今回のテーマは「あさま山荘事件」です。

1972年2月。避暑地として知られるほど冬の冷え込みが激しい長野県軽井沢にて、10日間にわたる立てこもり事件が起きた。立てこもりの現場となったのが河合楽器の保養所「あさま山荘」。

警察官の説得に応じることもなく、特に要求もしないでひたすら立てこもった犯人たち。「一体何があったのでしょうか?」。昭和史に詳しい平成産まれのライターR175と客観的に解説していく。

ライター/R175

学生時代、個人的に昭和史に興味があり図書館やネットで知識を得ていた。理系学部に属しながら、社会科学系図書館に通っていた。

1.「あさま山荘」事件が起きた頃の時代背景

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nattou - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

学生たちが自分たちの主張をするためデモを起こすのは「大正デモクラシー」の頃(1910~20年代)からしばしばあったこと。「あさま山荘事件」が起きる数年前の1960年代後半には、主に「反戦」を目的にデモや集会などが盛んに行われていました。

当時、そういった活動をしていた人(主に若者)の意見は、

”日本は第二次世界大戦で酷い目にあったのに、アメリカの言いなりになって間接的にベトナム戦争に協力している。モヤモヤ。”
戦争をよしとする国にはしたくない。”
"戦争に協力するのをやめろ"
 
ベトナム戦争が激化した1960年代後半、ベトナムを攻撃するアメリカ軍に日本政府が協力する。この行為はを許せない人たちがデモや集会をしていました。デモや集会が各地で盛んになってくると、一種のブームのようになってきます。

特に大学では、その傾向が顕著でした。各地の国公私立大学で「全共闘」と呼ばれる、抗議活動を指揮していく組織が作られました。「~~大学全共闘」とか「~~大学~~学部全共闘」といった組織です。

大学生がみな活動していたわけではない

ちなみに、学生運動は基本的に「希望者が自主的に活動する」スタイル。「強制参加」ではなかったようです。

学生運動真っ盛りの時代であっても、勉強に集中したい学生は真面目に授業出て、バイトが忙しい学生はバイトに時間を費やし、麻雀が忙しい学生は雀荘通いだったわけです。

2.国家権力への対抗

image by PIXTA / 13152512

自分たちの主張をするべく運動するも、警察に鎮圧されてしまいます。その一つの例が東大安田講堂事件。1969年1月19日、大学側に抗議するため東大の安田講堂に作られていたバリケードが機動隊によって解除されました。
 
このようなことがあり、「せっかく主張しても力で封じ込まれる」というムードが出てきます。そこで、2手に分かれました。諦める派orもっと頑張る派。

何としでも、対抗したいと思う人たち(もっと頑張る派)は、武装化していきます。機動隊に制圧されるんであればそれに敵うだけの「武力」をつければいい。そのような発想で、一部の集団は武装組織に。

反戦云々から始まった闘争ですが、一部の組織では武力を付けて国家権力に対抗することが目的となっていきます。

\次のページで「3.武装化」を解説!/

3.武装化

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そのような流れで武装化していったグループの1つが「あさま山荘事件」にかかわっていました。彼ら過激派はどんなことをしていたのでしょうか。

3-1.武器の調達

日本では現在も当時も「拳銃」を合法的に入手することは不可能。そこで、銃が必要な過激派グループは銃を奪い取ってしまいます。

3-2.警官を襲撃

上赤塚交番襲撃事件:1970年12月18日、過激派メンバー3人が板橋区の志村警察署上赤塚交番を襲撃。応戦した警官によって、過激派メンバーの一人が射殺されました。日本の左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケース。

3-3.猟銃店を襲撃

警察官の襲撃に失敗した過激派グループは鉄砲店からの銃強奪を実行します。

真岡銃砲店襲撃事件:1971年2月17日、過激派グループの6人が電報配達を装って栃木県真岡市の銃砲店の勝手口を叩き乱入し、一家4人を縛った上猟銃10丁(散弾銃9、ライフル1)空気銃1丁・鉄弾約2300発を強奪。

3-4.軍事訓練

本格的に犯罪を犯してしまった過激派グループは、警察から逃れるため山奥にこもって活動するようになりました。1971年、そんな過激派グループが2つ(赤軍派と革命左派)が合体して「連合赤軍」というグループが結成。合同合宿を始めます。

活動内容は主に「軍事訓練」や政治思想の勉強会など。猟銃店襲撃などによって手に入れた武器を、「闘争」で活用できるよう日々訓練。

3-5.山奥での不便な生活

人里離れた山奥での生活。買出しに行くのも一苦労です。買出しに行ったメンバーが警察に逮捕されることも。数か月にも及ぶ山岳での合宿生活にメンバーたちはストレスや不安を感じ始めました。そして次第に怒りの矛先が「仲間」に向けられるようになってきます。

4.集団リンチ〜山岳ベース事件〜

image by PIXTA / 53793980

人間、ストレスがたまってくると仲間のちょっとした言動にイラっとくるもの。他のメンバーから目をつけられた人は「イジメ」の対象に。山の中での集団生活中、仲間からの集団リンチを受けて亡くなった方が12人います。これが山岳ベース事件です。

