
その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘
- 1-2、マリー・アントワネットの子供時代
- 2-1、マリー・アントワネット、フランス王太子と政略結婚
- 2-2、デュバリー夫人と対立
- 2-3、ルイ16世との結婚生活
- 2-4、母と娘の往復書簡
- 2-5、フランス王妃として宮廷生活を簡素にし大貴族たちと対立
- 2-6、プチ・トリアノンで農園生活
- 2-7、スウェーデン貴族の恋人も
- 2-8、首飾り事件に巻き込まれる
- 3-1、フランス革命勃発
- 3-2、フェルゼン伯爵の奔走で脱出するも失敗に
- 3-3、タンプル塔へ幽閉、そして処刑に
- 4-1、マリー・アントワネットの逸話
- 4-2、モーツァルトとの出会い
- 4-3、マリー・アントワネットの知性は
- 4-4、結婚式の際の不吉な前兆
- 4-5、パンがなければお菓子をとは言わなかった
- 専制君主の家に生まれ、国家は私有財産的な感覚の名門出身のプライド高い女性
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マリー・アントワネットについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘
本名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンで、1755年11月2日にウィーンのホーフブルグ宮殿で誕生。父は神聖ローマ皇帝フランツ1世で、母はオーストリア女帝マリア・テレジア。きょうだいは16人、兄が4人で姉が10人、弟がひとりで、マリー・アントワネットは11女。
1-2、マリー・アントワネットの子供時代
ジーン・エティエン・リオタール – http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Maria_Antonia_von_%C3%96sterreich_Kind_Sieben.jpg, http://www.ladyreading.net/marieantoinette/det1-it.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
マリー・アントワネットは大家族で両親の愛のある家庭に育ち、幼いころから家族そろって狩りに出かけ、バレエやオペラを観覧したり演じたりしたということで、3歳年上のマリア・カロリーナがナポリ、シチリア王と結婚するまで同じ部屋で過ごしいちばん仲がよかったそう。
2-1、マリー・アントワネット、フランス王太子と政略結婚
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威もあって、伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係に。そこでマリア・テレジア女帝は、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策。当初は10女のマリア・カロリーナが候補だったが、すぐ上の姉で9女のマリア・ヨーゼファが、1767年ナポリ王との結婚直前に急死したために、急遽マリア・カロリーナがナポリ王と結婚し、11女のマリア・アントーニアがフランスとの政略結婚候補となったということ。
またルイ15世の王太子で ルイ・オーギュストの父ルイ・フェルディナンと母のマリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)が結婚に反対だったが、1765年、ルイ・フェルディナンが亡くなったために、1770年5月16日、マリア・アントーニアは14歳で、王太子となったルイ・オーギュストと結婚、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることに。
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2-2、デュバリー夫人と対立
マリー・アントワネットは結婚後すぐに、義理の祖父ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立。これはルイ16世の叔母でルイ15世の独身の娘たちのアデライード、ヴィクトワール、ソフィー王女らの差し金だったということで、信仰篤い母マリア・テレジアの影響で、娼婦や愛妾を嫌っていたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人を徹底的に宮廷内で無視。宮廷では現在も身分が上の人からしか話しかけられない決まりがあるため、身分的にはマリー・アントワネットより下位のデュ・バリー夫人からは声をかけられず、宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派と真っ二つになり、マリー・アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりになったということ。
しかしルイ15世はこの対立に激怒、母マリア・テレジア女帝も外交上の問題もあり、対立をやめるよう忠告され、1771年7月、デュ・バリー夫人に声をかけることになったが、声をかける寸前にアデライード王女が突如マリー・アントワネットの前に来て、ヴィクトワールの部屋で国王陛下をお待ちする時間よと言って引っ張っていったということ。そして改めて1772年1月1日、あらかじめ用意された「今日のヴェルサイユはたいへんな人出ですこと」とデュバリー夫人に声をかけ、この対立問題は終わりとなったそう。その後、マリー・アントワネットはアデライード王女らと距離を置くことに。
2-3、ルイ16世との結婚生活
マリー・アントワネットと夫ルイ16世との夫婦仲は、あまり良好ではなかったということで、結婚7年しても子供が生まれなかった原因は、ルイの方にあり、マリー・アントワネットはそれが原因で、賭博やパリオペラ座での観劇、仮面舞踏会にファッションに膨大なお金を使って気晴らしをしていたということ。
1777年4月、母親マリア・テレジア女帝から送り込まれたマリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が、義弟を説得し、簡単な手術を受けさせたということで、翌年、待望の長女マリー・テレーズ・シャルロットが生まれ、その後は2男2女(2人夭折)が生まれ 、マリー・アントワネットは賭博をやめて母親として子供を可愛がり教育することに熱心になったそう。
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