今回はルターについてです。

ルターと言えばドイツで宗教改革を行ったことで有名ですね。でも具体的にはどんなことをしたのでしょうか?そこで今回はヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に彼が行った宗教改革や彼の生涯について解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。中でもハプスブルク家やブルボン家など王室に関する書物を愛読中!今回は16世紀にドイツで宗教改革を行ったマルティン・ルターについて詳しく解説していく。

1 ルターの幼少期

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宗教改革を行った人物として知られるルター。彼は一体どんな幼少期を過ごしたのでしょうか。それでは詳しく見ていきましょう。

1-1 敬虔なカトリック教徒だったルター

ルターはアイスレーベンという町で誕生。父はドイツ中部のテューリンゲン地方のメーラ村出身の農家でした。父ハンス・ルダーは隣のザクセン地方で銅鉱夫から出世し、町でも有名な実業家となることに。こうした父の背をみて育ったからでしょうか。マルティン・ルターも父のように上昇志向を志すように。父からの期待を一身に背負ったルターは、わずか5歳から教会付属学校に通ってラテン語の勉強をすることに。その後いくつかの学校へ通うことになりますが、いずれも彼は成績優秀。そして父が夢見たエルフルト大学への入学を決めることに。ちなみにエルフルト大学の入学記録には「マンスフェルト出身のマルティヌス・ルダー」と残ってありこれがルターに関する初の公式記録でした。

1-2 法律家になるため大学へ

さてエルフルト大学での生活はどんなものだったのでしょうか。この大学の大学生の生活はほぼ修道士のようなものでした。起床は4時、昼には3つの講義とそれに関する演習を行い、霊性の訓練や20時になると就寝という規則に従う生活に。ルターは1501年には最短で教養修士となり、学士ガウンを着るように。このようなルターの成績に対し父は「学士様になったのだからお前ではなくあなたと呼ばないと」と言ったそう。

その後は修士となると、神学部、法律学、医学部の中から選択して学ぶことに。もちろんルターは父の希望に従って法律学を専攻。ちなみに当時の大学の様子はヨーロッパ各地から集まった人々の交流の場にもなっており、ルターはそこで「哲学者」というあだ名がつくことに。彼は音楽が好きでリュートと呼ばれるギターのような楽器をよく演奏していたそう。

1-3 落雷に遭い運命が変わる

一時帰省してその後大学で戻る途中だったルターでしたが、彼は落雷に遭うことに。その時死の恐怖に直面し思わず「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります。」と叫んだという。ちなみに当時の人々は聖人たちを介して神に祈りを捧げることが普通。ルターの場合は彼や父、鉱山で働く人物らの守護聖人が聖アンナでした。こうして落雷から2週間後に彼はアウグスティヌス隠修修道会戒律厳守派の門を叩き入門することに。この知らせを聞いたハンスは激怒して息子を連れだそうとしましたが、友人らの説得によって思いとどまることに。

\次のページで「1-4 修道院生活を送ることに」を解説!/

1-4 修道院生活を送ることに

修道院での生活はとても質素なもの。当時の修道院の生活は、清貧、貞操、服従が理想とみなされていました。ルターはより自分をストイックに追い込み修道院生活に励むように。1507年には司祭となることに。しかしルターはいくら正しく生きていても神を満足させているかどうか確信が持てずにいました。そんな中初めてミサを挙げた際に、ルターが神に呼び掛ける場面が。彼はそんな自分が神に対して呼び掛けることは恐れ多いと感じ、聖壇を下りようとしたエピソードがあります。

1-5 大学教授として教鞭を取る

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その後彼はヴィッテンベルク大学の教授となります。そして修道院からそこで神学研究をするように命じられることに。彼は学生らに講義をする中で聖書の一説で説明するのに窮することがありました。

聖書の一説に「あなたの義によって私を解放してください」という文言に混乱することに。この一説は分かりやすく言うと神の義によって人間に救いをもたらすという意味。しかしこれまでの解釈では、神の義とは怒りや裁きという意味とされてきました。ここからルターは、神の義とは神からの恵みであり、それは何かというとイエス・キリストであると考えるように。つまり神は義としてイエス・キリストを人々へ送り、義(イエス・キリスト)を送られた人々は救われると考えるように。この考えは塔の体験と呼ばれています。

