
結果的に日本が国際的に孤立してしまうこの事件は、シンプルな戦いに比べて少々複雑になっている。そこで、今回は満州事変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から満州事変をわかりやすくまとめた。
中国の支配権を巡る内戦
1904年の日露戦争はアメリカの介入によって講和という形で決着がついたものの、戦果から判断して勝利したのは明らかに日本。そのため、翌年結ばれたポーツマス条約はいずれも日本に有利な内容となっており、南満州にある鉄道利権をロシアより譲渡されました。
そして、1911年になると日本が中国でのさらなる領地拡大を狙うチャンスが訪れます。1911年に起きた辛亥革命によって清朝が滅亡、そこで中国では今後誰が国を統治していくのかで揉めていました。毛沢東率いる共産党、共産党に反対する蔣介石率いる国民党、どちらにも属していない軍閥……中国の支配権を巡っての内戦が起きていたのです。
日本はそんな中国の内戦状態を利用して中国での領地を拡大しようと画策、その方法は内戦中の軍閥の一人を支援して日本の権利を高めることでした。日本が目を付けたのは満州を支配する軍閥である張作霖、内戦で張作霖が勝利すれば彼を支援した日本の権利が高まるのは明白、それが日本の狙いだったのです。
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張作霖の爆殺
内戦が起こっていた当時、最も有力とされていたのは中国南部から北上してきた国民党の蒋介石、南部だけでなく中国全土の支配を目論む蒋介石は軍を北へと向かわせます。一方、日本が支援する張作霖は北京から満州にかけての地域を支配しており、日本は張作霖に対して北京の放棄を勧めました。
北上してくる蒋介石とまともに戦ってもまず勝ち目はなく、北京は放棄して満州の防衛に努めるべきと進言した日本。しかし、張作霖はそんな日本の言葉を無視して蒋介石に戦いを挑むと敗北、満州に逃げ去った張作霖にはもはや内戦に勝ち残るだけの力はなく、日本にとってもう彼を支援する意味はなくなりました。
残酷な表現をしてしまえばまさに「用済み」、そこで現地を支配する日本の関東軍(満州で権限を持っていた日本の陸軍部隊)は撤退する張作霖を列車ごと爆殺してしまいます。このような事件を独断で行った関東軍の首謀者に対して首相・田中義一は処分の命令を下し、その処分が甘いとした天皇は首相を叱責、田中義一は首相を辞職しました。
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