
天正十二年尾張北部で秀吉と争っていく

小牧長久手が始まってから4か月ぐらい経った時に、秀吉から家康に加担していき天文12年8月に秀吉軍の利家に攻撃を仕掛けていきました。この時利家は朝日山城を守っていて利家家臣だった村井長頼が防戦していき、強襲攻撃を防がれてしまい成政は撤退を余儀なくされていきます。
また9月に入ると利家の領国の加賀国と能登国を分断させるべく要衝と呼ばれていた末森城を包囲していきました。利家の援軍を警戒しつつ一万五千兵で末森城の攻略をしていきましたが、落城寸前だとの知らせを聞いた利家は二千五百兵で末森城で急行していきます。
成政は末森城の攻撃に集中していていると後方から利家の部隊が攻め寄せてきたため、佐々軍の兵は混乱に陥り乱戦となっていきました。この激しい乱戦で両軍七百兵ほどの損害が出てしまい越中国まで帰還していきます。
秀吉に仕えていき切腹させられる
末森城で引き分けの形となり、小牧長久手でも秀吉と家康は和睦を結んでいくことになりました。
富山城を包囲

秀吉に従軍することに納得のいっていない成政でしたが、越後国の上杉氏も攻め寄せて来ることもあり敵国に挟まれる形で動くに動けなくなっていきました。家康にも再挙するように直談判していくも、首を縦には振ってもらえず信雄にも滝川一益にも良い返事がもらえず一人孤立していく成政。
徳川派に加担した抵抗する大名を屈服させる動きが過激化していき、四国の長宗我部元親が秀吉に降伏していくと秀吉は成政居城の富山城へ十万の大軍で侵攻していきました。兵力差では適わず同盟していた国人衆が、降伏していき成政も信雄仲介の下で秀吉に降伏していきます。
秀吉の目の前に現れた時は髪を全て剃り法衣姿で、恭順を示したとされておりこの様子を見た秀吉は成政と妻も助命し領地を没収したうえで大坂城へ移動させていきました。
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九州征伐で功績を認められたものの切腹へ
秀吉の下で役目を果たしている最中に、九州征伐が決まり島津氏を屈服させるべく秀吉は軍を率いていき成政は羽柴秀長の隊に加わり薩摩へ進軍していきました。戦況が秀吉側が優位となってくると島津氏は降伏を選択していきます。
成政が島津氏と秀吉との取次役を担い功績が認められ肥後一国を授けられていきました。久方ぶり領地を得た成政は秀吉から急な政務は行わないようにと注意されていましたが、その言付けを守らずに民達に重い税をのしかからせ反感を買っていきます。
国衆が反発し一揆が起こると自らの手で鎮静化させることが出来ず、秀吉に咎められていき切腹をいい渡され享年五十五歳で生涯を閉じていきました。

成政死後に蒲生氏郷が成政の掲げていた馬印を使いたいと秀吉に願い出たようだが、武勇が高い者にしか与えられないといい氏郷は小田原征伐で大いに活躍し掲げることを認められたようだ。
太閤秀吉にも認められたいた成政
信長の家臣として秀吉や利家らと武を競い戦功を挙げていった仲間だったように思えますが、成政からすると何処か彼らを嫌っていた部分もあるようにも思えました。利家とは色違いだった衣衆に居た時に敵将をどっちが討ち取ったかを言い争っていたこともあったようです。
また秀吉とは配置される場所は違うこともあり、あまり戦で協力していた様子は確認されていません。しかし絶対主君信長が横死して時代から乱れ始めた時に、秀吉と対抗していき最後は降伏しましたが成政の心の中では秀吉には負けたくないという気持ちがあったように思えます。
そんな秀吉からも利家からも成政のことは高く評価されている記録が多数残されているので、秀吉と協力体制を築けていれば五大老まで登りつめていた可能性もあると思いました。