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5分で分かる!宗教改革を行った「ルター」を歴女が徹底わかりやすく解説!

2-4 アウクスブルク審問

さて、教会側の反応はどうだったのでしょうか。当初教会側は片田舎のドイツの僧侶らの対立だと捉え、すぐには対応せず。教皇側はアウクスブルク審問を開き、カエタン枢機卿を送ってルターに撤回を求めて丸く収めることを画策します。

1518年の10月。ルターの出した95カ条の論題の是非について審問が開かれることに。この審問ではカエタン枢機卿がルターと対面することに。カエタン枢機卿は学識が深い人物として有名で、今回のルターの主張が教皇の権威を否定するものだということに気づきます。教皇側はルターに考えを撤回させて丸く収めようと考え、カエタンに対してルターを優しく父のように説くようにと念を押されていました。しかしルターは撤回に応じなかったため、「ここから立ち去れ。二度と私の前に現れるな。」と怒りをあらわにすることに。このカエタンの発言から、ルターの処遇が決定的なものとなることに。

2-5 ライプツィヒ討論

アウクスブルク審問でルターが撤回しなかったため、教会側はルターを異端として処分しようと考えます。ルターを異端とする条件は、公の場で彼の主張を完全に否定し、世間に彼が異端であることを知らしめる必要がありました。

そこで神学討論という形で、インゴルシュタット大学で神学者のエックとルターは討論することに。討論は白熱していき、ついにエックはルターから「教皇も公会議も誤りをおかすことがあった。」との発言を引き出します。当時は教皇や公会議は誤りがないものであると考えられていたため、この発言はルターが異端ではないかという重大な嫌疑を生じさせることに繋がりました。

2-6 ルター、破門される

ライプツィヒ討論後、ルター支持派と反対派の対立はますます深刻な状況となることに。ルターは討論後にドイツ語で数多くの著作を発表。そんな中、教皇から破門脅迫の大勅令が届くことに。1520年10月のことでした。しかも単なる破門というわけではなく、最も重い処分となる大破門となる1歩手前の状況。もしもここで自説の撤回しなければ大破門という事態に陥ることに。猶予期限いっぱい悩んだルターでしたが、期限日に吹っ切れました。

彼はヴィッテンベルクの郊外の城外で教皇派の書物や教会法を焼却。そして集まった人々に対し、「おまえ(火に投じた書物等)は神の言葉を汚したので私はおまえを火中へ投じる。」と宣言。ちなみに教会法とは、神が教会に与えた法という解釈がされていたもの。これを焼却することは、完全に教皇や教会を否定したという意味を持つのです。こうしてルターは1521年1月に大破門。なんと現代にいたるまでこの破門は解除されていないそう。

2-7 ウォルムス喚問に呼ばれるルター

この頃ドイツでは神聖ローマ皇帝の選挙が行われることに。そしてハプスブルク家出身のカール5世が皇帝に選出。カールはウォルムスでの帝国会議にルターを呼び出します。この帝国会議では、現代でいう証人喚問と裁判所のようなもの。出席したルターの前には、彼が著した多くの本が置かれていました。ここでルターは3つのことを聞かれます。その本はお前のものか?その本の内容は全てお前の考えか?本の内容を撤回するか?

もはやルターには弁明の余地が許されない状況に。そんな中でもルターは自身の考えを撤回しませんでした。議会閉幕後にルターの処分が決定。彼に下された処分は帝国追放でした。これによって仮にルターが殺害されても、法律によって保護されない状況に。こうして彼は命の危険にさらされることになりました。

2-8 ザクセン選帝侯に助けられる

Wartburg-Lutherstube.02.JPG
Ingersoll自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

帝国追放処分を受けたルターでしたが、味方となってくれる強力な人物が現れることに。ザクセン選帝侯フリードリヒです。ドイツ国内ではルターがザクセンで殺害されたという情報が出回ることに。しかし実際にはフリードリヒに保護され、彼は騎士ヨルクという偽名を名乗ることに。こうしてルターはザクセン領内のヴァルトブルク城で本の執筆を行うことに。この時期の功績として挙げられるのが、新約聖書のドイツ語訳を行ったこと。当時の書物はかなり高価だったにもかかわらず、ルターの本は瞬く間にベストセラーに。

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