平安時代日本史歴史

平安時代に天台宗を開いた「最澄」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

「内供奉十禅師」に任命される

都が平城京から平安京へと変わった三年後、最澄31歳のこと。一乗止観院で修行していた最澄は桓武天皇に呼び出されて平安京を訪れます。そうして、「内供奉十禅師」のひとりに任命されたのでした。

この「内供奉十禅師」は、平たく言うと、宮中の仏事を行う十人の僧侶のことです。宮中で天皇の安穏を祈り、天皇に病があれば看病をし、正月に国家の安泰と五穀豊穣を祈願する御斎会の読経をします。

宮中の大事な仏事や天皇の看病ですから、その辺の僧侶を適当に任命するわけにはいきませんよね。なので、由緒のある南都六宗の僧侶たちが主だったメンバーでした。

聖徳太子の時代から重視された「法華経」

日本に「法華経」が伝来したのは飛鳥時代、聖徳太子が生きていたころです。そのころから「鎮護国家」といって、「仏教が国家を守護して安定させる力がある」という思想が信じられていました。「法華経」は「鎮護国家」の経典として重要視され、諸国の寺院で長い間読経されていたのです。

しかし、南都六宗の「三論宗」「成実宗」「法相宗」「倶舎宗」「華厳宗」「律宗」には「法華経」を中心とする宗派はありませんでした。

ところで、最澄は自分の草庵に「一乗止観院」と名付けるほど「法華経」をよりどころとしていましたね。「内供奉十禅師」任命後には、南都六宗の学僧たちに対して「法華経」の解説を行うほどです。

最澄を大抜擢した桓武天皇は、そういう宗旨違いなところも含めて、最澄を南都六宗に対抗する勢力にできると考えたのでしょうね。

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現代だと「政教分離の原則」から政治に宗教を持ち込むのはご法度だな。しかし、奈良時代末期だとそんなことお構いなしだ。かなりの軋轢が生まれたことだろう。それを払拭するため、桓武天皇は新たに平安京をつくって遷都した。そうして、見出されたのが最澄だ。南都六宗への強い対抗馬になってくれると予想したんだろうな。

2.日本で「天台宗」の開宗

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智顗の開いた「天台宗」

「天台宗」は、「隋(中国)」の智顗(ちぎ)という僧侶が天台山に国清寺を建立して確立されました。「諸経の王」とされる「法華経」をよりどころとし、止観(瞑想)によって悟りを開くとされています。時代は流れ、国が「隋」から「唐」へ変わっても、天台宗は大きな宗派であり続けました。

最澄が本場で天台宗を学びたいと遣唐使の船に加わったのが804年のこと。たった一年だけの短期留学で、通訳に弟子の義真を連れての渡海でした。この留学の間に最澄は法華経を中心とした天台教学、戒律、密教、禅の四つの思想を学んだのです。

また、当時の航海術は未熟で羅針盤(方位磁石)もなく、天気予報もできません。無事にたどり着けるかもわからず、現地で客死する遣唐使も後を絶えませんでした。そんな状況でも「唐」に行けば最先端の文化や技術を持ち帰ることができるのですから、遣唐使は死ぬ覚悟をしてでも価値のある旅だったのです。

帰国後、「天台宗」を開く

短い留学を終えてなんとか無事に日本に帰り着いた最澄は、天台宗から「年分度者」を割り当てるように朝廷に要求します。

毎年出家する僧尼の定員は律令(法律。この場合は僧尼令)で決まっていて、この定員に収まったものを「年分度者」といいます。

ただし、最澄が指した「年分度者」は、宮中で行われる新年の法会にあたる新しい僧侶を年末に出家させることでした。新年の法会にあたる僧侶は、これまですべて南都六宗の僧に割り当てられてきた重要な役目です。

つまり、最澄の要求は、国家の一大プロジェクトに天台宗も関わらせてほしい、ということなんですね。これが叶うと、最澄の一派は南都六宗と並ぶ宗派だと国家に認められることになります。

そうして、「年分度者」の中に天台宗からふたりを加えることになり、最澄は日本に天台宗を開いたのでした。

最澄、40歳の冬のことです。

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