今日は二・二六事件(ににろくじけん)について勉強していきます。世の中を変えるためにテロや暗殺を繰り返し、軍部独裁のもとに新しい国を作るその思想は、まるで大作映画のストーリーに思えるでしょう。

しかしこれは1936年に日本で現実として起こった事件であり、この事件を二・二六事件と呼ぶ。そこで、今回は二・二六事件について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から二・二六事件をわかりやすくまとめた。

昭和恐慌の危機的状況

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政治家と経済界の癒着に怒る国民

1920年を過ぎると日本の経済状況は悪化、1930年には世界恐慌の影響が日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれる深刻な事態に陥ります。アメリカへの生糸輸出激減は農村に大きな打撃を与え、さらに米価が下落、それに加えて朝鮮や台湾からも米が流入されたことで米過剰となりました。

貧困に陥った農家では欠食児童や女性の身売りが社会問題化され、これを農村恐慌とも呼びます。この危機的状況に対して政府は頼りなく、財界との癒着だけが目立つばかり、明治時代にもそれは見られましたが、この当時の政党内閣の時代においても政治家と経済界は結ばれていたのです。

深刻な恐慌のさなかでも癒着する政治家と財界人に怒りを覚える者も少なくなく、国を変えることを名目にしたテロ事件が多発。1932年の血盟団事件、日頃から政治活動に励んでいた日蓮宗の僧侶・井上日召が若い青年達を集結させ、政治家や財界人を標的としてテロを計画する事件が起こりました。

民主主義を覆した軍力の強さ

1928年の選挙では初めて普通選挙法が採用され、25歳以上の男性に選挙権が与えられるようになりました。こうして完成しつつある民主主義国家、しかしそんな民主主義を覆しかねない事件が起こります。その事件とは、1931年に満州にて関東軍が起こした柳条湖事件や満州事変でした。

関東軍とは、朝鮮軍や台湾軍と同じく日本が外地に派遣した部隊の一つで、関東軍は満州地方の担当です。その関東軍が政府の意思ではなく独断で柳条湖事件や満州事変を起こしたため、民主主義を掲げつつも、結局は「軍の力が強い」、「軍の力が全て」と知らしめることになってしまいました。

そのせいか、軍の力を使った暴力的な政治活動が横行してしまい、血盟団事件と同じ1932年には五・一五事件が発生。首相・犬養毅が暗殺されるという日本では信じられない事件まで起こります。そんな情勢の中、国家改造運動を行って日本を変えようとする指導者が現れました。

北一輝の国家改造計画

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目指すは軍部独裁による新しい国作り

国の体制に失望した国民は、やがて国家改造計画を掲げるようになります。国家改造計画とは士官学校を出たばかりの若い青年将校や国家社会主義者などが中心となって行った運動で、日本を変えるための役人までこれに加わり、明治維新のように昭和維新を行おうと考えていました。

その目的は軍部独裁による新しい国作り、そして大陸への積極的な進出です。ただ、このような運動を行う場合に欠かせないのがリーダーの存在、ですから国家改造計画においてもこの思想を持つリーダーがいました。そして、そのリーダーとは北一輝です。

北一輝が掲げていたのは国家社会主義、国家権力を使って資本主義の膿みを出そうとする考え方で、要するに軍力によって天皇を中心とした軍国主義の日本を作ろうとする思想。さて、軍国主義において主役となるのは文字どおり軍ですが、当時日本の陸軍では派閥が存在しました。

陸軍の派閥・皇道派と統制派の対立

派閥の1つは皇道派、「天皇の道の派」の文字から読み取れるとおり、天皇自身が政治を行う天皇親政を思想とするグループです。その手段は過激なもので、武力行使で政権を奪い、軍部が政治権力を独占して軍事政権を手に入れることも正義と考えていました。

一方で皇道派に対抗する派閥とされるのが統制派、皇道派とは全く逆で、武力行使に頼らないグループです。政界・財界など権力を持つ勢力とのつながりを深めることで軍部の影響力を強め、あくまで合法的に軍の意向が反映された政権を作るべきと考えていました。

このように、同じ日本陸軍でも考え方は全く違う皇道派と統制派、当然対立と衝突が起こることになり、それが1935年の相沢事件です。皇道派の相沢三郎が統制派の永田鉄山を白昼に斬殺、その動機は統制派が皇道派を追放しようとしたためで、この事件が二・二六事件へとつながっていきました。

