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七卿落ち後明治新政府の要職についた「三条実美」維新の元勲を歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は三条実美を取り上げるぞ。七卿落ちで失脚後、明治新政府では要職に返り咲いた人だが、どういう人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三条実美について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三条実美は京都の生まれ

三条実美(さんじょうさねとみ)は天保8年(1837年)、三条実万(さねつむ)の3男として、現在の京都市上京区梨木町で誕生。母は正室で土佐藩主9代山内豊策(とよかず)の娘紀子。幼名は福麿、3男のために三条家庶流の花園公総の養子となるはずだったということ。

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三条家は藤原北家の分家で、名門公家
三条家は、藤原氏北家閑院流の嫡流。公家としての家格は清華家で、最上位の摂家に次いだ家格で大臣家の上の序列。三条、西園寺、徳大寺、久我(こが)、花山院、大炊御門、今出川の7家があり、大臣、大将を兼ねて太政大臣に、また娘は皇后になれる資格がある家柄であるそう。尚、三条家の家業は笛と香道、装束の調達が家業ということ。

家号を略して「三条」と呼ばれる正親町三条家(おおぎまち)、三条西家との区別のために、転法輪三条家(てんぽうりん、又はてぼり)と呼ばれることも。三条家の分家としては、大臣家の正親町三条家と三条西家など。

1-2、実美の子供時代

実美は子供の頃から優秀だったので、三条家家臣で実美の教育係でもあった富田織部が父実万に、次男公睦が病弱のため、実美を養子に出さずにおくように進言。

また実美が14、5歳のころ、公家の子弟たちにいくさごとの遊びが流行り、他の子弟たちは有名な武将の紋を旗印にしたが、実美は日の丸の紋を用いたということ。お日様が戦をするのはおかしいと言われると実美は、これは国の印だ、国と国とがいくさをするのはこの印でなければと言ったそう。

1-3、実美、三条家の跡取りに

実美の長兄は廃嫡されたということで、同母兄で9歳年上の次男公睦(きんむつ)が後継ぎとなったが、体が弱くて安政元年(1854年)に27歳で早世。公睦には庶子公恭が生まれたばかりで、本来であれば公恭が後継ぎになるはずが、富田織部の強い推挙で、17歳の実美が4月に嗣子に決定。8月には元服して実美に。尚、美の読み方は「よし」や「はる」が公家でも一般的だが、父実万はその読み方を嫌い、儒者池内大学の勧めで「さねとみ」に。そして兄の子公恭を養子としたということ。

実美は元服後、従五位上に叙されて侍従に。そして加茂社臨時祭で舞人の役を務めたそう。

1-4、実美の父、安政の大獄に連座

実朝の父実万は、攘夷達成のため、安政5年(1858年)8月8日、孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜したといわれる戊午の密勅(ぼごのみっちょく)に関わったために、安政の大獄で隠居、蟄居となり出家し、翌年10月に死去。実美は、京都の郊外に蟄居した父を訪ねて政情や自分の学業などを報告したりするなかで、政治に関心をもったということ。

2-1、実美、活動開始

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

文久2年(1862年)、薩摩藩主の父である島津久光の上洛後に26歳の実美は活発な活動を始め、久光の意見を入れて関白九条尚忠の退任と、旧例にとらわれない人材登用で関白を選ぶべきという上書を提出。父実万の関係で中山忠能や親類の正親町三条実愛の引き立てもあり、国事書記御用に任ぜられて朝廷の中枢に触れる事ができるように。

そして父実万の養女と結婚していた姻戚の土佐藩前藩主山内容堂を通して藩主山内豊範を上洛させ、武市半平太ら土佐勤王党も藩主に随行してきた土佐藩は京都政界へ進出。実美は本来は公武合体論者であったが、武市ら尊王攘夷派の志士と交流を深めるようになり影響を受けたということ。

2-2、実美、勅使として江戸へ下向し長州にコネが出来る

そして6月に大原重徳が薩摩藩の運動で攘夷催促の特使として派遣されたばかりであったが、8月、今度は長州藩と土佐藩が、14代将軍家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣する運動を開始。8月10日に実美は攘夷督促の勅使再派遣の意見書を提出、10月に実美が正使、姉小路公知(きんとも)が副使として江戸へ。

このとき武市半平太も姉小路の雑掌という名目で江戸行きに同行したためか、実美は江戸で長州藩主の世子毛利定広をはじめ、武市とは旧知の周布政之助、久坂玄瑞らと頻繁に面会し、密接な関係となったということで、12月9日には国事御用掛が設置されて実美は御用掛のひとりに任命。

尚、攘夷志士たちは、色の黒い姉小路公知を黒豆、色の白い実美を白豆と呼んでいたことは有名。

2-3、実美、朝廷を掌握し権勢を誇る状態に

実美は、京都へ帰った後、武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめようとし、また長州藩と手を組んで薩摩藩に圧力を掛けようと動き、実美は同じ国事御用掛で薩摩の島津家の親戚である近衛忠房に対し怒りを買う発言をしたり、薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王(のちの久邇宮朝彦王)の不信を買ったりと我が物顔となったよう。

