

今回はその「最澄」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。
1.「最澄」と新しい都と仏教界
不明 – 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる
京都にお寺はふたつしかなかった
奈良時代の終わりには「宇佐八幡宮信託事件(道鏡事件)」や「藤原種継暗殺事件」、さらに「早良親王の祟り」と大事件と災害が立て続けに起こり、それらから逃れるために桓武天皇は新たに平安京へと遷都します。
今でこそ京都には多くのお寺があり、観光にも開かれていますね。しかし、遷都した当時は都の入口羅生門の近く、都を左京と右京に分断する朱雀大路を挟んだところに「東寺」と「西寺」のふたつしかありませんでした。奈良の平城京には「南都六宗」と言われる六つの仏教の宗派がありましたが、新しい平安京へは移転させなかったのです。
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出家!いざ比叡山へ
767年、最澄は奈良時代の末期に比叡山のふもと(滋賀県大津市)に生まれます。12歳で近江の国分寺(国営の寺院)に入り、14歳で最初の「授戒」を受けて見習い僧侶となりました。
「授戒」というのは、僧侶になるための儀式のことを指します。この当時は最初に「菩薩戒(大乗戒)」、次に「具足戒」を受け、ふたつをクリアして初めて国家の認める正式な僧侶(官僧)になれました。ひとつめの「菩薩戒」を受けた段階だと見習い僧侶や、在家の仏教徒という扱いで、本当の僧侶ではないのです。
最澄が奈良の東大寺で「具足戒」を受けたのは19歳のときでした。普通、正式な僧侶として認められると、国分寺の僧になります。ところが、彼はそうはならずに比叡山に登り、そこに「一乗止観院」という草庵を建てて薬師如来を祀ったのです。この「一乗止観院」は、のちの「比叡山延暦寺」のもととなった仏堂でした。
思いを込めた「一乗止観院」

最澄が名付けた「一乗止観院」という名前には、彼がよりどころとした「法華経」の性格がよくあらわれています。
頭の「一乗」は「法華一乗」の「一乗」です。インドの大乗仏教では、悟りを開くための三種類の教えと実践方法をそれぞれ「声聞」「縁覚」「菩薩」といい、乗物に例えて「三乗」といいました。この三つを最終的に包括したものが「法華経」だ、という思想が「法華一乗」であり、最澄が開く「天台宗」の中心となる思想です。もう少し簡単な言い方をすると「どんな教えも最終的には「法華経」につながっている」ということですね。
そして「止観」は静かに自分の心を見つめる瞑想法のことで、天台宗の中心的な修行方法となります。
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