

そこで今回は土豪一族から成り上がり織田信長の馬廻りとして活躍し、武勇の高さを示した三階菅笠の馬印を掲げた武将の一人を歴史マニアで歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していくぞ。
- 尾張国の土豪一族だった佐々氏
- 佐々木一族だったと思われる佐々氏
- 六角氏から佐々氏が誕生した説
- 父佐々貞則は藤原氏を名乗っていた
- 織田家に仕えていく
- 孫介そして政次が桶狭間で名誉の討死
- 兄を失った成政が佐々家当主となる
- 信長の馬廻りとして仕える
- 美濃勢と交戦
- 成政家督相続後に勝利を得た織田軍
- 浅井家の離反
- 殿を任され信長を目的地まで移動させる
- 越中国平定に携わっていく
- 長島一向一揆
- 越中国平定に関与
- 織田家当主が突然の横死
- 賤ケ岳の戦い
- 天正十二年尾張北部で秀吉と争っていく
- 秀吉に仕えていき切腹させられる
- 富山城を包囲
- 九州征伐で功績を認められたものの切腹へ
- 太閤秀吉にも認められたいた成政
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/what
信長公記によると成政も織田信長暗殺を計画していたする記録が残されているようです。佐々氏の生い立ちと成政が信長の家臣時代から秀吉の家臣となっていく姿を紹介していく。
尾張国の土豪一族だった佐々氏
信長と同様に尾張国の生まれだったようで、春日井郡比良城で誕生していきました。
佐々木一族だったと思われる佐々氏

平安時代中期頃に天皇からの命令で源成頼が都から地方の近江国へと移動させられていき、成頼の嫡子だった佐々木義経が佐々木氏を名乗っていたことが佐々木一族の始まりとされています。その後、上皇と天皇が分かれた保元の乱が始まり佐々木一族は天皇方に味方して戦っていきましたが上皇方の勝利となり佐々木氏の筆頭だった佐々木秀義は討ち取られてしまいました。
残された子孫は奥州藤原氏の下へ落ち延びようとすると相模国の渋谷氏に庇護を受けた後に、源頼朝の家臣となっていきます。頼朝によって上皇方の平家を打倒すべく兵を招集していくと長男定綱の嫡子だった佐々木広綱は上皇方に味方し弟の佐々木信綱は源軍として参加していきました。
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六角氏から佐々氏が誕生した説
源軍の勝利で承久の乱が平定されると広綱は斬首され、信綱が佐々木家当主となっていきます。その後に信綱が亡くなり四人の嫡子達が近江で分かれていき大原氏・六角氏・京極氏・高島氏と名乗っていきました。
ここで分かれた四人からは佐々氏の名は見られませんが、一般的な説ですと六角氏の名を称した三男佐々木泰綱の子孫が佐々氏を称したといわれています。
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父佐々貞則は藤原氏を名乗っていた
佐々木一族だったといわれている説の他に藤原氏を名乗っていた記録もあります。佐々成政の父だった佐々貞則は尾張国の高田寺に自身の名前を刻んだ鐘が現在も残されていてそこには、比良佐々下野守藤原貞則と刻まれていました。
また貞則の時に信長の祖父にあたる織田信貞に仕えていたとも考えられていて、その際に偏諱を受けた時に比良佐々下野守藤原貞則と称していたともいわれています。あまり出自がはっきりしていないのは成政だけでなく、室町から戦国へと時代が変わっていき一代で家名を大きくした大名も同じように不明でした。
織田家に仕えていく
成政の兄だった佐々政次は1539年の織田信秀に仕えていていきました。当時は織田家と今川家によって西三河の領地を求めた戦いが度々行われていて、三河国の矢作川付近で小豆坂の戦いが織田軍と今川軍によって繰り広げられていきます。
この戦で政次が奮戦したと記されていて弟の佐々孫介と共に小豆坂七本槍と称され、織田軍の勝利で戦を終えました。しかし近年では小豆坂の戦いが1542年に行われていたかを疑問視する説もあるようです。戦の規模もあまり分かっていないため両者の兵力も損害も不明でした。
1548年になると今川氏から離反した水野氏の動向が起因となり、今川氏と戦うことになっていく織田軍。第二次小豆坂の戦いと呼ばれ、政次はこの戦にも参戦したと思われ再び両軍は小豆坂で戦となっていきました。織田軍が四千兵で今川松平連合軍が一万兵で開戦し、坂の上に陣を構えていた今川松平連合軍が優位に戦を進めていきます。
孫介そして政次が桶狭間で名誉の討死
1556年に織田家の家督争いから発展した稲生の戦いが発生し、信長と弟だった織田信行が庄内川で対峙していきました。信長軍の兵は七百ほどで信行軍は戦上手で知られる猛将柴田勝家が味方だったこともあり千七百兵まで膨れていたようです。
開戦直後から兵力差に苦しめられていく信長軍は、前線にいた孫介が柴田軍によって討ち取られいき本陣まで攻め込まれていきました。信長もこのまま敗戦するわけにもいかないため、前線に森可成と織田信房を向かわせていきます。すると両名の奮戦もあり信行軍の将を討ち取っていき勝利することができました。
1560年になると今川義元が大軍を率いて尾張国に侵攻を始めていき要衝の砦が陥落していき、信長が善照寺砦に到着したことを確認すると千秋四郎と共に政次は捨て身覚悟で今川本隊と衝突していきます。しかし奮戦虚しく今川本隊に討ち取られてしまった政次でしたが、信長の奇襲攻撃があったおかげ桶狭間に勝利することが出来た織田軍でした。
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