今回はルイ16世を取り上げるぞ。ベルサイユのばらとかではマリー・アントワネット王妃の脇役ですが、ほんとはどんな人だったのか知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルイ16世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルイ16世はルイ15世の孫

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ルイ16世は1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘)王太子妃の3男として誕生。名前はルイ・オーギュストで最初はベリー公爵。

父ルイ・フェルディナン王太子はフランス王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの長男。ルイ16世のきょうだいは、夭折した姉と兄が2人ずつ、弟のルイ・スタニスラス・グザヴィエ(プロヴァンス伯、フランス王ルイ18世)とシャルル・フィリップ(アルトワ伯、フランス王シャルル10世)、妹がマリー・アデライード・クロティルド・グザヴィエール(サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世妃)とエリザベート・フィリッピーヌ・マリー・エレーヌの弟3人と妹2人。

1-2、ルイ16世、はやくに両親と兄たちが亡くなる

1761年、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエが9歳で結核で死亡、それ以前に次兄のアキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフも夭折、1765年に父王太子が36歳で亡くなり、ルイ16世はフランス王太子(ドーファン)に。その2年後に母のマリー=ジョゼフ・ド・サクスも亡くなったので、ルイ16世は祖父ルイ15世と叔母たちがいるものの、11歳で両親を亡くしたことに。

1-3、ルイ16世、マリー・アントワネットと政略結婚

長年ライバル関係だったブルボン家とハプスブルク家の間の同盟が話し合われていたが、最初はオーストリアのマリア・テレジアの娘とルイ15世の、その後は末娘マリア・アントーニアとルイ16世の兄で後継ぎのブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエとの政略結婚が画策。1761年に長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエが死去したため、1763年5月、3男のルイ16世に相手がチェンジ。そして妻がドイツのザクセン選帝侯の娘ということで、ハプスブルグ家との結婚には反対していたルイ16世の父王太子フェルディナンが1765年に死亡したため、1769年6月、ルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られ、結婚が本決まりに。

1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿で、王太子だった16歳のルイ16世と15歳のマリア・アントーニアの豪華絢爛な結婚式が挙行、王太子妃はマリー・アントワネットというフランス名で呼ばれることに。

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2-1、ルイ16世としてフランス国王に即位

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ジョゼフ・デュプレシ - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

1774年5月10日、祖父ルイ15世が天然痘で死去後、ルイ16世はフランス国王に即位、1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行。ルイ16世が国王に即位して最初の仕事は、祖父ルイ15世の寵姫デュバリー夫人の追放だったそう。1775年4月には、各地で食糧危機に対する小麦粉戦争が起きて、5月2日にはヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せたが、ルイ16世はバルコニーに姿を現して民衆の不満に答えたということ。

2-2、ルイ16世、治療を受けて子供が生まれる

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アドルフ・ウルリッヒ・ヴェルトミューラー - このファイルは以下の画像から切り出されたものです: Adolf Ulrik Wertmüller - Queen Marie Antoinette of France and two of her Children Walking in The Park of Trianon - Google Art Project.jpg , パブリック・ドメイン, リンクによる

 1777年4月、結婚後7年子供が生まれず、マリー・アントワネットと何度も手紙のやり取りをしていた母の女帝マリア・テレジアが、マリー・アントワネットの長兄のヨーゼフ2世を送り込み、妹夫妻に話をして、義兄のアドバイスによりルイ16世は先天的性不能の簡単な手術を受けて、1778年に長女マリー・テレーズが誕生し、2男2女が生まれることに(2人夭折)。

マリー・アントワネット王妃は、ブルボン家とハプスブルグ家の血筋の子供をたくさん産まないと損と母への手紙に書いていたということ。

2-3、ルイ16世の政治改革は挫折

ルイ16世は王妃マリー・アントワネットの浪費で財政難に陥ったというイメージがありますが、フランスの財政難は、ルイ14世、ルイ15世の時代からのもので、ルイ16世一代で傾いたわけではありません。負債を受け継いだために即位直後から慢性的な財政難が、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、ラ・ファイエット伯と軍隊を派遣してアメリカを支援するなどで、財政はさらに困窮。