2 教会の腐敗と宗教改革

落雷に遭い、修道院の門を叩いたルターはその後司祭となり、更には大学教授となることに。しかし時を同じくしてローマ教会はドイツで免罪符を販売するようになりました。この経緯やルターの宗教改革の動きについて詳しく見ていきましょう。

2-1 ドイツでの免罪符販売

ルターが教鞭を取っていた頃、ドイツではローマ教会によって免罪符が販売されるようになりました。ところで免罪符とは一体なんでしょうか。免罪符とは贖宥状とも呼ばれ、人の罪や落ち度などを免れることができるという証明書レオ10世聖ピエトロ大聖堂の修築費用として国家として統一されていなかったドイツに目をつけ、民衆らからお金を巻き上げるように。このような状況は「ローマの牝牛」と揶揄されることに。

2-2 搾取されるドイツ

具体的にドイツではどのように免罪符が販売されることになったのでしょうか。ブランデンブルク選帝侯の弟で野心家のアルブレヒト大富豪フッガー家からお金を借りて聖ピエトロ大聖堂の修築費用の寄進を行いました。しかし実はこの寄進は他の目的が。アルブレヒトは3つの司教区の大司教の兼任するための献金、お金を貸したフッガー家は免罪符の販売許可を得るためでした。ちなみにこの時得た販売許可は貸した額の2倍になったそう。こうしてフッガー家はドミニコ会の修道士、ヨハン・テッツェルに販売を委託。彼は民衆に対して免罪符を売り歩くことに。これに対してルターは、免罪符を売るためなら民衆の不安に付け込むやり方に疑問を持つことに。こうして彼は動き出しました。

2-3 ルターが95カ条の論題を出す

1517年にルターが95か条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。
Ferdinand Pauwels - flickr, パブリック・ドメイン, リンクによる

ルターはヴィッテンベルクの教会の扉に95カ条の論題を貼り付けることに。ちなみに当初ルターは教会の腐敗が許せずにこのような行動を取ったわけではありません。ルターは免罪符自体を否定しておらず、これがどれほどの効力があるのかを神学討論によって明らかにしたいと考えていたのです。論題はラテン語で書かれていましたが、すぐにドイツ語に訳され人々に浸透していくことに。こうしてルターを支持派と反対派が出てくることに。

\次のページで「2-4 アウクスブルク審問」を解説!/

2-4 アウクスブルク審問

さて、教会側の反応はどうだったのでしょうか。当初教会側は片田舎のドイツの僧侶らの対立だと捉え、すぐには対応せず。教皇側はアウクスブルク審問を開き、カエタン枢機卿を送ってルターに撤回を求めて丸く収めることを画策します。

1518年の10月。ルターの出した95カ条の論題の是非について審問が開かれることに。この審問ではカエタン枢機卿がルターと対面することに。カエタン枢機卿は学識が深い人物として有名で、今回のルターの主張が教皇の権威を否定するものだということに気づきます。教皇側はルターに考えを撤回させて丸く収めようと考え、カエタンに対してルターを優しく父のように説くようにと念を押されていました。しかしルターは撤回に応じなかったため、「ここから立ち去れ。二度と私の前に現れるな。」と怒りをあらわにすることに。このカエタンの発言から、ルターの処遇が決定的なものとなることに。

2-5 ライプツィヒ討論

アウクスブルク審問でルターが撤回しなかったため、教会側はルターを異端として処分しようと考えます。ルターを異端とする条件は、公の場で彼の主張を完全に否定し、世間に彼が異端であることを知らしめる必要がありました。

そこで神学討論という形で、インゴルシュタット大学で神学者のエックとルターは討論することに。討論は白熱していき、ついにエックはルターから「教皇も公会議も誤りをおかすことがあった。」との発言を引き出します。当時は教皇や公会議は誤りがないものであると考えられていたため、この発言はルターが異端ではないかという重大な嫌疑を生じさせることに繋がりました。

2-6 ルター、破門される

ライプツィヒ討論後、ルター支持派と反対派の対立はますます深刻な状況となることに。ルターは討論後にドイツ語で数多くの著作を発表。そんな中、教皇から破門脅迫の大勅令が届くことに。1520年10月のことでした。しかも単なる破門というわけではなく、最も重い処分となる大破門となる1歩手前の状況。もしもここで自説の撤回しなければ大破門という事態に陥ることに。猶予期限いっぱい悩んだルターでしたが、期限日に吹っ切れました。

