
ノーコメントに込められた意味
ポツダム宣言は日本に対する降伏要求の最終宣言とも受け取れたため、外務大臣の東郷茂徳はこれを脅威に感じました。「ポツダム宣言を拒否すれば、おそらく重大な事態をもたらしてしまうだろう」……しかし交渉の余地があると考え、ひとまず沈黙すべきと結論を出します。
一方、東郷茂徳の意見に反対したのが陸軍と海軍です。「どのみち国民にも知れ渡ることになるため、それなら抵抗する旨を今の時点で発表すべき」と強気の主張をしますが、最終的に採用されたのは東郷茂徳の意見でした。そして、内容について公式発言を控えることが決定されたのです。
翌日の、首相の鈴木貫太郎が記者会見をすることになりました。ここで鈴木貫太郎が放った一言は「黙殺」、それはノーコメントの意味での黙殺です。しかし考え方次第では「拒否」とも受け取れる黙殺の一言、実際にアメリカにもそのように伝わってしまいました。
広島と長崎への原爆投下
アメリカの大統領は当時ルーズベルトでしたが戦争の勝利間近で急死したため、かわってトルーマンが大統領の座に就きます。さてそのトルーマン、日本のポツダム宣言拒否の知らせを聞いたものの、それに対して驚きはなく、むしろ日本がそのように対応するのは想定内でした。
いや、それどころか日本が拒否の対応を示すことを望んでおり、なぜなら日本に対する原爆投下を既に計画していたからです。日本がポツダム宣言を拒否したとなれば原爆投下を非難されることはない、つまり原爆投下の正当化が成立しますし、その上でポツダム宣言による日本降伏を狙っていました。
1945年8月6日、ポツダム宣言を拒否したとして広島に原爆が投下され、さらにその3日後となる8月9日にも長崎に投下されます。広島と長崎は壊滅的な被害を受け、さらに9日の未明にはソ連軍が国境を突破。締結中だった日ソ中立条約を破棄して満州・朝鮮北部へと一斉になだれこみ、ソ連もまたポツダム宣言に加わりました。
ポツダム宣言の受諾と条件
実はソ連が破棄した日ソ中立条約は日本にとって終戦の切り札であり、ソ連を通じて終戦に至ることを考えていました。しかしソ連が条約を破ったことでそれも不可能、切り札を失った首相の鈴木貫太郎は最高戦争指導会議にて、とうとうポツダム宣言受諾の方針を出したのです。
最も、実際にはこの会議のさなかに長崎への原爆が投下されたのですが、広島に投下された時点でその恐ろしさを充分理解したのでしょう。もちろん会議の出席者全てがポツダム宣言受諾に賛成したわけではなく、陸軍大臣の阿南惟幾だけは戦争継続の主張を訴えていました。
ともあれ、ポツダム宣言受諾の結論に至った日本、ただ受諾においてどのような条件をつけるべきかという点は決まっていません。いくつか候補となる意見が挙がる中、最終判断を委ねられたのは昭和天皇。聖断と呼ばれる昭和天皇の決断は「天皇の地位存続のみを条件とする」でした。
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