今回はマリー・アントワネットを取り上げるぞ。ベルサイユのばらで有名ですが、本当のところを詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マリー・アントワネットについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘

本名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンで、1755年11月2日にウィーンのホーフブルグ宮殿で誕生。父は神聖ローマ皇帝フランツ1世で、母はオーストリア女帝マリア・テレジア。きょうだいは16人、兄が4人で姉が10人、弟がひとりで、マリー・アントワネットは11女。

1-2、マリー・アントワネットの子供時代

Liotard - Archduchess Maria Antonia - Schönbrunn, Study and Salon of Franz Karl.jpg
ジーン・エティエン・リオタール - http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Maria_Antonia_von_%C3%96sterreich_Kind_Sieben.jpg, http://www.ladyreading.net/marieantoinette/det1-it.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

マリー・アントワネットは大家族で両親の愛のある家庭に育ち、幼いころから家族そろって狩りに出かけ、バレエやオペラを観覧したり演じたりしたということで、3歳年上のマリア・カロリーナがナポリ、シチリア王と結婚するまで同じ部屋で過ごしいちばん仲がよかったそう。

2-1、マリー・アントワネット、フランス王太子と政略結婚

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威もあって、伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係に。そこでマリア・テレジア女帝は、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策。当初は10女のマリア・カロリーナが候補だったが、すぐ上の姉で9女のマリア・ヨーゼファが、1767年ナポリ王との結婚直前に急死したために、急遽マリア・カロリーナがナポリ王と結婚し、11女のマリア・アントーニアがフランスとの政略結婚候補となったということ。

またルイ15世の王太子で ルイ・オーギュストの父ルイ・フェルディナンと母のマリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)が結婚に反対だったが、1765年、ルイ・フェルディナンが亡くなったために、1770年5月16日、マリア・アントーニアは14歳で、王太子となったルイ・オーギュストと結婚、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることに。

2-2、デュバリー夫人と対立

マリー・アントワネットは結婚後すぐに、義理の祖父ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立。これはルイ16世の叔母でルイ15世の独身の娘たちのアデライード、ヴィクトワール、ソフィー王女らの差し金だったということで、信仰篤い母マリア・テレジアの影響で、娼婦や愛妾を嫌っていたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人を徹底的に宮廷内で無視。宮廷では現在も身分が上の人からしか話しかけられない決まりがあるため、身分的にはマリー・アントワネットより下位のデュ・バリー夫人からは声をかけられず、宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派と真っ二つになり、マリー・アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりになったということ。

しかしルイ15世はこの対立に激怒、母マリア・テレジア女帝も外交上の問題もあり、対立をやめるよう忠告され、1771年7月、デュ・バリー夫人に声をかけることになったが、声をかける寸前にアデライード王女が突如マリー・アントワネットの前に来て、ヴィクトワールの部屋で国王陛下をお待ちする時間よと言って引っ張っていったということ。そして改めて1772年1月1日、あらかじめ用意された「今日のヴェルサイユはたいへんな人出ですこと」とデュバリー夫人に声をかけ、この対立問題は終わりとなったそう。その後、マリー・アントワネットはアデライード王女らと距離を置くことに。

2-3、ルイ16世との結婚生活

マリー・アントワネットと夫ルイ16世との夫婦仲は、あまり良好ではなかったということで、結婚7年しても子供が生まれなかった原因は、ルイの方にあり、マリー・アントワネットはそれが原因で、賭博やパリオペラ座での観劇、仮面舞踏会にファッションに膨大なお金を使って気晴らしをしていたということ。

1777年4月、母親マリア・テレジア女帝から送り込まれたマリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が、義弟を説得し、簡単な手術を受けさせたということで、翌年、待望の長女マリー・テレーズ・シャルロットが生まれ、その後は2男2女(2人夭折)が生まれ 、マリー・アントワネットは賭博をやめて母親として子供を可愛がり教育することに熱心になったそう。

\次のページで「2-4、母と娘の往復書簡」を解説!/

2-4、母と娘の往復書簡

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マルティン・ファン・マイテンス - Buchscan, パブリック・ドメイン, リンクによる

母マリア・テレジアは、娘マリー・アントワネットの身を案じて、たびたび手紙を送って戒めたが効果なし。往復書簡は現存していてオーストリア国立公文書館に所蔵されているということで、マリア・テレジアはフランスでの生活の基本的心構えから、ファッション、ヘアスタイル、読書、普段の生活態度に至るまで細かく注意し、ギャンブルはだめ、歯をちゃんと磨くようになどと諭したが、マリー・アントワネットは、フランスではみんなやってるんだもん、と言い訳ばかりしていたよう。

マリア・テレジアは、王妃の勤めの自覚が明らかに足りない娘の行く末を心配、このままいけば、完璧に偉大な存在になるか、非常に不幸になるかのどちらかしかないと語ったということ。