彼はヴィッテンベルクの郊外の城外で教皇派の書物や教会法を焼却。そして集まった人々に対し、「おまえ(火に投じた書物等)は神の言葉を汚したので私はおまえを火中へ投じる。」と宣言。ちなみに教会法とは、神が教会に与えた法という解釈がされていたもの。これを焼却することは、完全に教皇や教会を否定したという意味を持つのです。こうしてルターは1521年1月に大破門。なんと現代にいたるまでこの破門は解除されていないそう。

2-7 ウォルムス喚問に呼ばれるルター

この頃ドイツでは神聖ローマ皇帝の選挙が行われることに。そしてハプスブルク家出身のカール5世が皇帝に選出。カールはウォルムスでの帝国会議にルターを呼び出します。この帝国会議では、現代でいう証人喚問と裁判所のようなもの。出席したルターの前には、彼が著した多くの本が置かれていました。ここでルターは3つのことを聞かれます。その本はお前のものか?その本の内容は全てお前の考えか?本の内容を撤回するか?

もはやルターには弁明の余地が許されない状況に。そんな中でもルターは自身の考えを撤回しませんでした。議会閉幕後にルターの処分が決定。彼に下された処分は帝国追放でした。これによって仮にルターが殺害されても、法律によって保護されない状況に。こうして彼は命の危険にさらされることになりました。

2-8 ザクセン選帝侯に助けられる

Wartburg-Lutherstube.02.JPG
Ingersoll - 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

帝国追放処分を受けたルターでしたが、味方となってくれる強力な人物が現れることに。ザクセン選帝侯フリードリヒです。ドイツ国内ではルターがザクセンで殺害されたという情報が出回ることに。しかし実際にはフリードリヒに保護され、彼は騎士ヨルクという偽名を名乗ることに。こうしてルターはザクセン領内のヴァルトブルク城で本の執筆を行うことに。この時期の功績として挙げられるのが、新約聖書のドイツ語訳を行ったこと。当時の書物はかなり高価だったにもかかわらず、ルターの本は瞬く間にベストセラーに。

\次のページで「3 ルターの布教活動」を解説!/

3 ルターの布教活動

ルターの活動の特徴は、ドイツの民衆らに分かりやすいようにドイツ語を使って分かりやすく説いていったことが挙げられます。ちなみに教会で人々が集まって歌う讃美歌はルターが考案したそう。ルターはそれまでは教会の聖歌隊だけが歌っていた讃美歌を人々が歌えるようにドイツ語の讃美歌を考案しました。

3-1 聖書を重点的に

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ルターが宗教活動で最も重視したことは、聖書の言葉を理解すること。その後ルター派はプロテスタントと呼ばれるように。ちなみにプロテスタントは、信仰によってのみ救われることや聖書中心主義、万人司祭主義という特徴を有しています。またカトリックでは修道士及び修道女の結婚は認められていませんが、プロテスタントでは結婚はOKだそう。ちなみにルター自身も42歳の時に元修道女だった女性と結婚し6人の子どもに恵まれることに。

3-2 その他の宗派

ルターによって起こった宗教改革。他の宗派はどうなったのでしょうか。ルターの考えをより厳格としたものにカルヴァン派があります。これはフランス人のカルヴァンが唱えたもので、聖書を重視して神への絶対服従を主張したもの。このカルヴァン派はフランスではユグノー、イギリスではピューリタンと呼ばれるようになることに。

3-3 ルターとドイツ農民戦争

ルターの宗教改革は主にドイツ北部やドイツ以外の地域にも広がることに。ところが南ドイツではルターは支持されていません。この背景にはドイツ農民戦争が。

ルターの改革によってドイツ各地で農民による一揆が起こるように。1525年にはシュワーベン地方の農民らが自分たちの行いはキリスト教的であり、12カ条の社会的なものと宗教的なものの要求をすることに。更に自分たちは神学者の判断に従うと表明。これに対しルターは見解を求められ「勧告」を執筆することに。そこでは中立な仲介者を立てて平和的に解決することを求めました。ところが事態は悪化。一揆が暴動となり、ルターは方針を変更せざるを得なくなりました。これまで農民らは自身らの行いをキリスト教的としながらも暴力によって解決しようという姿勢にルターが認めることができなかったため。こうしてルターは「農民の殺人・強盗団に抗して」を執筆し、諸侯らに鎮圧することを求めます。しかしそれによって農民らは虐殺され、被害は10万人とも言われてるほどに。こうしてルターと宗教改革は農民らの支持を失いました。

