日本史

武勇高き三階菅笠を馬印として掲げた「佐々成政」を戦国通のサラリーマンが徹底解説

よぉ、桜木建二だ。古くから家柄の証明として家紋や馬印などを掲げて自身の家を分かるようにしていたようだな。有名な家紋が多数存在している中で家紋でいえば朝廷で使用されていた桐紋で、馬印といえば秀吉が掲げた千成瓢箪だろうな。

そこで今回は土豪一族から成り上がり織田信長の馬廻りとして活躍し、武勇の高さを示した三階菅笠の馬印を掲げた武将の一人を歴史マニアで歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/what

信長公記によると成政も織田信長暗殺を計画していたする記録が残されているようです。佐々氏の生い立ちと成政が信長の家臣時代から秀吉の家臣となっていく姿を紹介していく。

尾張国の土豪一族だった佐々氏

信長と同様に尾張国の生まれだったようで、春日井郡比良城で誕生していきました。

佐々木一族だったと思われる佐々氏

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平安時代中期頃に天皇からの命令で源成頼が都から地方の近江国へと移動させられていき、成頼の嫡子だった佐々木義経が佐々木氏を名乗っていたことが佐々木一族の始まりとされています。その後、上皇と天皇が分かれた保元の乱が始まり佐々木一族は天皇方に味方して戦っていきましたが上皇方の勝利となり佐々木氏の筆頭だった佐々木秀義は討ち取られてしまいました。

残された子孫は奥州藤原氏の下へ落ち延びようとすると相模国の渋谷氏に庇護を受けた後に、源頼朝の家臣となっていきます。頼朝によって上皇方の平家を打倒すべく兵を招集していくと長男定綱の嫡子だった佐々木広綱は上皇方に味方し弟の佐々木信綱は源軍として参加していきました。

六角氏から佐々氏が誕生した説

源軍の勝利で承久の乱が平定されると広綱は斬首され、信綱が佐々木家当主となっていきます。その後に信綱が亡くなり四人の嫡子達が近江で分かれていき大原氏・六角氏・京極氏・高島氏と名乗っていきました。

ここで分かれた四人からは佐々氏の名は見られませんが、一般的な説ですと六角氏の名を称した三男佐々木泰綱の子孫が佐々氏を称したといわれています。

父佐々貞則は藤原氏を名乗っていた

佐々木一族だったといわれている説の他に藤原氏を名乗っていた記録もあります。佐々成政の父だった佐々貞則は尾張国の高田寺に自身の名前を刻んだ鐘が現在も残されていてそこには、比良佐々下野守藤原貞則と刻まれていました。

また貞則の時に信長の祖父にあたる織田信貞に仕えていたとも考えられていて、その際に偏諱を受けた時に比良佐々下野守藤原貞則と称していたともいわれています。あまり出自がはっきりしていないのは成政だけでなく、室町から戦国へと時代が変わっていき一代で家名を大きくした大名も同じように不明でした。

織田家に仕えていく

成政の兄だった佐々政次は1539年の織田信秀に仕えていていきました。当時は織田家と今川家によって西三河の領地を求めた戦いが度々行われていて、三河国の矢作川付近で小豆坂の戦いが織田軍と今川軍によって繰り広げられていきます。

この戦で政次が奮戦したと記されていて弟の佐々孫介と共に小豆坂七本槍と称され、織田軍の勝利で戦を終えました。しかし近年では小豆坂の戦いが1542年に行われていたかを疑問視する説もあるようです。戦の規模もあまり分かっていないため両者の兵力も損害も不明でした。

1548年になると今川氏から離反した水野氏の動向が起因となり、今川氏と戦うことになっていく織田軍。第二次小豆坂の戦いと呼ばれ、政次はこの戦にも参戦したと思われ再び両軍は小豆坂で戦となっていきました。織田軍が四千兵で今川松平連合軍が一万兵で開戦し、坂の上に陣を構えていた今川松平連合軍が優位に戦を進めていきます。

孫介そして政次が桶狭間で名誉の討死

1556年に織田家の家督争いから発展した稲生の戦いが発生し、信長と弟だった織田信行が庄内川で対峙していきました。信長軍の兵は七百ほどで信行軍は戦上手で知られる猛将柴田勝家が味方だったこともあり千七百兵まで膨れていたようです。