2-5、フランス王妃として宮廷生活を簡素にし大貴族たちと対立

image by PIXTA / 54926890

1774年、ルイ16世の即位でマリー・アントワネットはフランス王妃となり、「神様は私を名門の大公女として生まれさせてくださったのですが、ヨーロッパでもっとも素晴らしい王家のためにあなたの末娘である私を選んだ神の配慮に賛嘆せざるを得ません」と母に書き送ったということ。

そして、ベルサイユ宮殿での窮屈な儀式を見直し、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景の公開や、王妃に直接物を渡してはいけない(王妃の側仕えの人間が地位によって決まり、色々なものを別々の人間が渡すことになっていた)などの儀式を廃止や緩和させたため、貴族の地位で椅子や便器の形状が違う、身分の格差が命の貴族たちの特権を奪ったとされて反感を買うように。

2-6、プチ・トリアノンで農園生活

image by PIXTA / 13938841

またマリー・アントワネットは、結婚の際にプレゼントされた、元々はポンパドゥール夫人のために作られたトリアノン宮殿を田園風に改装し、王妃の村里として家畜用の庭や農場をつくり、農婦のように乳搾りをしたりと子供を育てながら家畜を眺める生活を送るのを楽しんだが、この改装に莫大なお金がかかり、しかも本来のヴェルサイユ宮殿の女主人としての義務を果たさないため、かなり批判を受けることに。

2-7、スウェーデン貴族の恋人も

フランス王妃として宮廷に集まる大貴族や王家の親戚らとうまくやっていく、リーダーシップをとるのではなく、単に自分のお気に入りのポリニャック伯爵夫人らの寵臣に囲まれていたいという自分中心のマリー・アントワネットの行動は、当然のことながらお気に入りに加えてもらえない貴族たちにねたまれるように。

そういう貴族たちが宮廷を去ったルイ16世の叔母のアデライード王女や宮廷を追われたルイ15世の寵姫だったデュ・バリー夫人の居城に集まり、マリー・アントワネットの中傷が行われたということ。またマリー・アントワネットとスウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵との噂や、色々なゴシップ、後の首飾り事件などについても、彼ら反マリー・アントワネットというべき貴族たちの流言飛語や中傷は、その後パリの民衆の憎悪をかき立てることになったそう。

2-8、首飾り事件に巻き込まれる

有名な首飾り事件とは、1785年、革命前夜、ヴァロワ家の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が、王室御用達の宝石商から160万リーブルの首飾りをロアン枢機卿に買わせて、マリー・アントワネットにプレゼントするとだまし取った詐欺事件。

ロアン枢機卿はウィーンの大使館に派遣されたとき、派手な生活態度がマリア・テレジア女帝の反感を買い、娘のマリー・アントワネットにも嫌われていたため、なんとか関係改善して財務総監就任したいという気持ちが詐欺に引っかかったということ。

マリー・アントワネットはもちろん無関係で裁判に持ち込んだが、詐欺仲間はラ・モット伯爵夫人だけが有罪、ロアン枢機卿は無罪となり、マリー・アントワネットの陰謀説がまことしやかにささやかれて王妃の信用失墜につながることに。

3-1、フランス革命勃発

1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、バスチーユ監獄を襲った事件から革命が勃発。マリー・アントワネットが友人だと思っていた取り巻きのポリニャック公爵夫人ら、多大な恩恵を受けたお気に入りの貴族たちは、あっさりと王妃たちを見捨てて国外に逃亡。マリー・アントワネットに最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃、フェルゼン伯爵だけだったということ。

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3-2、フェルゼン伯爵の奔走で脱出するも失敗に

マリー・アントワネット一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に移されたが、フェルセン伯爵の尽力でフランスを脱走し、オーストリアの兄レオポルト2世に助けを求めることに。

1791年6月20日、マリー・アントワネット一家は庶民に変装してパリを脱出。フェルセンはルイ16世とマリー・アントワネットを別々の馬車ではやく脱出するのを勧めたが、マリー・アントワネットは、家族全員一緒と聞かず、豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品、ルイ16世のための酒蔵を積み込むという重装備のため馬車の進行速度がさらに遅れて逃亡計画もうまく進まず、結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚して、パリへ連行されることに。

このヴァレンヌ事件で、ルイ16世とマリー・アントワネットは親国王派だった国民の支持も失うことに。

3-3、タンプル塔へ幽閉、そして処刑に

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After アレクサンドル・クシャルスキ - http://www.ladyreading.net/marieantoinette/big/marie14.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