神と向き合ったルターが起こした宗教改革

もともとは法律家になるべく大学に通っていたルター。しかし落雷に遭ったことで彼の運命が一変することに。その後修道士となりアウグスティヌス会修道院での生活で聖書と向き合っていくことに。やがて人は信仰によってのみ救われるという考えに至るようになったルター。その頃のローマ教会はドイツで免罪符を売り、安易な方法で民衆を正しく導かないやり方に怒りを覚えることに。95カ条の論題を出し、それが大きな反響を与え、新たな新教(プロテスタント)が成立するきっかけを作ることに。言葉によって人々に寄り添って宗教改革を行ったルターは英雄です。

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ドイツヨーロッパの歴史世界史歴史

5分で分かる!宗教改革を行った「ルター」を歴女が徹底わかりやすく解説!

今回はルターについてです。

ルターと言えばドイツで宗教改革を行ったことで有名ですね。でも具体的にはどんなことをしたのでしょうか?そこで今回はヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に彼が行った宗教改革や彼の生涯について解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。中でもハプスブルク家やブルボン家など王室に関する書物を愛読中!今回は16世紀にドイツで宗教改革を行ったマルティン・ルターについて詳しく解説していく。

1 ルターの幼少期

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宗教改革を行った人物として知られるルター。彼は一体どんな幼少期を過ごしたのでしょうか。それでは詳しく見ていきましょう。

1-1 敬虔なカトリック教徒だったルター

ルターはアイスレーベンという町で誕生。父はドイツ中部のテューリンゲン地方のメーラ村出身の農家でした。父ハンス・ルダーは隣のザクセン地方で銅鉱夫から出世し、町でも有名な実業家となることに。こうした父の背をみて育ったからでしょうか。マルティン・ルターも父のように上昇志向を志すように。父からの期待を一身に背負ったルターは、わずか5歳から教会付属学校に通ってラテン語の勉強をすることに。その後いくつかの学校へ通うことになりますが、いずれも彼は成績優秀。そして父が夢見たエルフルト大学への入学を決めることに。ちなみにエルフルト大学の入学記録には「マンスフェルト出身のマルティヌス・ルダー」と残ってありこれがルターに関する初の公式記録でした。

1-2 法律家になるため大学へ

さてエルフルト大学での生活はどんなものだったのでしょうか。この大学の大学生の生活はほぼ修道士のようなものでした。起床は4時、昼には3つの講義とそれに関する演習を行い、霊性の訓練や20時になると就寝という規則に従う生活に。ルターは1501年には最短で教養修士となり、学士ガウンを着るように。このようなルターの成績に対し父は「学士様になったのだからお前ではなくあなたと呼ばないと」と言ったそう。

その後は修士となると、神学部、法律学、医学部の中から選択して学ぶことに。もちろんルターは父の希望に従って法律学を専攻。ちなみに当時の大学の様子はヨーロッパ各地から集まった人々の交流の場にもなっており、ルターはそこで「哲学者」というあだ名がつくことに。彼は音楽が好きでリュートと呼ばれるギターのような楽器をよく演奏していたそう。

1-3 落雷に遭い運命が変わる

一時帰省してその後大学で戻る途中だったルターでしたが、彼は落雷に遭うことに。その時死の恐怖に直面し思わず「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります。」と叫んだという。ちなみに当時の人々は聖人たちを介して神に祈りを捧げることが普通。ルターの場合は彼や父、鉱山で働く人物らの守護聖人が聖アンナでした。こうして落雷から2週間後に彼はアウグスティヌス隠修修道会戒律厳守派の門を叩き入門することに。この知らせを聞いたハンスは激怒して息子を連れだそうとしましたが、友人らの説得によって思いとどまることに。

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