開戦直後から兵力差に苦しめられていく信長軍は、前線にいた孫介が柴田軍によって討ち取られいき本陣まで攻め込まれていきました。信長もこのまま敗戦するわけにもいかないため、前線に森可成と織田信房を向かわせていきます。すると両名の奮戦もあり信行軍の将を討ち取っていき勝利することができました。

1560年になると今川義元が大軍を率いて尾張国に侵攻を始めていき要衝の砦が陥落していき、信長が善照寺砦に到着したことを確認すると千秋四郎と共に政次は捨て身覚悟で今川本隊と衝突していきます。しかし奮戦虚しく今川本隊に討ち取られてしまった政次でしたが、信長の奇襲攻撃があったおかげ桶狭間に勝利することが出来た織田軍でした。

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稲生の戦いが成政の初陣だったといわれているようだ。

兄を失った成政が佐々家当主となる

稲生で孫介を桶狭間で政次を失ってしまった佐々家は、三男だった成政を当主として立てていきました。

信長の馬廻りとして仕える

兄達と同様に信長に仕えていき、選りすぐりの集団だった馬廻に任命されていき信長家臣と共に武功を争い政務をこなしていきました。

美濃勢と交戦

1556年には美濃一国を収めていた下剋上大名だった斎藤道三が、嫡男の斎藤義龍に討ち取られてしまいました。道三と同盟関係にあった信長でしたが、義龍は道三を討ち取った勢いで尾張国へ侵攻していき敵対していきます。

ところが永禄4年の1561年に義理父道三の仇だった義龍が三十五歳で急死。斎藤家が弱まったと判断した信長は、美濃国への侵攻を開始していき西美濃から攻め込んでいきました。一方の斎藤家は義龍亡き後に十四歳の嫡子だった斎藤龍興を当主として、戦支度を済ませていき西美濃の森部まで進軍していきます。

義龍の急死を知ったことで急遽兵を動員していくこととなり、手勢は僅か千五百兵ほどで侵攻していったのに対して斎藤軍は六千兵を率いていて兵力差に開きがある状況でした。戦が開始したのが5月14日で織田軍が少数ながら果敢に攻め立てていき、成政は池田恒興と協力して稲葉又右衛門を討ち取っていきました。

成政家督相続後に勝利を得た織田軍

成政らの活躍もあり兵力では負けていましたが、義龍が亡くなったことにより斎藤軍の士気が低下していたことで織田軍は勝どきを挙げることが出来ました。斎藤軍は長井氏や日比野氏などの将が討たれてしまい惨敗していきます。

成政は大功を挙げていったことで1567年に黒母衣衆に抜擢されていきました。この年から制定されてたと信長公記に記されていて黒母衣衆の他に赤母衣衆が設けられていて赤母衣衆には前田利家や塙直政が任命されていたようで、赤母衣衆を率いていたのは利家だったともいわれています。

地位としての格差は無いといわれていましたが、黒母衣衆に所属していた将は赤母衣衆よりもやや年上だったこともあり戸田勝成は黒母衣衆が格上だったと菅利家卿語話に記されていました。

浅井家の離反

信長が着実に領土を増やしていき隣国大名をも臣従させていくと、足利義昭も信長の手を借りて幕府再建を狙っていきました。これにより後ろ盾を得ていき越前国の朝倉氏に上洛要請をしていきましたが、朝倉家当主だった朝倉義景は一向に返事を出す気配もなく信長は朝倉領への侵攻を決意。

侵攻している最中に浅井長政が突然、信長を裏切り織田軍後方から攻撃を仕掛けきました。予期せ事態に織田軍は大混乱に陥りましたが、何とか自国領土まで退いていき兵を整えていきます。準備に取り掛かっていった織田軍は、竹中重治の調略活動によって朝倉・浅井連合軍の防衛網に亀裂を生じさせ連合軍の力を弱めていきました。

兵が整ったことで長政の居る小谷城に向けて、侵攻を開始していきましたが長政は小谷城で籠城。籠城戦から野戦に持ち込みたい信長は城下に火を放ち、挑発していきましたが長政は籠城の構えを解くことなく籠城していきます。