1792年にフランス革命戦争が勃発、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしていると噂が立ち、8月10日、パリ市民と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃、ルイ16世とマリー・アントワネット、2人の子供たちとルイ16世の妹のエリザベート王女はタンプル塔に幽閉。タンプル塔では家族一緒で楽器を演奏、子供たちに勉強を教えたりなど、束の間の家族団らんの時間もあり、待遇も悪くなかったということ。しかし1793年1月、革命裁判が行われ、ルイ16世に死刑判決が下り、斬首刑。

7月には王位継承者でルイ17世となった6歳のルイ・シャルル王子と引き離されたマリー・アントワネットはタンプル塔の階下に移され、ルイ17世は、後継人となったジャコバン派の靴屋アントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派からすさまじい虐待を受けることに。

マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー監獄に移送、その後裁判が行われたが、マリー・アントワネットはほぼ無罪を主張したため裁判は難航。裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問を行い、なんと「母親に性的行為を強要された」という無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させたが、マリー・アントワネットは傍聴席のすべての女性に対して無実を主張し、大きな共感を呼んだということ。しかし、判決を覆すまでには至らず、10月15日に革命裁判で死刑判決を受け、翌日、現在のコンコルド広場でギロチンにかかって処刑され、享年37歳で死去。

処刑の前日にルイ16世の妹エリザベートに宛てた遺書には、「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」とあるということ。

4-1、マリー・アントワネットの逸話

Marie-Antoinette; koningin der Fransen.jpg
Jean-Baptiste Gautier Dagoty (1740-1786) - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

現在のフランス人のクロワッサンを食べてコーヒーを飲む習慣は、マリー・アントワネットがオーストリアからフランスにもたらしたという話とか、たいへん優雅なお辞儀をする女性だったとか言われていますが、他にも色々な逸話をご紹介しますね。

4-2、モーツァルトとの出会い

あの天才作曲家のモーツァルトは6歳の頃、父と1762年9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジア女帝の御前で演奏、その後宮床で滑って転び、手を取って起こした7歳のマリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんになって」と言ったというエピソードは有名。

4-3、マリー・アントワネットの知性は

マリー・アントワネットの教育は、33歳で博士号を取得し、図書館司書でもあったヴェルモン神父が担当、文学、歴史、フランス語、フランス風習などの教育にあたったが、マリー・アントワネットの勉強はほとんど成果がなく、5分以上集中出来なかったということ。マリー・アントワネットは家庭教師を手懐けて勉強を回避する方法を身に付けていて、勉強するよりおしゃべりになったそう。ヴェルモン神父は、マリー・アントワネットに宿題を出したり講義をするのを諦めて、脈絡のないおしゃべりしか出来なくなったということで、フランス語は確実に進歩したが、知識や教養は身に付かず、生涯1冊の本も読んだことがないと言われるように。

母マリア・テレジアはマリー・アントワネットの性格について、多くの軽薄さ、熱意の不足、自分の意思を押し通そうとする頑なさがあり、誰かが意見をしようとすると巧みにかわす術を身につけている、ものごとに真剣に取り組まない言い訳の達人と認識していたということ。

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4-4、結婚式の際の不吉な前兆

シュテファン・ツヴァイク著の「マリー・アントワネット」によれば、マリー・アントワネットは、結婚証明書にサインするときにペンをひっかけてしみを作ったということですが、ギー・ブルトン著「フランスの歴史を作った女たち」によると、ルイ15世の命令で1週間の祝賀記念行事が行われたが、祝祭の幕引きでルイ15世広場に集まった群衆を前にセーヌ川に花火が打ち上げられ、王太子と王太子妃の名前の頭文字の組み合わせ花火のときに、群衆が押し合いへし合いとなって、死者132名、負傷者数百名の大惨事が起きたそう。マリー・アントワネットはさすがに不吉な予兆を感じて自室に閉じこもって声をあげて泣き、ルイ15世が慰めたという話。

4-5、パンがなければお菓子をとは言わなかった

マリー・アントワネットが、フランス革命前の国民が貧困と食料難に陥ってパンがないと言われて、「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない」と言い、パンが手に入らないほど食糧難なのにお菓子があるわけないだろ、現実を把握していない呆れる発言とされた話は有名ですが、これはルイ15世の娘のヴィクトワール王女の発言とか、他の貴族や王女の発言として、ミートパイの皮を食べればいいじゃないと言った話も存在。

また、フランスではパン屋さんにパンがない場合、他のクロワッサンやブリオッシュなどを同等の値段で売るようにという法律があったから、という意味で言われたという説も。

しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明。ルソーが1766年頃に書いた「告白」では、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられなかったとき家臣に農民にはパンがないと言われて、それならブリオッシュを食べれば、とある大公夫人が答え話を思い出したという記事が載っていて、この話の有力な元ネタだそう。実際は、マリー・アントワネットをねたみ中傷を広めた貴族らの作り話ということで、マリー・アントワネットは飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付し、貴族達から寄付金を集めたりしたこともあるということ。

