平安時代日本史歴史

平安時代に天台宗を開いた「最澄」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

よぉ、桜木健二だ。奈良時代の終わりごろ、平城京の仏教宗派は朝廷の政治にクチバシを入れるようになっていた。それで桓武天皇は平安京へ遷都したんだが、仏教はすでに日本にとってなくてはならないものになっていたんだな。しかし、奈良の仏教に頼ったら元の木阿弥だ。どうせならその辺に対抗できるような新しい宗派がほしい。そうして桓武天皇が目を付けたのが、比叡山で修行していた「最澄」という僧侶だったというわけだ。

今回はその「最澄」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.「最澄」と新しい都と仏教界

最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg
不明 – 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

京都にお寺はふたつしかなかった

奈良時代の終わりには「宇佐八幡宮信託事件(道鏡事件)」や「藤原種継暗殺事件」、さらに「早良親王の祟り」と大事件と災害が立て続けに起こり、それらから逃れるために桓武天皇は新たに平安京へと遷都します。
今でこそ京都には多くのお寺があり、観光にも開かれていますね。しかし、遷都した当時は都の入口羅生門の近く、都を左京と右京に分断する朱雀大路を挟んだところに「東寺」と「西寺」のふたつしかありませんでした。奈良の平城京には「南都六宗」と言われる六つの仏教の宗派がありましたが、新しい平安京へは移転させなかったのです。

出家!いざ比叡山へ

767年、最澄は奈良時代の末期に比叡山のふもと(滋賀県大津市)に生まれます。12歳で近江の国分寺(国営の寺院)に入り、14歳で最初の「授戒」を受けて見習い僧侶となりました。

「授戒」というのは、僧侶になるための儀式のことを指します。この当時は最初に「菩薩戒(大乗戒)」、次に「具足戒」を受け、ふたつをクリアして初めて国家の認める正式な僧侶(官僧)になれました。ひとつめの「菩薩戒」を受けた段階だと見習い僧侶や、在家の仏教徒という扱いで、本当の僧侶ではないのです。

最澄が奈良の東大寺で「具足戒」を受けたのは19歳のときでした。普通、正式な僧侶として認められると、国分寺の僧になります。ところが、彼はそうはならずに比叡山に登り、そこに「一乗止観院」という草庵を建てて薬師如来を祀ったのです。この「一乗止観院」は、のちの「比叡山延暦寺」のもととなった仏堂でした。

思いを込めた「一乗止観院」

image by PIXTA / 32000721

最澄が名付けた「一乗止観院」という名前には、彼がよりどころとした「法華経」の性格がよくあらわれています。

頭の「一乗」は「法華一乗」の「一乗」です。インドの大乗仏教では、悟りを開くための三種類の教えと実践方法をそれぞれ「声聞」「縁覚」「菩薩」といい、乗物に例えて「三乗」といいました。この三つを最終的に包括したものが「法華経」だ、という思想が「法華一乗」であり、最澄が開く「天台宗」の中心となる思想です。もう少し簡単な言い方をすると「どんな教えも最終的には「法華経」につながっている」ということですね。

そして「止観」は静かに自分の心を見つめる瞑想法のことで、天台宗の中心的な修行方法となります。

\次のページで「「内供奉十禅師」に任命される」を解説!/

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