったのが七分積金です。これも飢饉への対策となり、また地主や役人の負担軽減、積み立てを増やして救済施設を設置するなど貧困者の救済にもつながりました。

旧里帰農令

最後に旧里帰農令、これは江戸に流入した貧農を農村に戻るように勧めた法令です。この「勧めた」の表現が実は大きなポイントで、勧めるというのは奨励であって強制ではありません。後の天保の改革では人返し令と呼ばれるこれと似た法令が制定されましたが、人返し令は奨励ではなく強制となりました。

貧農は農業で稼げないため、仕事を求めて江戸に行きます。しかしそうなると2つの問題が起こり、まず1つ目に江戸の人口が増加しすぎてしまうこと、2つ目に農村の人口が減って米の生産量に影響することです。幕府は農民が納める米を財源にしていましたから、米の生産量の低下は絶対に避けなければなりませんでした。

そんな事態に陥らないよう旧里帰農令を発令したのです。最も、前述したように旧里帰農令は奨励策ですから強制力はありません。そのため農村に戻ることを拒む者も少なくなく、流入した多くの貧農は依然江戸に留まったため、政策としての効果はほとんど得られませんでした。

寛政の改革 ~秩序と救済の政策~

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寛政異学の禁、倹約令

田沼意次の失脚により、幕府の信頼は低下しました。そうなると警戒すべきなのは反乱の発生で、採用する官吏においても裏切る心配のない幕府に忠実な人材を登用しなければなりません。そのため、松平定信は寛政異学の禁を行って朱子学以外の学問を学ぶことを禁止しました。

朱子学とは中国・南宋において朱熹が大成した儒学の一つで、簡単に言えば幕府にとって都合の良い思想を持つ学問だったのです。上下関係の秩序を重んじる朱子学の考えは、反乱の防止と忠実な家臣の育成に役立つと考えたのでしょう。また、これに伴って幕政を批判する類の本の出版も処罰の対象にしました。

さらに倹約令、これは享保の改革でも支出を減らすために行われた政策ですが、松平定信の場合は少々目的が異なります。もちろん支出を減らす目的もあったでしょうが、それ以上に秩序を高めるのを目的としており、絹織物などの贅沢品を身に着けることを禁止しました。

棄捐令

生活に苦しむ旗本や御家人は借金をして、今度はその借金に苦しみます。そこで、松平定信は棄捐令(きえんれい)を制定して借金の取り消しをできるようにしました。正確には借金による利子の引き下げ、そして5年以内の借金が取り消しになる制度です。最も、この解説だと徳政令とイコールに思えるかもしれません。

ただ徳政令と棄捐令には違いがあり、その違いとは制度適用の対象となる職業です。棄捐令は旗本や御家人を救済するための政策……すなわち旗本や御家人が対象となっており、一方の徳政令は時代と共に制度適用の対象が変化しています。棄捐令に最も近いのは、最初の徳政令として出された永仁の徳政令でしょう。

しかし、棄捐令によって旗本や御家人が完全に救われたわけではありません。借金が取り消されたところでその旗本や御家人はお金を借りづらくなりますから、借金しようにもできない旗本や御家人は、むしろ棄捐令に不満を持って犯罪に走ってしまう者も少なくありませんでした。

寛政の改革 ~その他の政策と改革の評判~

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人足寄り場

天明の飢饉によって農村は大打撃を受け、そのため貧農となった人達が江戸へと流れていきました。これに伴う江戸の人口増加、さらには農村の人口減少による米の生産量低下、このような問題解決を図るために旧里帰農令を発令したことは先程解説しましたね。

しかし、江戸の人口増加によって起こった問題はもう一つあり、それは治安の悪化です。農村から江戸に流入した貧農の中には戸籍から外されてしまった人も多く、住む場所を失うことで犯罪が増えて江戸の治安が悪化しました。そこで設立されたのが人足寄場です。

人足寄場では、宿がない人や罪を犯して刑期を終えた人などが集められて収容されていました。また、ただ収容するだけでなく、社会への復帰を目的として職業訓練を受けることもできたのです。そのプログラムはなかなか本格的なもので、当時の時代を考えると人足寄場は世界的にも先進的な施設でした。

不評に終わった寛政の改革

田沼意次の政策と対称的だったものとして、株仲間の解散が挙げられます。田沼意次はむしろ株仲間の結成を認め、物価上昇によって商人を利益を上げさせ、大儲けした商人から税を徴収する方法を考えましたが、松平定信は物価上昇はむしろ経済が安定しなくなると考えました。

さて、こうした松平定信による寛政の改革、庶民の評価は完全な不満と反発でした。特に秩序を高める政策は息苦しく、過剰な風紀の規制によって江戸の町からは活気が失われてしまったのです。その意味では、寛政の改革と松平定信は真面目すぎて堅苦しいのイメージになっていますね。

当時「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と言われる狂歌がありましたが、これは田沼意次の時代を恋しく思う意味が込められています。「田沼恋しき」は文字どおり「田沼時代が恋しい」「白河」は白河藩主を務めた「松平定信」を示すものです。