専制君主の家に生まれ、国家は私有財産的な感覚の名門出身のプライド高い女性

マリー・アントワネットはオーストリアのハプスブルグ王家に生まれ、14歳でフランスに嫁ぎ、18世でフランス王妃になったが、当時はまだ王権神授説が生きた絶対王政の時代で、マリー・アントワネットにとっては当然のような地位だったよう。しかしきちんとした教育を受け、知性や義務感をもっていれば、それなりに宮廷のリーダーとしての役割を果たし、国民に対しても、外国から嫁した自分を客観的に見て正しい対応が出来るはずが、子供の頃から5分と落ち着いて授業を受けられず、一冊の本も読んだことがないと言われ、偉大な母マリア・テレジアがいくら諭しても、言い訳ばかり上手にしていたそう。

夫のルイ16世も結婚当初からマリー・アントワネットには厳しく出来ない人だったようで、怒涛のフランス革命の時代に正しい道が選択ができるはずがなく、結局は断頭台に送られることになったのでした。

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フランスフランス革命ブルボン朝世界史歴史

断頭台に消えた「マリー・アントワネット」を歴女がわかりやすく解説

今回はマリー・アントワネットを取り上げるぞ。ベルサイユのばらで有名ですが、本当のところを詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マリー・アントワネットについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘

本名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンで、1755年11月2日にウィーンのホーフブルグ宮殿で誕生。父は神聖ローマ皇帝フランツ1世で、母はオーストリア女帝マリア・テレジア。きょうだいは16人、兄が4人で姉が10人、弟がひとりで、マリー・アントワネットは11女。

1-2、マリー・アントワネットの子供時代

マリー・アントワネットは大家族で両親の愛のある家庭に育ち、幼いころから家族そろって狩りに出かけ、バレエやオペラを観覧したり演じたりしたということで、3歳年上のマリア・カロリーナがナポリ、シチリア王と結婚するまで同じ部屋で過ごしいちばん仲がよかったそう。

2-1、マリー・アントワネット、フランス王太子と政略結婚

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威もあって、伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係に。そこでマリア・テレジア女帝は、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策。当初は10女のマリア・カロリーナが候補だったが、すぐ上の姉で9女のマリア・ヨーゼファが、1767年ナポリ王との結婚直前に急死したために、急遽マリア・カロリーナがナポリ王と結婚し、11女のマリア・アントーニアがフランスとの政略結婚候補となったということ。

またルイ15世の王太子で ルイ・オーギュストの父ルイ・フェルディナンと母のマリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)が結婚に反対だったが、1765年、ルイ・フェルディナンが亡くなったために、1770年5月16日、マリア・アントーニアは14歳で、王太子となったルイ・オーギュストと結婚、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることに。

2-2、デュバリー夫人と対立

マリー・アントワネットは結婚後すぐに、義理の祖父ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立。これはルイ16世の叔母でルイ15世の独身の娘たちのアデライード、ヴィクトワール、ソフィー王女らの差し金だったということで、信仰篤い母マリア・テレジアの影響で、娼婦や愛妾を嫌っていたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人を徹底的に宮廷内で無視。宮廷では現在も身分が上の人からしか話しかけられない決まりがあるため、身分的にはマリー・アントワネットより下位のデュ・バリー夫人からは声をかけられず、宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派と真っ二つになり、マリー・アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりになったということ。

しかしルイ15世はこの対立に激怒、母マリア・テレジア女帝も外交上の問題もあり、対立をやめるよう忠告され、1771年7月、デュ・バリー夫人に声をかけることになったが、声をかける寸前にアデライード王女が突如マリー・アントワネットの前に来て、ヴィクトワールの部屋で国王陛下をお待ちする時間よと言って引っ張っていったということ。そして改めて1772年1月1日、あらかじめ用意された「今日のヴェルサイユはたいへんな人出ですこと」とデュバリー夫人に声をかけ、この対立問題は終わりとなったそう。その後、マリー・アントワネットはアデライード王女らと距離を置くことに。

2-3、ルイ16世との結婚生活

マリー・アントワネットと夫ルイ16世との夫婦仲は、あまり良好ではなかったということで、結婚7年しても子供が生まれなかった原因は、ルイの方にあり、マリー・アントワネットはそれが原因で、賭博やパリオペラ座での観劇、仮面舞踏会にファッションに膨大なお金を使って気晴らしをしていたということ。

1777年4月、母親マリア・テレジア女帝から送り込まれたマリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が、義弟を説得し、簡単な手術を受けさせたということで、翌年、待望の長女マリー・テレーズ・シャルロットが生まれ、その後は2男2女(2人夭折)が生まれ 、マリー・アントワネットは賭博をやめて母親として子供を可愛がり教育することに熱心になったそう。

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