二・二六事件の発生

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昭和維新の計画実行

1936年の2月26日、陸軍の皇道派の青年将校達が1500人もの兵を率いて昭和維新の計画を実行に移しました。目的は重要人物の殺害で、そのため皇道派の兵は首相官邸をはじめ、陸軍省や警視庁などを占拠、計画に従って重要人物を次々に殺害していきます。

大蔵大臣・高橋是清が殺害され、内大臣・斎藤実が殺害され、陸軍教育総監・渡辺錠太郎が殺害され、ただ最大の標的にされていた首相・岡田啓介は身を隠して助かります。その頃、陸軍には皇道派のクーデターの知らせが入りますが、意外にも陸軍は積極的な鎮圧を図ろうとはしません。

この理由は2つあり、1つは同士討ちを怖れたことです。戦場は都心、相手は同じ陸軍となれば同士討ちが起こってしまうのは必至でしょう。もう1つの理由はこのクーデターに同意を示す者もいたことです。中には同情する意見も少なくなく、そのためクーデター鎮圧の士気が高まりませんでした。

昭和天皇の意向

クーデターを起こした皇道派が最も警戒したのは同等の武力を持つ同じ陸軍、しかし陸軍は鎮圧に消極的だったため、皇道派のクーデターは計画どおりに成功すると思われました。そんな状況を大きく変えたのが昭和天皇、この事態に対して「厳しく対処せよ」の意向を見せたのです。

天皇の意向が伝わった陸軍の上層部、さらに天皇は近衛師団を率いて自らクーデター鎮圧に赴く意向まで見せたため、陸軍もこれ以上静観することはできないと動きます。陸軍のみならず海軍とも連携して、全軍力をもってクーデター鎮圧を図ることを決断しました。

2月28日、現在暴れているクーデター部隊に対して天皇の命令が下されます。「クーデターに参加している部隊は反乱軍とみなして対処する。兵士達は元の部隊のもとへ戻っていくように!」……この命令によって翌日クーデター部隊は解散、クーデターを首謀した皇道派の青年将校の多くが投降して事態は収まりました。

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二・二六事件のその後

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首謀者の裁判

二・二六事件は天皇の命令で収まりましたが、その後首謀者達はどうなったのでしょうか。この事件に参加した首謀者は陸軍皇道派の青年将校達ですが、裁判の結果19人が銃殺刑、さらにクーデター発生に至るまでの思想を説いたリーダー・北一輝には死刑判決が下されました。

また、最大の標的にされていた首相・岡田啓介は殺害されずに助かったものの、事件後に内閣総辞職となってしまいます。複数の重要人物が殺害された二・二六事件、実はこの事件を利用して利益を得た者もいました。それは陸軍統制派のメンバー達で、皇道派を重職から外して排除させ、軍の実権を握ることに成功したのです

そして、岡田啓介が総辞職したため新たな内閣総理大臣が任命されます。ここで指名されたのは外交官だった広田弘毅、ただ内閣を誕生させるにあたって軍が介入することになり、閣僚人事や軍備拡張などにおいて軍の要求を受け入れた末に誕生した内閣となりました。

統制派の政治への介入

さらに、これまで廃止されていた軍部大臣現役武官制が再び採用されるようになります。軍部大臣現役武官制とは、元々1900年に陸軍の生みの親・山県有朋によって作られた制度であり、陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人しかなれないというものです。

軍部大臣現役武官制と一言で書くと複雑ですが、分けて考えると分かりやすいと思います。「軍部大臣」とは陸軍大臣・海軍大臣の意味、「現役武官」とは現役の軍人の意味、そして「制」は制度。つまり「軍部大臣現役武官制」とは「陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人しかなれない」という意味になります。

この制度は1913年に廃止……というより基準が緩和されたのですが、閣僚人事や軍備拡張同様、陸軍統制派の要求によって再び採用されることになりました。軍への予算も3倍に増え、二・二六事件以降、明らかに軍が政治において権限を持つようになったのが分かります。

二・二六事件と間違えやすい五・十五事件

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二・二六事件と五・十五事件の違い

二・二六事件の解説は以上ですが、この事件と勘違いしやすく紛らわしいのが五・十五事件です。二・二六事件が起こったのは1936年なのに対して五・十五事件が起こったのは1932年。年が近い上にどちらも軍が関係した事件のため、区別できるよう五・十五事件についても簡単な解説をしておきましょう。

五・十五事件でもやはり青年将校達が犯行に及んでいますが、この青年将校達は海軍であって陸軍ではありません。また、この事件で思想を広めたのは北一輝ではなく大川周明、つまりこの時点で「1932年と1936年」、「海軍と陸軍」、「大川周明と北一輝」の違いがありますね。