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松平定信失脚のいきさつ

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尊号一件の発生

寛政の改革に失敗した松平定信が失脚することになったのは、1788年に起こった尊号一件と呼ばれる事件です。松平定信が権力を持っていた頃、天皇の座には光格天皇が就いていましたが、父・典仁親王には天皇の尊号がつけられていませんでした。

尊号とは尊敬される皇族につけられる称号のようなもので、例えば天皇・上皇・皇后などが挙げられます。しかし光格天皇の父は親王となっていて、天皇の父でありながら家臣よりも位が低いという不可思議な状態となっており、これが事件へと発展していくのでした。

光格天皇は父に尊号を与えることを望みますが、そう簡単にはいかず、そのためには幕府の許可が必要だったのです。最も、本来は朝廷と天皇は幕府と将軍に比べて上に立つ立場ですが、武家政権では武士が政治の実権を握っていたため、こうした場合にも幕府の許可を取らなければなりません。

将軍に嫌われた松平定信

光格天皇は幕府の許可を得やすいよう、あからじめ朝廷で多数決をとり、賛成派が多い状況を示して幕府に伝えます。しかし幕府の松平定信がこれを完全に拒否、松平定信からすれば天皇になっていない者に対して尊号は与えられないと拒否したのでしょうが、これによって松平定信と朝廷の関係は悪化しました。

こうして、光格天皇の父への尊号は与えられない結論でひとまず収束。そんな中、光格天皇以外にもやはり父に尊号を与えたいと願っている人物がいました。その人物とは将軍・徳川家斉、徳川家斉の父もまた位が低く、そこで父に対して大御所の尊号を与えたいと考えていたのです。

しかし、天皇が同じ申し出をしてそれを拒否している以上、天皇より下の位の将軍によるその申し出を許可するわけにはいかず、徳川家斉は立場を考慮して諦めました。徳川家斉の怒りの矛先は光格天皇の申し出を許可しなかった松平定信に向けられ、元々お互いの性格が合わないこともあり、嫌われた松平定信は失脚してしまったのです。

松平定信の寛政の改革では秩序を高めようとした!

寛政の改革は松平定信が主導して行ったこと、そして秩序を高めようとしたことがポイントですね。寛政の改革は失敗に終わりましたが、それは必要以上に風紀を取り締まったことによる反発が原因です。

経済政策においては成功した部分もあり、そこだけに注目してしまうとなぜ失敗に終わったのかが理解できなくなってしまいます。他の改革との違いを抑えるためにも、秩序を高めるために風紀の取り締まりを行ったことは覚えておきましょう。

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日本史歴史江戸時代

江戸三大改革の2つ目「寛政の改革」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は寛政の改革(かんせいのかいかく)について勉強していきます。江戸幕府が成立しておよそ100年経過した頃、幕府の財政は悪化してその改善のために享保の改革と呼ばれる改革を行った。

この改革を始まりに江戸時代では幕府が3度の改革を行っており、2度目の改革は寛政の改革と呼ばれる改革です。そこで、今回は寛政の改革について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から寛政の改革をわかりやすくまとめた。

寛政の改革を行うまで

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田沼意次の考え

徳川吉宗が1716年~1746年にかけて行った享保の改革は一定の成果をもたらしたものの、その効果は一時的なものでした。再び迫られる改革の時、そこで幕府の老中・田沼意次は重商主義政策と呼ばれる財政改革を行います。「重商」のキーワードから想像できるとおり、田沼意次の改革は商業を重視した新しい考えでした。

ちなみに、重商主義と対称になるのは農業を重視した重農主義、江戸時代の3度の大きな改革は全て重農主義で考えられています。ですから、徳川吉宗が行った享保の改革も当然重農主義であり、田沼意次は当時この考えに限界を感じていました。

いくら年貢の税率を変えたとしてもそもそも農業は不安定、気候や気温次第では豊作にも凶作にもなってしまうのです。そのため安定した税の徴収に農業は不向きというのが田沼意次の考えになります。そこで田沼意次が目をつけたのは商人と貨幣で、これは当時としては非常に斬新な考えでした。

重商主義政策の成果と結末

同業者の商人達は株仲間と呼ばれるグループを作ります。株仲間は販売する商品に対して価格を自由に設定、当然それが貴重なものであればあるほど価格は高くなるでしょう。しかし、いくら価格が高くても民衆はそれを購入するしかなく、そうすれば株仲間は莫大な利益を手にします。

こうして大儲けする商人達、そこで幕府は商人に対して冥加金と呼ばれる営業税を徴収、商人が利益を上げることで安定した冥加金の徴収が可能となり、幕府の財政を潤したのです。これが田沼意次が行った財政政策で結果は見事成功、田沼意次は田沼時代と称されるほど評価されました。

しかし、そんな田沼意次も賄賂政治の横行や開拓の失敗などによる批判からやがて失脚。そこで新たに財政改革を任されたのが松平定信、彼には白河藩の財政の立て直しに成功した実績がありました。そして1787年、老中首座の松平定信が主導して行ったのが寛政の改革です。

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