今日は満州事変(まんしゅうじへん)について勉強していきます。1931年に起こった日本と中国の武力争いに至った満州事変、この事件ほど「陰謀」や「策略」のキーワードが相応しい事件はないでしょう。

結果的に日本が国際的に孤立してしまうこの事件は、シンプルな戦いに比べて少々複雑になっている。そこで、今回は満州事変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から満州事変をわかりやすくまとめた。

中国の内戦を利用しようと企んだ日本

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中国の支配権を巡る内戦

1904年の日露戦争はアメリカの介入によって講和という形で決着がついたものの、戦果から判断して勝利したのは明らかに日本。そのため、翌年結ばれたポーツマス条約はいずれも日本に有利な内容となっており、南満州にある鉄道利権をロシアより譲渡されました。

そして、1911年になると日本が中国でのさらなる領地拡大を狙うチャンスが訪れます。1911年に起きた辛亥革命によって清朝が滅亡、そこで中国では今後誰が国を統治していくのかで揉めていました。毛沢東率いる共産党、共産党に反対する蔣介石率いる国民党、どちらにも属していない軍閥……中国の支配権を巡っての内戦が起きていたのです。

日本はそんな中国の内戦状態を利用して中国での領地を拡大しようと画策、その方法は内戦中の軍閥の一人を支援して日本の権利を高めることでした。日本が目を付けたのは満州を支配する軍閥である張作霖、内戦で張作霖が勝利すれば彼を支援した日本の権利が高まるのは明白、それが日本の狙いだったのです。

張作霖の爆殺

内戦が起こっていた当時、最も有力とされていたのは中国南部から北上してきた国民党の蒋介石、南部だけでなく中国全土の支配を目論む蒋介石は軍を北へと向かわせます。一方、日本が支援する張作霖は北京から満州にかけての地域を支配しており、日本は張作霖に対して北京の放棄を勧めました。

北上してくる蒋介石とまともに戦ってもまず勝ち目はなく、北京は放棄して満州の防衛に努めるべきと進言した日本。しかし、張作霖はそんな日本の言葉を無視して蒋介石に戦いを挑むと敗北、満州に逃げ去った張作霖にはもはや内戦に勝ち残るだけの力はなく、日本にとってもう彼を支援する意味はなくなりました。

残酷な表現をしてしまえばまさに「用済み」、そこで現地を支配する日本の関東軍(満州で権限を持っていた日本の陸軍部隊)は撤退する張作霖を列車ごと爆殺してしまいます。このような事件を独断で行った関東軍の首謀者に対して首相・田中義一は処分の命令を下し、その処分が甘いとした天皇は首相を叱責、田中義一は首相を辞職しました。

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満州事変の発生

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蒋介石と手を組んだ張作霖の息子・張学良

内戦を利用した日本の領土拡大の計画は失敗、張作霖の支援はムダに終わります。さて、張作霖の軍閥では息子の張学良が後を継ぐことになりますが、張学良は蒋介石ではなく日本を恨んでいました。確かに父を敗北に追いやったのは蒋介石ですが、父を爆殺したのは関東軍ということを知っていたのです。

ここで、日本を恨む張学良は父を敗北させた蒋介石の味方になることを宣言、結果的に日本は軍閥という駒を失っただけでなく、蒋介石の勢力を拡大させてしまいました。張作霖爆殺事件からおよそ4ヶ月経過した1928年10月、関東軍の参謀に石原莞爾が任命されます。

彼は後に起こる満州事変の首謀者になる人物ですが、では満州事変はどのようにして起こったのでしょうか。その原因の一つが1931年6月に起こった中村大尉事件、当時現地の調査に訪れていた中村大尉がスパイ容疑をかけられた末に銃殺され、その遺体も焼かれた凄惨な事件です。

柳条湖事件から起こった満州事変

中村大尉事件を起こしたのは満州地域を納めていた張学良の軍でしたが、張学良はこれを否定しています。この事件によって日本の中国の関係は急速に悪化したのです。そして、満州事件発生の直接の原因となったのが1931年9月に起こった柳条湖事件でした。

1931年9月のこと、奉天郊外の柳条湖にて南満州鉄道の線路の一部が爆破される事件が起こります。関東軍はこの事件を中国が起こしたと断定して軍事行動を開始しますが、実はこの事件を起こしたのは関東軍。要するに軍事行動を起こすきっかけを作るための自作自演の策略だったのです。

こうして発生したのが満州事変、中国に対して堂々と軍事行動を起こす状況を作り上げた関東軍はたちまち満州各地の占領に成功します。翌1932年には満州全土を制圧するまでに至り、追い詰められた張学良は南へと退いていくものの、関東軍と戦う気持ちは未だ切れていませんでした。