次に目的ですが、二・二六事件の場合は日本を変えるクーデターでしたが、五・十五事件の場合は首相の殺害で、五・十五事件では当時の首相・犬養毅が殺害されています。最も、これは直接恨みがあったわけではなく、犬養毅は政府のトップという理由だけで殺害されました。

五・十五事件の流れ

実は五・十五事件で元々狙われていたのは首相・若槻礼次郎でした。日本はロンドン海軍軍縮条約によって軍備を縮小、これはイギリスやアメリカの要求に従ったものでしたが、海軍将校達からすればそれは面白くなく、この条約締結に対して大きな不満を抱いていたのです。

そして、条約締結時に全権大使を務めていたのが若槻礼次郎、しかもその若槻礼次郎が首相となったことで、海軍将校達の怒りはより高まります。これに加えて日本経済の悪化、生活を厳しくした上に軍備縮小まで行った若槻礼次郎を海軍将校達は許せなかったのでしょう。

そのため殺害を決意するのですが、ここで満州に派遣されていた関東軍が満州事件を起こし、政府でも手に負えない暴走を繰り広げてしまいます。そのため若槻礼次郎は辞職、殺害予定の若槻礼次郎が辞職したことで海軍将校達は新たな首相の殺害を決断、そして若槻礼次郎の後を継いだのが犬養毅だったため、彼は殺害されてしまったのです。

二・二六事件と五・十五事件は勘違いしやすい!

二・二六事件で最も難しいのは、実は五・十五事件との区別で、「難しい」と言うよりは「紛らわしい」と言うべきでしょうか。二・二六事件は内容こそ大きな事件ですが、事件そのものは数日で収まります。

ですから事件の規模に比べて覚えることは少なく、戦国時代の戦いの方が覚えることは余程多いでしょう。それよりも、名前も概要も似た五・十五事件と間違えないように注意してください。

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日本史昭和歴史

首都東京を襲った昭和のクーデター「二・二六事件」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は二・二六事件(ににろくじけん)について勉強していきます。世の中を変えるためにテロや暗殺を繰り返し、軍部独裁のもとに新しい国を作るその思想は、まるで大作映画のストーリーに思えるでしょう。

しかしこれは1936年に日本で現実として起こった事件であり、この事件を二・二六事件と呼ぶ。そこで、今回は二・二六事件について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から二・二六事件をわかりやすくまとめた。

昭和恐慌の危機的状況

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政治家と経済界の癒着に怒る国民

1920年を過ぎると日本の経済状況は悪化、1930年には世界恐慌の影響が日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれる深刻な事態に陥ります。アメリカへの生糸輸出激減は農村に大きな打撃を与え、さらに米価が下落、それに加えて朝鮮や台湾からも米が流入されたことで米過剰となりました。

貧困に陥った農家では欠食児童や女性の身売りが社会問題化され、これを農村恐慌とも呼びます。この危機的状況に対して政府は頼りなく、財界との癒着だけが目立つばかり、明治時代にもそれは見られましたが、この当時の政党内閣の時代においても政治家と経済界は結ばれていたのです。

深刻な恐慌のさなかでも癒着する政治家と財界人に怒りを覚える者も少なくなく、国を変えることを名目にしたテロ事件が多発。1932年の血盟団事件、日頃から政治活動に励んでいた日蓮宗の僧侶・井上日召が若い青年達を集結させ、政治家や財界人を標的としてテロを計画する事件が起こりました。

民主主義を覆した軍力の強さ

1928年の選挙では初めて普通選挙法が採用され、25歳以上の男性に選挙権が与えられるようになりました。こうして完成しつつある民主主義国家、しかしそんな民主主義を覆しかねない事件が起こります。その事件とは、1931年に満州にて関東軍が起こした柳条湖事件や満州事変でした。

関東軍とは、朝鮮軍や台湾軍と同じく日本が外地に派遣した部隊の一つで、関東軍は満州地方の担当です。その関東軍が政府の意思ではなく独断で柳条湖事件や満州事変を起こしたため、民主主義を掲げつつも、結局は「軍の力が強い」、「軍の力が全て」と知らしめることになってしまいました。

そのせいか、軍の力を使った暴力的な政治活動が横行してしまい、血盟団事件と同じ1932年には五・一五事件が発生。首相・犬養毅が暗殺されるという日本では信じられない事件まで起こります。そんな情勢の中、国家改造運動を行って日本を変えようとする指導者が現れました。

北一輝の国家改造計画

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