文久3年(1863年)正月、忠房の父で親薩摩派の関白近衛忠煕(ただひろ)は、実美らの攻撃に耐えかねて辞職、そして長州関白と呼ばれた鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)が関白に。2月には尊攘派公家たちが将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求め、実美が交渉役に選ばれて、慶喜に対して4月中旬を攘夷期限とする言質をとるまでに。鷹司関白は高齢で、若い実美ら尊攘派公家に対抗できず、実美はもはや敵なしの権勢に。

この実美の横暴ともいえる状況を憂いた青蓮院宮は、実美の親戚である土佐藩前藩主山内容堂に実美の説得を依頼。当時、実美の師の池内大学も殺害されたほど尊攘派志士の活動が過激化していたため、実美は容堂に、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明して、自分の身を察してくれと言ったそう。そして2月21日、実美は議奏に任ぜられたが、病気を理由に辞退したいと述べたものの許されず。

2-4、実美、孝明天皇の賀茂神社、石清水八幡宮行幸を強行

3月4日、将軍家茂が上洛し、3月11日には上賀茂神社、下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が決行され、攘夷を迫る将軍への圧力に。尚、石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただし、無理にでも輿に乗せると脅迫したということ(孝明天皇はお酒を飲んで酔った勢いで乗り込んだという話も)。そして5月10日の攘夷決行を約束させて、当日、孝明天皇に焦土と化しても開港せずという勅を出させるまでに。

この頃には島津久光、松平春嶽、山内容堂の公武合体派は京都を去ったので、長州藩と尊攘派によってほぼ京都政局を掌握。しかし、意に染まぬ偽勅を勝手に出され、予想外の状況に強引に持っていこうとする実美らの暴挙について、孝明天皇は尊攘派公家たちを暴論の堂上とか逆臣と呼び忌み嫌うように。

2-5、姉小路公知暗殺

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不明 – 幕末の志士, パブリック・ドメイン, リンクによる

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幕府のほうも、攘夷派公家の筆頭の実美と姉小路公知の懐柔を画策。姉小路は将軍家茂の動静を探るために4月23日に破約攘夷派の志士たちを帯同して大坂へ下り、幕府軍艦奉行並勝海舟と会談、世界情勢や海軍の必要性を懇々と説かれたため、姉小路は勝の現実的な開国大攘夷論(開国して列強の文明を取り入れて、富国強兵の後に攘夷を行うということ)に感銘を受けたそう。そしてこれまでの信条がゆらぎ、暗殺事件の10日前の5月9日には武家伝奏から幕府に対して摂海防禦総督の任命、長崎に巨艦製造のための製鉄所設置を命令したということ。

この姉小路の心変わりは、破約攘夷派内部でもほとんど一部しか知られていなかったが、武市半平太瑞山や轟武兵衛(熊本藩士)らは、姉小路が勝に籠絡されたと事態を深刻に受け止め、以前から武市の命令で要人暗殺に関わっていたといわれる田中新兵衛に話が伝わったらしい。そして5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出、実美は輿で青蓮院宮邸に向かうために別れた直後、姉小路は朔平門外で暗殺。姉小路暗殺犯と見られた薩摩藩の田中新兵衛は、捕縛後自決して真犯人は不明のまま。

2-6、実美、大和行幸を強行しようとしてついに失脚

孝明天皇の偽勅を連発したり、行幸を嫌がる天皇を脅すほどの権勢を握った実美だが、じつは過激派攘夷志士たちの言動に引きずられていただけらしく、身近で起こった姉小路の暗殺のこともあり、今さら意見を変えることもできないと嘆き、脚気がひどくなったと邸に引きこもって出家遁世したいと気弱なことを言うように。

しかし6月に久留米藩から尊攘派の真木和泉が上洛して学習院御用掛となり、実美らのブレーンに。そして天皇が先頭に立って攘夷親征を行って世の中の動きを変えるという真木の主張をもとに、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸を計画。 また孝明天皇の信頼篤い京都守護職松平容保京都から追い出し作戦を、偽勅をもって成し遂げようとしたが、孝明天皇も上洛中の大名らも大和行幸には反対。孝明天皇は信頼しきっていた京都守護職の松平容保に宸翰を送り、薩摩藩が会津藩と同盟を締結、薩摩藩から青蓮院宮(後の久邇宮朝彦王)に連絡しと、公武合体派の公卿、薩摩藩、京都守護職松平容保の会津藩兵力が連携し、孝明天皇の意志が働き長州藩と尊攘派排除のためのクーデターに。

8月18日午前1時、薩摩藩、会津藩他諸藩の兵が御所の九門を固め、攘夷急進派公家を締め出し、実美の邸には、長州の久坂玄瑞、肥後の宮部鼎蔵、土佐の土方久元らが駆けつけ、実美は関白鷹司邸へ赴き、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉と会合。鷹司関白は参内したままだったが、実美らは参内停止、長州藩も御所の警備から排除決定。実美ら7人の公卿たちは真木や長州藩士と協議して、妙法院に移ったのちに長州藩に向かうことに。

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へええ、過激派に引きずられていたって、武士じゃなくて公家らしい言い訳だな。

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