関東軍の行動に対する内閣や世論

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関東軍の暴走を止められない内閣

満州事変は日本の政府の命令ではありません。満州では政府と軍部が分離されており、そのため派遣されていた関東軍は日本政府の意思とは別に独自の権限が与えられていました。関東軍の参謀たちは、日本政府の意思に反して満州の支配を計画してそれを実行に移していきます。

そもそも、当初は援助していた張作霖を用済みと称して列車ごと爆殺したのも関東軍の独断、そして満州事変も関東軍の独断、日本政府からすればもはや関東軍の行動は作戦ではなく暴走。関東軍が軍事行動を起こした満州事変によって内閣は大混乱に陥りました。

満州事変が発生した時の総理は若槻礼次郎不拡大方針と呼ばれる方法で騒ぎを大きくさせないことを望みましたが、関東軍はこれを無視して戦線拡大。そのため若槻礼次郎は内閣を総辞職、引き継いだ犬養毅も関東軍の暴走を止められず、軍部から反感を買ったことで暗殺されてしまいました。

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関東軍を支持した世論

満州事変の後、関東軍は中国の一部に満州国を設立します。国家元首の称号を執政として、溥儀を執政に迎えました。溥儀は1911年の辛亥革命によって退位した清朝最後の皇帝ですが、その溥儀が執政となっているのはあくまで名ばかりのことで、実際に満州国を支配していたのは言うまでもなく関東軍

ですから、満州国の本当の姿は日本の傀儡国家(形式上こそ独立国だが、実際は他国に支配されている国)であり、関東軍の承認なくして要職に就くことはできなかったようです。暗殺されてしまった犬養毅も満州国を認めませんでしたが、その後を継いだ斎藤実は日満議定書を締結させて満州国を正式に承認、関東軍の起こした満州事変の正当性を示しました。

現在は政治家のたった一言の失言が炎上を招く世の中。当時の関東軍は国民にどう評価されたのでしょうか。実は関東軍の行動は支持されており、これは新聞などで軍事行動を支持する報道がなされた影響によるものです。また、1920年代に襲った不況の流れを満州事変が変えてくれるかもしれないという期待もありました。

五・十五事件

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犬養毅が暗殺された理由

1932年に起きた首相・犬養毅が暗殺された五・十五事件、文字とおり5月15日に起こったこの事件を見ていきましょう。犬養毅の前に首相となっていたのが若槻礼次郎、彼は関東軍を制止できなかったことから内閣を総辞職、その後を継いだのが犬養毅でした。

犬養毅は若槻礼次郎の考えと違って満州事変を否定しておらず、そのため戦争の縮小も図っていません。そのため、軍部の反感を買う理由はどこにもないのですが、それでも海軍将校によるテロ事件によって暗殺されてしまったのです。それは明らかに矛盾しており、ではなぜ犬養毅は暗殺されてしまったのでしょうか。

この理由を一言で説明するなら「不運なタイミングでの首相への就任」でしょう。そもそも五・十五事件の背景にあったのは、1930年に浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結させたことが関係しています。そして、当時全権大使を務めていたのが元総理である若槻礼次郎でした。

関東軍の影響で早々に辞任した若槻礼次郎

浜口内閣が崩壊したことで再び総理へと就任した若槻礼次郎、ロンドン海軍軍縮条約の締結時に全権大使を務め、なおかつ現状政府トップに立つ若槻礼次郎は青年将校の明らかなターゲット。実際、政府襲撃事件の計画を立てていた青年将校は若槻礼次郎を暗殺の標的にしていました。

そんな時に起こったのが関東軍の暴走で、これに対処しきれなかった若槻礼次郎は早々に総理を辞任、そのため青年将校は標的を失うことになります。当初は若槻礼次郎に対して見せていた怒りと敵意、その若槻礼次郎が辞任したことで、青年将校は怒りと敵意の矛先を日本政府そのものに向けたのです。

そして若槻礼次郎にかわって総理となったのが犬養毅、一方の青年将校は日本政府のトップという理由で総理に就いた犬養毅を暗殺しました。そもそも犬養毅は軍部に感謝されていた人物、しかしこのタイミングで総理に就任したことが災いしてしまったのです。

\次のページで「満州事変後の日本と中国」を解説!/

満州事変後の日本と中国

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日本の国際連盟脱退

満州国の建国を日本が宣言すると、中国はこれを日本の侵略行為だとして国際連盟に訴えました。この中国の訴えに対して調査を決めた国際連盟は、1932年にイギリスのリットンを団長として調査団を派遣、これをリットン調査団と呼びます。