そしてルイ16世は海軍力の整備に力を入れてシェルブールに軍港を建設する一方、経済に詳しい学者ジャック・テュルゴー、銀行家ネッケルなどを登用して改革を推進。1780年には拷問の廃止を布告、1783年には名士会の開催と三部会招集を布告。

ルイ16世は政治に積極的に関わって、フランスを変革しようとしたが、「高等法院なしに国王はない」というモールパ伯の進言で、1774年、ルイ15世が弱体化させた高等法院を復活させたためその抵抗にあい、抜本的な変革には至らずに、財政の建て直しもうまくいかず。保守派貴族によってルイ16世はの改革案はつぶされて改革は挫折。

3-1、フランス革命勃発

三部会は、貴族層に対抗する窮余の策として招集したはずが、平民層を政治参加へ駆り立てる展開となり、1789年7月14日のバスティーユ襲撃で、フランス革命が勃発。このときルイ16世は、夜半に寝室で国王衣装係のリアンクール侯爵に起こされて報告を受け、「暴動か」「いいえ、陛下、革命でございます」というやりとりがあったという話が有名ですが、これは19世紀になってから、リアンクール侯爵の息子が親から聞いた話として書き残したものだそうで、実際は、ルイ16世は、夕刻にパリの状況を知った国民議会の代表に報告を受けたということ。ルイ16世は、国民議会の封建制廃止などの要求には、「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しない」という姿勢だったそう。

10月、20万人の群集が行ったヴェルサイユ行進では、議会の代表団に際して食糧を放出したが、「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声で、国王一家はパリに連行されることに。

3-2、ルイ16世、家族と共に逃亡し失敗に

1791年、ルイ16世は王妃マリー・アントワネットの愛人とされるスウェーデン貴族のフェルゼン伯爵の手引きで、家族とともにパリ脱出を企てたが、遅い馬車に荷物を乗せすぎ、また家族一緒と言い張るマリー・アントワネットの要望を聞き入れたため、思うように走れずにヴァレンヌで発見され捕らえられ、フランス国民の信頼をすっかり失い、一家はパリへ護送されてテュイルリー宮殿に軟禁されることに。

6月20日、群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際も、ルイ16世は威厳を持った態度で「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」と冷静に述べたが、8月10日に王権が停止され、ルイ16世一家はテュイルリー宮からタンプル塔に幽閉されることに。

3-3、ルイ16世、裁判後に死刑に

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不明 - http://www.gutenberg.org/files/16962/16962-h/16962-h.htm#image-0003, パブリック・ドメイン, リンクによる

ルイ16世は家族との面会も叶わず幽閉となり、ルイ・カペーという名で不自由な生活に。そして1792年後半に、ルイ16世の処遇について国王擁護の王党派フイヤン派と、処刑を求めるジャコバン派、そして裁判に慎重なジロンド派が対立、延々と議論が続けられ、膠着状態だったが、11月13日、25歳のサン=ジュストが、もともと人民がもつ主権を独占した国王は主権簒奪者で共和国では国王という存在自体が罪、なので個人を裁くのではなくて王政そのものが処罰されるべきと演説。国王の処遇について穏便を希望のジロンド派は窮地に。

1793年1月15日から19日にかけての国民公会では、ルイ16世の処遇決定のため、4回の投票を行ったということで、「賛成361対反対360で、1票の僅差で処刑が確定」という決定ではなく、投票方法は指名点呼という方法で行われたということ。