殿を任され信長を目的地まで移動させる

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挑発行為に乗って来ない長政を見た信長は近隣の横山城に向けて移動を考えていきました。長政を出陣させるため信長は横山城へと移動を開始していくと、長政はこの行動を詠んでいて小谷城から部隊を出陣させいきましたが成政を中心とした殿部隊が足止めをしていきます。

この時に鉄砲部隊を統率し、殿の役目をしっかりと果たしていき信長を龍ヶ鼻まで移動をさせていきました。そして横山城を包囲していき朝倉の援軍一万が大依山に布陣していきここに浅井軍も合流し朝倉・浅井連合軍は一万三千兵となり織田軍は二万六千兵で姉川で1570年6月28日に対峙していきます。

両軍入り乱れてのが激しい戦いだったため、死傷者などの損害は詳しく分かっておりませんが姉川付近の地名に血と名がつくところがあるため激戦だったことは伺えました。戦は徳川家康による側面から攻撃を仕掛けていったことで決着がつき織田軍の勝利となります。

越中国平定に携わっていく

姉川で勝利を収めていき、朝倉・浅井家を滅ぼし抵抗していた本願寺勢に攻撃を仕掛けていきました。

長島一向一揆

抵抗していた本願寺勢を攻め立ていく信長は、五万の大軍を率いて1571年5月に部隊を三つに分けて侵攻させていきます。本願寺付近の民家に火を放ち退却していくと、本願寺勢はこれを絶好機会と思い織田軍を撤退していく狭い道の脇に伏兵を潜ませていきました。

身動きが取れない織田軍は柴田勝家が負傷し西美濃三人衆の一人だった氏家ト全が、殿を行いましたが敢え無く討ち取られてしまいます。その後も1573年も攻めていきましたが、船の取り締まりが上手く行かずに敗北してしまい翌年の1574年に十二万の大軍で本願寺を攻撃していきました。

陸と海から本願寺を徹底的に固め、兵糧攻めを行っていくと本願寺勢から降伏を願い出て来る者もいましたが信長は断固として降伏を受け入れず徹底して本願寺勢を根絶やしにしていきます。結果として餓死者が多数出てしまった本願寺勢は敗北し織田軍は織田一族の織田信広や秀成そして成政の嫡子松千代丸を失ってしまいました。

越中国平定に関与

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信長によって越前国を制圧した後に、成政は功績が認められて越前府中で三万三千石の禄を持つことになり勝家の与力として利家や不破光治と活躍していきます。1578年に荒木村重が信長に反旗を翻した際に有岡城攻めに従軍していきました。村重の反乱を制圧した後に勝家と上杉攻めを行っていき、侵攻をしていきましたが七尾城が陥落してしまい一時的に撤退していきます。

その後に越中国平定に向けて柴田軍に従軍していき上杉氏の要衝だった魚津城の攻略を開始。1582年3月から魚津城を包囲していくと上杉家当主だった上杉景勝が、自ら兵を率いて魚津城東に陣を構えていきました。

柴田軍は順調に魚津城の二の丸まで陥落させていき、上杉軍も決死の覚悟で籠城していましたが柴田軍の猛攻によって籠城していた主だった将十三名が自刃したことで魚津城を開城し柴田軍の勝利となっていきます。

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魚津城を包囲する前に富山城を陥落させ、富山城を拠点としていた成政だったようだな。

織田家当主が突然の横死

魚津城を陥落させた前日に、天下統一を目前に迫っていた信長が明智光秀の謀反に遭い本能寺で横死してしまいました。知らせを受け取った勝家や成政は、明智討伐の計画を立てていきましたが領地から兵を引き上げる際に上杉軍から攻撃を受けてしまい身動きが取れなくなってしまいます。

しかし中国征伐を行っていた秀吉がいち早く、京へと引き返し光秀を山崎の戦いで討ち取っていきました。その後に織田家次期当主を決める清州会議が開かれていきます。

三法師が当主となることが決められていきましたが、勝家と織田信孝が反秀吉派を結成し成政も勝家に味方をしていきました。

賤ケ岳の戦い

しかし上杉軍がいつ攻撃を仕掛けて来るか分からなかったため賤ケ岳に参陣することが出来ずに叔父に六百兵を預け柴田軍の一員として加えていきました。戦況は柴田軍が優勢に戦を進めていったものの、戦中に利家が戦線を離脱してしまったことや佐久間信盛が命令を聞かずに独断行動した結果敗北してしまいます。

