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日本に無条件降伏を要求した「ポツダム宣言」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

追い詰められた枢軸国

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対立の図式の完成

日中戦争の長期化で悩む日本、その現状を打破するために快進撃を続けるドイツと同盟締結を希望、既にイタリアもドイツと同盟を締結させていたことから、1940年に日本・ドイツ・イタリアによる日独伊三国軍事同盟が締結。これで「日本・ドイツ・イタリア」対「イギリス・フランス」の図式が成立します。

フランスが降伏していることで圧倒的不利なイギリスでしたが、1941年になるとアメリカがイギリスに援助を開始。これによってドイツはイギリスに苦戦するようになり、攻撃の矛先をソ連の石油資源へと切り替えました。これはソ連にとっては意外な行動、なぜならドイツとは第二次世界大戦前に独ソ不可侵条約を締結させていたからです。

独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に攻撃するドイツ、ソ連もまたこれに対抗します。さらに、アメリカの経済制裁を不服とした日本が真珠湾攻撃を行ってアメリカに宣戦布告。日本と戦争中の中国は当然アメリカ側に就き、こうして「日本・ドイツ・イタリア」対「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」の図式が完成したのです。

ドイツ・イタリアの降伏で追い詰められた日本

枢軸国と呼ばれる「日本・ドイツ・イタリア」に対して連合国と呼ばれる「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」、さて戦争の行方ですが、戦況は一転して連合国が優勢に立ちます。イタリアは連合国軍に上陸されて1943年に降伏、ドイツもソ連とのスターリングラードの戦いに敗北すると1945年に降伏しました。

では、日本の戦況はどうなっているのでしょうか。真珠湾攻撃の奇襲が成功して当初優勢だった日本ですが、1942年のミッドウェー海戦で主力空母を失った日本はたちまち劣勢に立たされます。以後戦いのたびに敗北を繰り返し、日本もまた敗北が濃厚となっている状態でした。

1945年のドイツの降伏により、枢軸国で残っているのは日本のみ。もはや連合国の勝利は確実、そのためドイツ降伏後にアメリカ・イギリス・ソ連の首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を話し合う場がもたれます。そして、首脳達の集まった場はドイツのベルリン近郊にある町……その町の名前はポツダムでした。

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「日本・ドイツ・イタリア」対「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」の図式はこれで理解できただろう。ドイツとイタリアの降伏で追い詰められた日本。その頃、ドイツのポツダムにて戦後処理を話し合う場がもたれた。

ポツダム宣言の発表

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日本に対する無条件降伏の要求

この時点で分かるとおり、ポツダム宣言の「ポツダム」とはドイツの町の名称。第二次世界大戦の戦後処理を話し合う場として選ばれたのがポツダムだったのです。さて、ポツダム宣言では日本に対して無条件降伏の要求を含む13か条が記載されていました。

それは日本にとって不利なものが多く、ただそれは敗戦国の立場を考えれば当然のことでしょう。実際、日清戦争や日露戦争では日本が勝利したため、その後の講和条約は日本に有利にものになっていましたからね。また、中には「日本国民の意思による平和的政府が樹立されること」など、今後の平和を願う要求も記されていました。

ポツダム宣言はアメリカ・イギリス・中国の共同声明として発表されましたが、原案を作成したのはほぼ全てアメリカ、その点からもアメリカの立場と権力がうかがえます。このポツダム宣言が出されたのは1945年7月26日のこと、時差の関係でこれが日本に伝わったのはその翌日でした。

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