今日はポツダム宣言について勉強していきます。1941年に起こった太平洋戦争では、真珠湾攻撃を皮切りに日本優勢で戦争は進むものの、ミッドウェー海戦での敗北をきっかけに戦況は一転する。

やがて戦いと敗北の繰り返しとなる日本。そんな日本に対して出されたのが無条件降伏を要求したポツダム宣言です。そこで、今回はポツダム宣言について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」からポツダム宣言をわかりやすくまとめた。

第二次世界大戦と太平洋戦争

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第二次世界大戦と太平洋戦争の違い

ポツダム宣言を理解するために必要となる知識が第二次世界大戦と太平洋戦争についてですね。そこでまず、これらの戦争について解説していきましょう。第二次世界大戦と太平洋戦争において分かりづらいのは「それぞれの戦争の区別」と「対立の図式」……では区別から解説します。

第二次世界大戦は1939年にドイツがポーランド侵攻を行ったことがきっかけで起こった戦争。そして太平洋戦争は1941年に日本がアメリカに対して真珠湾攻撃を行ったことできっかけで起こった戦争です。つまり、太平洋戦争は第二次世界大戦の中で起こった戦争ということになりますね。

ですから「太平洋戦争=第二次世界大戦」となりますが、「第二次世界大戦=太平洋戦争」ではないのです。ポツダム宣言受託による日本の敗北で第二次世界大戦は終わりますが、それは第二次世界大戦の中で太平洋戦争が最も長引いていたからで、そのため「太平洋戦争の終わり=第二次世界大戦の終わり」となりました。

第二次世界大戦の対立の図式

次に第二次世界大戦の対立の図式についてです。結論から言うと第二次世界大戦の図式は「日本・ドイツ・イタリア」対「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」になります。ただし、これは突如この図式が成立したわけではなく、第二次世界大戦の中で徐々に成立していきました。

まずドイツのポーランド侵攻により、ポーランドに対して安全保障条約を結んだイギリスとフランスがドイツに宣戦布告します。これによって図式は「ドイツ」対「イギリス・フランス」となりました。この時点で優勢だったのはドイツ、快進撃が続いて早々にフランスを降伏させます。

そのドイツの快進撃に加わろうと参戦したのがドイツと同じファシズムを掲げるイタリア、これで「ドイツ・イタリア」対「イギリス・フランス」が成立。さてその頃、日本は中国と日中戦争のと呼ばれる戦争を行っており、この戦争が予想外に長期化したことで悩んでいました。

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追い詰められた枢軸国

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対立の図式の完成

日中戦争の長期化で悩む日本、その現状を打破するために快進撃を続けるドイツと同盟締結を希望、既にイタリアもドイツと同盟を締結させていたことから、1940年に日本・ドイツ・イタリアによる日独伊三国軍事同盟が締結。これで「日本・ドイツ・イタリア」対「イギリス・フランス」の図式が成立します。

フランスが降伏していることで圧倒的不利なイギリスでしたが、1941年になるとアメリカがイギリスに援助を開始。これによってドイツはイギリスに苦戦するようになり、攻撃の矛先をソ連の石油資源へと切り替えました。これはソ連にとっては意外な行動、なぜならドイツとは第二次世界大戦前に独ソ不可侵条約を締結させていたからです。

独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に攻撃するドイツ、ソ連もまたこれに対抗します。さらに、アメリカの経済制裁を不服とした日本が真珠湾攻撃を行ってアメリカに宣戦布告。日本と戦争中の中国は当然アメリカ側に就き、こうして「日本・ドイツ・イタリア」対「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」の図式が完成したのです。

ドイツ・イタリアの降伏で追い詰められた日本

枢軸国と呼ばれる「日本・ドイツ・イタリア」に対して連合国と呼ばれる「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」、さて戦争の行方ですが、戦況は一転して連合国が優勢に立ちます。イタリアは連合国軍に上陸されて1943年に降伏、ドイツもソ連とのスターリングラードの戦いに敗北すると1945年に降伏しました。

では、日本の戦況はどうなっているのでしょうか。真珠湾攻撃の奇襲が成功して当初優勢だった日本ですが、1942年のミッドウェー海戦で主力空母を失った日本はたちまち劣勢に立たされます。以後戦いのたびに敗北を繰り返し、日本もまた敗北が濃厚となっている状態でした。

1945年のドイツの降伏により、枢軸国で残っているのは日本のみ。もはや連合国の勝利は確実、そのためドイツ降伏後にアメリカ・イギリス・ソ連の首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を話し合う場がもたれます。そして、首脳達の集まった場はドイツのベルリン近郊にある町……その町の名前はポツダムでした。