このままでは自身の領土を取り上げられる可能性があることを感じた成政は、秀吉に娘を人質として預け越中一国を安堵された形で事なきを得ていきました。これにより秀吉方に属していくことになった成政でしたが、1584年の秀吉と家康の戦が始まろうとした時に態度を変えていきます。

天正十二年尾張北部で秀吉と争っていく

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小牧長久手が始まってから4か月ぐらい経った時に、秀吉から家康に加担していき天文12年8月に秀吉軍の利家に攻撃を仕掛けていきました。この時利家は朝日山城を守っていて利家家臣だった村井長頼が防戦していき、強襲攻撃を防がれてしまい成政は撤退を余儀なくされていきます。

また9月に入ると利家の領国の加賀国と能登国を分断させるべく要衝と呼ばれていた末森城を包囲していきました。利家の援軍を警戒しつつ一万五千兵で末森城の攻略をしていきましたが、落城寸前だとの知らせを聞いた利家は二千五百兵で末森城で急行していきます。

成政は末森城の攻撃に集中していていると後方から利家の部隊が攻め寄せてきたため、佐々軍の兵は混乱に陥り乱戦となっていきました。この激しい乱戦で両軍七百兵ほどの損害が出てしまい越中国まで帰還していきます。

秀吉に仕えていき切腹させられる

末森城で引き分けの形となり、小牧長久手でも秀吉と家康は和睦を結んでいくことになりました。

富山城を包囲

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秀吉に従軍することに納得のいっていない成政でしたが、越後国の上杉氏も攻め寄せて来ることもあり敵国に挟まれる形で動くに動けなくなっていきました。家康にも再挙するように直談判していくも、首を縦には振ってもらえず信雄にも滝川一益にも良い返事がもらえず一人孤立していく成政。

徳川派に加担した抵抗する大名を屈服させる動きが過激化していき、四国の長宗我部元親が秀吉に降伏していくと秀吉は成政居城の富山城へ十万の大軍で侵攻していきました。兵力差では適わず同盟していた国人衆が、降伏していき成政も信雄仲介の下で秀吉に降伏していきます。

秀吉の目の前に現れた時は髪を全て剃り法衣姿で、恭順を示したとされておりこの様子を見た秀吉は成政と妻も助命し領地を没収したうえで大坂城へ移動させていきました。

九州征伐で功績を認められたものの切腹へ

秀吉の下で役目を果たしている最中に、九州征伐が決まり島津氏を屈服させるべく秀吉は軍を率いていき成政は羽柴秀長の隊に加わり薩摩へ進軍していきました。戦況が秀吉側が優位となってくると島津氏は降伏を選択していきます。

成政が島津氏と秀吉との取次役を担い功績が認められ肥後一国を授けられていきました。久方ぶり領地を得た成政は秀吉から急な政務は行わないようにと注意されていましたが、その言付けを守らずに民達に重い税をのしかからせ反感を買っていきます。

国衆が反発し一揆が起こると自らの手で鎮静化させることが出来ず、秀吉に咎められていき切腹をいい渡され享年五十五歳で生涯を閉じていきました。

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成政死後に蒲生氏郷が成政の掲げていた馬印を使いたいと秀吉に願い出たようだが、武勇が高い者にしか与えられないといい氏郷は小田原征伐で大いに活躍し掲げることを認められたようだ。

太閤秀吉にも認められたいた成政

信長の家臣として秀吉や利家らと武を競い戦功を挙げていった仲間だったように思えますが、成政からすると何処か彼らを嫌っていた部分もあるようにも思えました。利家とは色違いだった衣衆に居た時に敵将をどっちが討ち取ったかを言い争っていたこともあったようです。

また秀吉とは配置される場所は違うこともあり、あまり戦で協力していた様子は確認されていません。しかし絶対主君信長が横死して時代から乱れ始めた時に、秀吉と対抗していき最後は降伏しましたが成政の心の中では秀吉には負けたくないという気持ちがあったように思えます。

そんな秀吉からも利家からも成政のことは高く評価されている記録が多数残されているので、秀吉と協力体制を築けていれば五大老まで登りつめていた可能性もあると思いました。

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