調査の結果、リットンは日本の満州における権利は承認するものの、一方で満州国の建国は承認しませんでした。リットン調査団の結果を元に国際連盟では臨時総会が開かれ、その結果満州国を承認することに賛成したのは日本のみ、他の国はそれを認めなかったのです。

こうした採決の結果を受けて、日本に対して撤退の勧告案が出されます。しかし日本はこれに納得できず、日本の代表として出席した松岡洋右は国際連盟の勧告案を拒否、それだけなく総会の場から退場してしまいました。そして翌月、日本は国際連盟に対して脱退を告げたのです。

日中戦争へ

国際連盟を脱退した日本は孤立、世界の大国と認められる常任理事国の地位も放棄することになりました。最も、国際連盟にとっても日本の脱退は影響が大きく、これをきっかけに国際連盟の権威は大きく低下、日本の脱退に続いてドイツ、イタリアも脱退していきました。

また、言うまでもなく日中関係は悪化してしまい、中国が日本を嫌っていたことが1937年の日中戦争の要因にもなります。満州国は当然中国も認めようとしませんでしたが、ただ日中戦争の近くになると中国は内戦というそれ以上の問題を抱えていました。

ですから、満州事変や満州国の建国がそのまま日中戦争を引き起こしたわけではないのですが、日本を嫌う理由から、対立していた勢力同士が手を組む事態となるのです。そしてその果てに起こったのが日中戦争、長引くその戦争がさらなる戦争となる太平洋戦争へとつながっていきました。

どこからが満州事変なのかを把握しよう!

満州事変のポイントは、どこからが満州事変なのかをしっかり把握することです。間違いとして多いのは、満州事変の説明を求められた時に「南満州鉄道の線路を爆破した事件」と回答するケースですね。

確かにこの直後に関東軍は軍事行動を起こしますが、起こしてからが満州事変であり、線路の爆破は柳条湖事件になります。策略のイメージが強い満州事変のため、柳条湖事件は満州事変と勘違いしやすいのです。

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日本史昭和歴史

関東軍の策略「満州事変」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は満州事変(まんしゅうじへん)について勉強していきます。1931年に起こった日本と中国の武力争いに至った満州事変、この事件ほど「陰謀」や「策略」のキーワードが相応しい事件はないでしょう。

結果的に日本が国際的に孤立してしまうこの事件は、シンプルな戦いに比べて少々複雑になっている。そこで、今回は満州事変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から満州事変をわかりやすくまとめた。

中国の内戦を利用しようと企んだ日本

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中国の支配権を巡る内戦

1904年の日露戦争はアメリカの介入によって講和という形で決着がついたものの、戦果から判断して勝利したのは明らかに日本。そのため、翌年結ばれたポーツマス条約はいずれも日本に有利な内容となっており、南満州にある鉄道利権をロシアより譲渡されました。

そして、1911年になると日本が中国でのさらなる領地拡大を狙うチャンスが訪れます。1911年に起きた辛亥革命によって清朝が滅亡、そこで中国では今後誰が国を統治していくのかで揉めていました。毛沢東率いる共産党、共産党に反対する蔣介石率いる国民党、どちらにも属していない軍閥……中国の支配権を巡っての内戦が起きていたのです。

日本はそんな中国の内戦状態を利用して中国での領地を拡大しようと画策、その方法は内戦中の軍閥の一人を支援して日本の権利を高めることでした。日本が目を付けたのは満州を支配する軍閥である張作霖、内戦で張作霖が勝利すれば彼を支援した日本の権利が高まるのは明白、それが日本の狙いだったのです。

張作霖の爆殺

内戦が起こっていた当時、最も有力とされていたのは中国南部から北上してきた国民党の蒋介石、南部だけでなく中国全土の支配を目論む蒋介石は軍を北へと向かわせます。一方、日本が支援する張作霖は北京から満州にかけての地域を支配しており、日本は張作霖に対して北京の放棄を勧めました。

北上してくる蒋介石とまともに戦ってもまず勝ち目はなく、北京は放棄して満州の防衛に努めるべきと進言した日本。しかし、張作霖はそんな日本の言葉を無視して蒋介石に戦いを挑むと敗北、満州に逃げ去った張作霖にはもはや内戦に勝ち残るだけの力はなく、日本にとってもう彼を支援する意味はなくなりました。

残酷な表現をしてしまえばまさに「用済み」、そこで現地を支配する日本の関東軍(満州で権限を持っていた日本の陸軍部隊)は撤退する張作霖を列車ごと爆殺してしまいます。このような事件を独断で行った関東軍の首謀者に対して首相・田中義一は処分の命令を下し、その処分が甘いとした天皇は首相を叱責、田中義一は首相を辞職しました。

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