ポツダム宣言の発表

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日本に対する無条件降伏の要求

この時点で分かるとおり、ポツダム宣言の「ポツダム」とはドイツの町の名称。第二次世界大戦の戦後処理を話し合う場として選ばれたのがポツダムだったのです。さて、ポツダム宣言では日本に対して無条件降伏の要求を含む13か条が記載されていました。

それは日本にとって不利なものが多く、ただそれは敗戦国の立場を考えれば当然のことでしょう。実際、日清戦争や日露戦争では日本が勝利したため、その後の講和条約は日本に有利にものになっていましたからね。また、中には「日本国民の意思による平和的政府が樹立されること」など、今後の平和を願う要求も記されていました。

ポツダム宣言はアメリカ・イギリス・中国の共同声明として発表されましたが、原案を作成したのはほぼ全てアメリカ、その点からもアメリカの立場と権力がうかがえます。このポツダム宣言が出されたのは1945年7月26日のこと、時差の関係でこれが日本に伝わったのはその翌日でした。

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ノーコメントに込められた意味

ポツダム宣言は日本に対する降伏要求の最終宣言とも受け取れたため、外務大臣の東郷茂徳はこれを脅威に感じました。「ポツダム宣言を拒否すれば、おそらく重大な事態をもたらしてしまうだろう」……しかし交渉の余地があると考え、ひとまず沈黙すべきと結論を出します。

一方、東郷茂徳の意見に反対したのが陸軍と海軍です。「どのみち国民にも知れ渡ることになるため、それなら抵抗する旨を今の時点で発表すべき」と強気の主張をしますが、最終的に採用されたのは東郷茂徳の意見でした。そして、内容について公式発言を控えることが決定されたのです。

翌日の、首相の鈴木貫太郎が記者会見をすることになりました。ここで鈴木貫太郎が放った一言は「黙殺」、それはノーコメントの意味での黙殺です。しかし考え方次第では「拒否」とも受け取れる黙殺の一言、実際にアメリカにもそのように伝わってしまいました。

ポツダム宣言受諾の決断

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広島と長崎への原爆投下

アメリカの大統領は当時ルーズベルトでしたが戦争の勝利間近で急死したため、かわってトルーマンが大統領の座に就きます。さてそのトルーマン、日本のポツダム宣言拒否の知らせを聞いたものの、それに対して驚きはなく、むしろ日本がそのように対応するのは想定内でした。

いや、それどころか日本が拒否の対応を示すことを望んでおり、なぜなら日本に対する原爆投下を既に計画していたからです。日本がポツダム宣言を拒否したとなれば原爆投下を非難されることはない、つまり原爆投下の正当化が成立しますし、その上でポツダム宣言による日本降伏を狙っていました。

1945年8月6日、ポツダム宣言を拒否したとして広島に原爆が投下され、さらにその3日後となる8月9日にも長崎に投下されます。広島と長崎は壊滅的な被害を受け、さらに9日の未明にはソ連軍が国境を突破。締結中だった日ソ中立条約を破棄して満州・朝鮮北部へと一斉になだれこみ、ソ連もまたポツダム宣言に加わりました。

ポツダム宣言の受諾と条件

実はソ連が破棄した日ソ中立条約は日本にとって終戦の切り札であり、ソ連を通じて終戦に至ることを考えていました。しかしソ連が条約を破ったことでそれも不可能、切り札を失った首相の鈴木貫太郎は最高戦争指導会議にて、とうとうポツダム宣言受諾の方針を出したのです。

最も、実際にはこの会議のさなかに長崎への原爆が投下されたのですが、広島に投下された時点でその恐ろしさを充分理解したのでしょう。もちろん会議の出席者全てがポツダム宣言受諾に賛成したわけではなく、陸軍大臣の阿南惟幾だけは戦争継続の主張を訴えていました。

ともあれ、ポツダム宣言受諾の結論に至った日本、ただ受諾においてどのような条件をつけるべきかという点は決まっていません。いくつか候補となる意見が挙がる中、最終判断を委ねられたのは昭和天皇。聖断と呼ばれる昭和天皇の決断は「天皇の地位存続のみを条件とする」でした。

戦争の終結

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\次のページで「玉音放送」を解説!/

玉音放送

軍の武装解除、戦争責任者の引き渡し、いずれも昭和天皇にとって望むことではありません。しかし既に戦争に勝機はなく、国民を救うためには致し方ないというのが昭和天皇の考えでした。そのため「天皇の地位存続」を条件にしてポツダム宣言受諾を正式に決定、同日終戦が発表されたのです。