議員は登壇して意見を自ら表明し、第1回投票では、まず「国王は有罪か」で、749人の議員(うち欠席が23人、棄権5人)は賛成693対反対28で有罪認定。第2回投票では、「ルイに対する判決は人民投票で批准されるべきか」が問われたが、賛成292対反対423に。第3回投票は、「ルイはどのような刑罰を科されるべきか」では意見表明の投票となり、「無条件で死刑」が387票で最多と、ただしこのなかにはマイユ条項つき(マイユ議員が死刑判決確定後、死刑の実施を国民投票などで再討議して裁可する条件付き死刑のこと)死刑が26票含まれ、「その他罰の刑」が334名、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑と追放刑286名、執行猶予付き死刑46名。

ということで、で、387対334で死刑が決定。第4回投票では、死刑延期の賛否が投票され、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12)で、70票差で否決、即時死刑執行が決定。

そしてルイ16世は1793年1月21日午前10時22分、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンによって革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑に、享年38歳。

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3-4、大デュマの目撃談

「三銃士」の作家アレクサンドル・デュマは処刑当日のルイ16世の様子を目撃し、「朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進行。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなく、10時にルイ16世は断頭台の下に到着。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上り、群集の方に振り向くと、「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」と言ったところで太鼓の音がその声を消したが、ルイ16世は傍らの人々に対して、「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」と言ったと記述しているそう。

3-5、ルイ16世の子供たち

ルイ16世の子供たちは、王妃マリー・アントワネットとの間に生まれた、長女マリー・テレーズ(後に従兄のアングレーム公爵と結婚)、乳母に結核を移されて9歳で亡くなった長男ルイ・ジョゼフ、タンプル牢獄で虐待されて亡くなったが、後に生存説も出た次男ルイ・シャルル(ルイ17世)、次女ソフィー(夭折)の2男2女だが、子孫なし。

4-1、ルイ16世の逸話

ルイ16世にも色々な逸話があります。

4-2、ジャガイモの普及にユニークなアイデア

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ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、ヨーロッパにはコロンブスのアメリカ大陸発見後の16世紀に伝わりましたが、痩せた土地や寒冷地でもよく育って収穫できるために重要な植物となって、その後、多くの人々の命を飢餓から救うことに。

フランスでは、ある農学者が隣国プロイセンとの戦いで捕虜となり、ジャガイモ料理に遭遇。帰国後にジャガイモをフランスに根付かせようとしたが、当時は見向きもされずにうまくいかず。そこでルイ16世にジャガイモの良さをアピールしたところ、ルイ16世は、おいしくて栄養価も高いジャガイモの有用性を理解し、宮殿の外にある畑に植えさせ、昼は近衛兵に畑を見張らせて、さも重要な植物であるように周辺の農夫の関心を惹き付け、夜は見張りを解いて農夫らが畑からジャガイモを盗みやすくしたため、宮殿の畑から盗まれた貴重な植物としてジャガイモが広まったということ。

また、ルイ16世は王妃のマリー・アントワネットにジャガイモの花をアクセサリーとしてつけるように提案、トリアノン宮殿で農園生活に憧れていた人ですから、もともと野草やハーブのような花が好きだったようで、ジャガイモの花を髪に差したりしてアピールしたということ。

4-3、日記には趣味についてしか書かなかった

ルイ16世は日記を書いているのですが、マリー・アントワネットと初めて会った日や、結婚式、バスチーユ監獄が襲撃された日ですら、「何もなし」とだけしか書いていないため、何事にも無関心で無能な国王とされがち。しかしルイ16世は日記には趣味の狩猟と錠前作りのことしか書かなかったということで、機械工学が好きな理系の職人肌タイプの人かも。

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4-4、愛人はいなかった

ルイ16世の祖父ルイ15世やルイ14世などは、王妃がいても寵姫と婚外子も多くいて華やかな宮廷生活、寵姫は贅沢三昧、城を建ててもらったりしたものですが、ルイ16世はマリー・アントワネット王妃一筋で、愛人などはおらず、子供たちを可愛がる家庭的な夫だったということ。そして小太りの体型でマリー・アントワネットの尻に敷かれる印象があるが、180㎝越えで大柄でなかなか男性的な人だったそうで、マリー・アントワネットが数々のスキャンダルで世間を騒がせていたが、ルイ16世に対しての国民の人気はヴァレンヌ事件までは絶大で、国王の威信は地に堕ちてはいなかったということ。

