

稲生の戦いが成政の初陣だったといわれているようだ。
兄を失った成政が佐々家当主となる
稲生で孫介を桶狭間で政次を失ってしまった佐々家は、三男だった成政を当主として立てていきました。
信長の馬廻りとして仕える
兄達と同様に信長に仕えていき、選りすぐりの集団だった馬廻に任命されていき信長家臣と共に武功を争い政務をこなしていきました。
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美濃勢と交戦
1556年には美濃一国を収めていた下剋上大名だった斎藤道三が、嫡男の斎藤義龍に討ち取られてしまいました。道三と同盟関係にあった信長でしたが、義龍は道三を討ち取った勢いで尾張国へ侵攻していき敵対していきます。
ところが永禄4年の1561年に義理父道三の仇だった義龍が三十五歳で急死。斎藤家が弱まったと判断した信長は、美濃国への侵攻を開始していき西美濃から攻め込んでいきました。一方の斎藤家は義龍亡き後に十四歳の嫡子だった斎藤龍興を当主として、戦支度を済ませていき西美濃の森部まで進軍していきます。
義龍の急死を知ったことで急遽兵を動員していくこととなり、手勢は僅か千五百兵ほどで侵攻していったのに対して斎藤軍は六千兵を率いていて兵力差に開きがある状況でした。戦が開始したのが5月14日で織田軍が少数ながら果敢に攻め立てていき、成政は池田恒興と協力して稲葉又右衛門を討ち取っていきました。
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成政家督相続後に勝利を得た織田軍
成政らの活躍もあり兵力では負けていましたが、義龍が亡くなったことにより斎藤軍の士気が低下していたことで織田軍は勝どきを挙げることが出来ました。斎藤軍は長井氏や日比野氏などの将が討たれてしまい惨敗していきます。
成政は大功を挙げていったことで1567年に黒母衣衆に抜擢されていきました。この年から制定されてたと信長公記に記されていて黒母衣衆の他に赤母衣衆が設けられていて赤母衣衆には前田利家や塙直政が任命されていたようで、赤母衣衆を率いていたのは利家だったともいわれています。
地位としての格差は無いといわれていましたが、黒母衣衆に所属していた将は赤母衣衆よりもやや年上だったこともあり戸田勝成は黒母衣衆が格上だったと菅利家卿語話に記されていました。
浅井家の離反
信長が着実に領土を増やしていき隣国大名をも臣従させていくと、足利義昭も信長の手を借りて幕府再建を狙っていきました。これにより後ろ盾を得ていき越前国の朝倉氏に上洛要請をしていきましたが、朝倉家当主だった朝倉義景は一向に返事を出す気配もなく信長は朝倉領への侵攻を決意。
侵攻している最中に浅井長政が突然、信長を裏切り織田軍後方から攻撃を仕掛けきました。予期せ事態に織田軍は大混乱に陥りましたが、何とか自国領土まで退いていき兵を整えていきます。準備に取り掛かっていった織田軍は、竹中重治の調略活動によって朝倉・浅井連合軍の防衛網に亀裂を生じさせ連合軍の力を弱めていきました。
兵が整ったことで長政の居る小谷城に向けて、侵攻を開始していきましたが長政は小谷城で籠城。籠城戦から野戦に持ち込みたい信長は城下に火を放ち、挑発していきましたが長政は籠城の構えを解くことなく籠城していきます。
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殿を任され信長を目的地まで移動させる

挑発行為に乗って来ない長政を見た信長は近隣の横山城に向けて移動を考えていきました。長政を出陣させるため信長は横山城へと移動を開始していくと、長政はこの行動を詠んでいて小谷城から部隊を出陣させいきましたが成政を中心とした殿部隊が足止めをしていきます。
この時に鉄砲部隊を統率し、殿の役目をしっかりと果たしていき信長を龍ヶ鼻まで移動をさせていきました。そして横山城を包囲していき朝倉の援軍一万が大依山に布陣していきここに浅井軍も合流し朝倉・浅井連合軍は一万三千兵となり織田軍は二万六千兵で姉川で1570年6月28日に対峙していきます。
両軍入り乱れてのが激しい戦いだったため、死傷者などの損害は詳しく分かっておりませんが姉川付近の地名に血と名がつくところがあるため激戦だったことは伺えました。戦は徳川家康による側面から攻撃を仕掛けていったことで決着がつき織田軍の勝利となります。
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