日本政府は国民に対して戦争の敗北、ポツダム宣言受諾による降伏を伝えますが、それは昭和天皇が直接国民に語りかけるという異例中の異例とも言える形で放送が流れました。戦前までこのような放送が流されたことは一切なく、この放送は玉音放送と呼ばれています。

ちなみに、ポツダム宣言では日本の無条件降伏が要求されましたが、日本は「天皇の地位存続」という条件を出しました。これについて補足すると、ポツダム宣言における無条件降伏は軍隊を対象に出されたもので国家を対象としておらず、そのため「天皇の地位存続」というのは条件にあたらないと解釈されています。

ヤルタ会談での密約

ポツダム宣言は、1945年の7月にドイツのポツダムにて話し合いの結果生まれたものです。しかし、実はそれ以前となる1945年の2月にヤルタ会談と呼ばれる話し合いが行われており、ここではやはり枢軸国の敗戦後の処理が議題となっていました。

最も、この時はポーランドについての話し合いが大半でしたが、このヤルタ会談にてソ連の対日参戦が秘密裏に決定されていたのです。この秘密の決定はヤルタ協定と呼ばれ、ソ連の対日参戦を強く望んだのはアメリカでした。ただ、ソ連は日本と日ソ中立条約を締結させている立場です。

そこでアメリカはソ連に対して樺太全土の領有を認めるなどの好条件を提示、ソ連のスターリンはそれに応じて対日参戦を約束。絶妙のタイミングでソ連が日ソ中立条約を破棄して攻め込んできたことには、実はこのような秘密のいきさつがあったのです。

「聖断」と「玉音放送」は重要なキーワード!

ポツダム宣言は受諾の決断に至るまでの過程が長く、実際にそれが原爆投下の悲劇を生んだと言っても過言ではありません。ですから、覚える際もポツダム宣言受諾までの流れはしっかり理解しておきましょう。

また、その流れの中に登場する「聖断」は重要なキーワード、これは天皇の決断を意味する言葉です。さらに同じ天皇に関連したことで言えば、国民に降伏を伝えた玉音放送(ぎょくおんほうそう)も覚えておきましょう。

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日本史昭和歴史

日本に無条件降伏を要求した「ポツダム宣言」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日はポツダム宣言について勉強していきます。1941年に起こった太平洋戦争では、真珠湾攻撃を皮切りに日本優勢で戦争は進むものの、ミッドウェー海戦での敗北をきっかけに戦況は一転する。

やがて戦いと敗北の繰り返しとなる日本。そんな日本に対して出されたのが無条件降伏を要求したポツダム宣言です。そこで、今回はポツダム宣言について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」からポツダム宣言をわかりやすくまとめた。

第二次世界大戦と太平洋戦争

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第二次世界大戦と太平洋戦争の違い

ポツダム宣言を理解するために必要となる知識が第二次世界大戦と太平洋戦争についてですね。そこでまず、これらの戦争について解説していきましょう。第二次世界大戦と太平洋戦争において分かりづらいのは「それぞれの戦争の区別」と「対立の図式」……では区別から解説します。

第二次世界大戦は1939年にドイツがポーランド侵攻を行ったことがきっかけで起こった戦争。そして太平洋戦争は1941年に日本がアメリカに対して真珠湾攻撃を行ったことできっかけで起こった戦争です。つまり、太平洋戦争は第二次世界大戦の中で起こった戦争ということになりますね。

ですから「太平洋戦争=第二次世界大戦」となりますが、「第二次世界大戦=太平洋戦争」ではないのです。ポツダム宣言受託による日本の敗北で第二次世界大戦は終わりますが、それは第二次世界大戦の中で太平洋戦争が最も長引いていたからで、そのため「太平洋戦争の終わり=第二次世界大戦の終わり」となりました。

第二次世界大戦の対立の図式

次に第二次世界大戦の対立の図式についてです。結論から言うと第二次世界大戦の図式は「日本・ドイツ・イタリア」対「アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連」になります。ただし、これは突如この図式が成立したわけではなく、第二次世界大戦の中で徐々に成立していきました。

まずドイツのポーランド侵攻により、ポーランドに対して安全保障条約を結んだイギリスとフランスがドイツに宣戦布告します。これによって図式は「ドイツ」対「イギリス・フランス」となりました。この時点で優勢だったのはドイツ、快進撃が続いて早々にフランスを降伏させます。

そのドイツの快進撃に加わろうと参戦したのがドイツと同じファシズムを掲げるイタリア、これで「ドイツ・イタリア」対「イギリス・フランス」が成立。さてその頃、日本は中国と日中戦争のと呼ばれる戦争を行っており、この戦争が予想外に長期化したことで悩んでいました。

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