\次のページで「4-1.強く反省をせまる」を解説!/

4-1.強く反省をせまる

連語赤軍では「総括」と言って、自分の活動を反省してまとめさせる会議が盛んに行われました。総括とは、「まとめ」の意、つまり「反省点をまとめる」ということ。イジメの対象になったメンバーは頻繁に説教を受け、「総括」、つまり「強い反省」を迫られます。皆の前で、自らの反省点を発表。それがさらに説教される要因に。

「そもそも反省する態度ではない」などとして、暴力を振るわれるケースも出てきます。徹夜で総括を迫られたり暴力を振るわれたりすることも、珍しくありません。

4-2.集団リンチ

総括。反省という名のイジメは更にエスカレート。イジメられた人は食事をぬかれたり暴力を受け衰弱していきました。寒い屋外に縛りつけられた人もいました。1971年12月、ついにメンバーの1人が亡くなってしまいました。山では遺体を適切に処理することも出来ず、埋めてしまいます。

最初のうちはメンバーの死に驚いたり悲しんだりしていたが、次第にそれもなくなってきます。メンバーが亡くなっても、「またか」といった具合であまり気にしなくなったようです。さすがに怖くなったメンバーが逃走。逃走者が現れると、警察への密告の恐れが出てくるため、ますます追い込まれる状況に。買い出しに行った仲間が逮捕されて帰ってこないかもしれない状況。いつ誰が裏切るかもわからない状況。

そのように追い詰められた状況になると、更に仲間割れが激化。イジメ対象になったメンバーが相次いで虐待に合い衰弱。亡くなっていく。また1人、また1人と。

ちなみにここに来て「逃亡の恐れがある」と思われたら終わり。密告の恐れがあるので殺されてしまいます。ここまでくると、犯罪行為を嫌っただけで「合法主義、密告の恐れあり」と判断され目をつけられる状況。

1971年12月〜72年2月。厳冬の中で12人の方がリンチの犠牲になられました。

5.追い込まれた結果

当初29人いた連合赤軍メンバーも、12人がリンチでによって亡くなったり、4人が逃走、8人が逮捕されて最終的に5人に。

1972年2月19日。5人は山中を逃げる途中で、軽井沢の別荘地に迷い込みました。連合赤軍は群馬県の山中で活動していましたが、ラジオニュースなどで群馬県は捜査網が厚くなっていることが分かったため、長野県に移動。道に迷い軽井沢の別荘地(レイクニュータウン)にたどり着きます。

ちなみに当時、レイクニュータウンは新しく開発された場所で、連合赤軍が持つ地図には記載されていませんでした。そのことから「迷った」という表現を使っています。

5-1.別荘に侵入し休憩中に

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「さつき壮」という別荘に侵入し、台所に置いてあった食料を食べて休憩したり洗面や着替えを済ませていたところ、長野県警機動隊員に別荘内に居ることに気づかれてしまいました。

警察と銃撃戦になったのち、メンバーたちは銃を乱射しながら逃走

5-2.逃げ切ってからの籠城

「さつき壮」から逃走し、自動車がある家を探していると「浅間山荘」を発見。侵入して、管理人の妻を人質に立てこもります。ここから、10日間の立てこもり。これがあさま山荘事件です。

6.籠城

image by PIXTA / 44182437

管理人の妻を人質に山荘に立てこもった連合赤軍のメンバーですが、一切要求はしませんでした。そして警察官からの説得には応じません。ひたすら沈黙を保つのが、立てこもったメンバーたちの話し合いの結果でした。

当初は、「山荘の車で逃走する」とか「既に逮捕された連合赤軍メンバー」の開放などを要求する計画もありました。しかし、話し合いの結果、「メンバーたちが十分に食事をとれていなかったこと」、「靴を片方持っていないメンバーが居て逃げるのが困難」などの理由から、籠城することに決まります。ちなみに、靴を片方持っていなかったのは、山でのキャンプ中に靴が壊れてしまった別のメンバーに渡していたから。

籠城してからも逃走するかどうか迷ったようですが、「最後まで国家権力と戦うこと」が革命家としての使命であり、リンチで亡くなった同志たちへの償いになるということから、籠城を続けました。

6-1.警官すぐには突入出来ず

過激派連合赤軍。それなりの装備をしているとは言え、警察側も本気で準備すればすぐ突入出来たのではないか?