4-5、ギロチンの刃の角度の改良に助言

革命のときに処刑の装置として用いられ活躍したギロチンは、最初は刃を三日月形にしていたが、ギロチンの開発に携わった人物によれば、設計図を見たルイ16世が刃を斜めにするとどんな太さの首でも切断できると提案したそう(異説あり)。そのときはまさか自分がそれを使うことになるとは思わなかったはず。

革命期でなければ才能を発揮したかもしれない、有能だが優柔不断な絶対君主

ルイ16世はルイ15世の孫として生まれ、オーストリアとの同盟のためにハプスブルグ家のマリー・アントワネットと政略結婚。即位後も王妃のわがままでぜいたくな生活を許し、貴族や国民の気持ちが離れていくのをどうしようもなく革命に突入し、最後は潔い態度で断頭台に消えた人。

財政改革をしたり、三部会を開いたりしたが、うまくいかなかったのは、ルイ16世やマリー・アントワネットの代だけの責任ではなく、ルイ14世の頃からすでに兆しはあったからとみるべきでしょう。ルイ16世も悪い人じゃないむしろ知識も理解力もあった人物とされますが、こういう怒涛のような時代の勢いをコントロールできる名君や英雄ではなかったのですね。

しかし自分に課された運命をしっかり受け止めた最期の姿は、いかにもフランス最後の絶対君主らしい威厳を保っていたなんて泣かせるではありませんか。

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フランス革命で断頭台に消えた「ルイ16世」フランス最後の絶対君主を歴女がわかりやすく解説

今回はルイ16世を取り上げるぞ。ベルサイユのばらとかではマリー・アントワネット王妃の脇役ですが、ほんとはどんな人だったのか知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルイ16世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルイ16世はルイ15世の孫

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ルイ16世は1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘)王太子妃の3男として誕生。名前はルイ・オーギュストで最初はベリー公爵。

父ルイ・フェルディナン王太子はフランス王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの長男。ルイ16世のきょうだいは、夭折した姉と兄が2人ずつ、弟のルイ・スタニスラス・グザヴィエ(プロヴァンス伯、フランス王ルイ18世)とシャルル・フィリップ(アルトワ伯、フランス王シャルル10世)、妹がマリー・アデライード・クロティルド・グザヴィエール(サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世妃)とエリザベート・フィリッピーヌ・マリー・エレーヌの弟3人と妹2人。

1-2、ルイ16世、はやくに両親と兄たちが亡くなる

1761年、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエが9歳で結核で死亡、それ以前に次兄のアキテーヌ公グザヴィエ・マリー・ジョゼフも夭折、1765年に父王太子が36歳で亡くなり、ルイ16世はフランス王太子(ドーファン)に。その2年後に母のマリー=ジョゼフ・ド・サクスも亡くなったので、ルイ16世は祖父ルイ15世と叔母たちがいるものの、11歳で両親を亡くしたことに。

1-3、ルイ16世、マリー・アントワネットと政略結婚

長年ライバル関係だったブルボン家とハプスブルク家の間の同盟が話し合われていたが、最初はオーストリアのマリア・テレジアの娘とルイ15世の、その後は末娘マリア・アントーニアとルイ16世の兄で後継ぎのブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフ・グザヴィエとの政略結婚が画策。1761年に長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエが死去したため、1763年5月、3男のルイ16世に相手がチェンジ。そして妻がドイツのザクセン選帝侯の娘ということで、ハプスブルグ家との結婚には反対していたルイ16世の父王太子フェルディナンが1765年に死亡したため、1769年6月、ルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られ、結婚が本決まりに。

1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿で、王太子だった16歳のルイ16世と15歳のマリア・アントーニアの豪華絢爛な結婚式が挙行、王太子妃はマリー・アントワネットというフランス名で呼ばれることに。

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