そんな疑問も湧いてきますが、そうはいかない事情がありました。理由は、連合赤軍含む過激派集団の動きが読めなかったから。

浅間山荘事件発生時に警察が把握していたことは、

浅間山荘に逃げ込んだのは5人。
既に逮捕されたのは8人。
残りのメンバーの所在不明。

だそうです。浅間山荘への立てこもりが発生した時点では、山岳でリンチ殺人が起こっていたことは認知されていません。

下手に山荘に突入しようものなら、残りの連合赤軍メンバーからの襲撃を受ける恐れもあります。慎重に様子を見て、説得するのが最善策でした。

\次のページで「6-2.犯人の母親の登場」を解説!/

左翼団体への恐れ

あさま山岳事件が起きた1970年代前半は、左翼団体が恐れられていました。前述の交番や猟銃店の襲撃だけでなく、ハイジャックや金融機関の襲撃などさまざまな事件を起こしています。山荘立てこもりに下手な対応をすると、過激派団体が何をしてくるか分かりません。

6-2.犯人の母親の登場

前述のような状況下で慎重な対応を取っている間に、連合赤軍はバリケードを強化。突入が難しくなっていきました。そこで、警察は犯人たちの母親たちに来てもらい説得を試みました。

犯人の母親が下の名前で呼びかけてます。「○ちゃん、お母さんだよ、早く出て来なさい」しかし、帰って来たのは。「バーン」銃声だけでした。

さらに、「お母さんを打てますか?」と母親。しかし帰って来たのは。「バーン」やはり銃声だけでした。

母親の登場に連合赤軍メンバーは親を使うとは、警察は卑怯だ。と感じていたそうです。

6-3.鉄球作戦〜突入〜

1972年2月29日。この時点で連合赤軍からの発砲を受け、警察官2人が殉職。一般の方1名が亡くなられていました。人質の安否も不明。これ以上長引かせるわけにはいかない状況。警察官がついに、突入を試みました。

使用したのは、建物解体用の鉄球。山荘を大胆に破壊していきました。警察は突入に成功し、立てこもっていた5人は逮捕。動画サイトにも投稿されているであろう、あのショッキングな瞬間です。

暴力が過ぎた

あさま山荘事件をきっかけに、ますます左翼団体は怖い存在に。

学生運動。反戦。自分たちの主張をしっかりして、政治を良くしたい。そんな思いで始まった闘争活動ですが、暴力的な手段に走り過ぎてしまった結果敬遠されていきました。

「やり過ぎた感あるし、大人しくしとこう」。あさま山荘事件後はそんな雰囲気がますます強くなり、学生運動は衰退。

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現代社会

ひたすら籠城が続いた「あさま山荘事件」を平成産まれのライターが客観的にわかりやすく解説

今回のテーマは「あさま山荘事件」です。

1972年2月。避暑地として知られるほど冬の冷え込みが激しい長野県軽井沢にて、10日間にわたる立てこもり事件が起きた。立てこもりの現場となったのが河合楽器の保養所「あさま山荘」。

警察官の説得に応じることもなく、特に要求もしないでひたすら立てこもった犯人たち。「一体何があったのでしょうか?」。昭和史に詳しい平成産まれのライターR175と客観的に解説していく。

ライター/R175

学生時代、個人的に昭和史に興味があり図書館やネットで知識を得ていた。理系学部に属しながら、社会科学系図書館に通っていた。

1.「あさま山荘」事件が起きた頃の時代背景

Asama sansou.jpg
nattou – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

学生たちが自分たちの主張をするためデモを起こすのは「大正デモクラシー」の頃(1910~20年代)からしばしばあったこと。「あさま山荘事件」が起きる数年前の1960年代後半には、主に「反戦」を目的にデモや集会などが盛んに行われていました。

当時、そういった活動をしていた人(主に若者)の意見は、

”日本は第二次世界大戦で酷い目にあったのに、アメリカの言いなりになって間接的にベトナム戦争に協力している。モヤモヤ。”
戦争をよしとする国にはしたくない。”
“戦争に協力するのをやめろ”
 
ベトナム戦争が激化した1960年代後半、ベトナムを攻撃するアメリカ軍に日本政府が協力する。この行為はを許せない人たちがデモや集会をしていました。デモや集会が各地で盛んになってくると、一種のブームのようになってきます。

特に大学では、その傾向が顕著でした。各地の国公私立大学で「全共闘」と呼ばれる、抗議活動を指揮していく組織が作られました。「~~大学全共闘」とか「~~大学~~学部全共闘」といった組織です。

大学生がみな活動していたわけではない

ちなみに、学生運動は基本的に「希望者が自主的に活動する」スタイル。「強制参加」ではなかったようです。

学生運動真っ盛りの時代であっても、勉強に集中したい学生は真面目に授業出て、バイトが忙しい学生はバイトに時間を費やし、麻雀が忙しい学生は雀荘通いだったわけです。

2.国家権力への対抗

image by PIXTA / 13152512

自分たちの主張をするべく運動するも、警察に鎮圧されてしまいます。その一つの例が東大安田講堂事件。1969年1月19日、大学側に抗議するため東大の安田講堂に作られていたバリケードが機動隊によって解除されました。
 
このようなことがあり、「せっかく主張しても力で封じ込まれる」というムードが出てきます。そこで、2手に分かれました。諦める派orもっと頑張る派。

何としでも、対抗したいと思う人たち(もっと頑張る派)は、武装化していきます。機動隊に制圧されるんであればそれに敵うだけの「武力」をつければいい。そのような発想で、一部の集団は武装組織に。

反戦云々から始まった闘争ですが、一部の組織では武力を付けて国家権力に対抗することが目的となっていきます。

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