幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

長州派7人の公卿が京都から追放された事件「七卿落ち」を歴女が解説

2-3、三条西季知(すえとも)

当時は正二位行権中納言で53歳。三条西実勲の子で、通称銓丸、字は子迪、名は知、変名榎木藤一郎、号は蓬翁。香川景樹、高松公祐の門人として国学、和歌に秀でたが、尊皇攘夷派の公卿として活動し、文久2年(1862年)、国事御用掛に就任、翌年には国事寄人を兼任し、攘夷実行を幕府に要求したということ。

王政復古後、明治元年(1868年)に皇太后宮権大夫となり、参与、教部省教導職の長官の大教正兼神宮祭主に。三条西家の当主で歌道の宗匠として、西四辻公業と共に明治天皇の歌道師範に。大納言、麝香間祇候、正二位勲二等に叙勲され、明治13年(1880年)、70才で死去。

2-4、四条隆謌(たかうた)

当時は従四位上行侍従で36歳、権大納言四条隆生(たかあり)の次男で、醍醐輝久の孫にあたるが、幕末に攘夷急進派の公家として活動し、安政5年(1858年)3月12日、関白九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したとき、岩倉具視、中山忠能らとともに条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った安政勤王八十八廷臣のひとり。

王政復古で復位、戊辰戦争では錦旗奉行、中国四国追討総督、仙台追討総督を歴任し、明治後は陸軍中将、元老院議官、侯爵。

「徳川慶喜残照」によれば、「若い頃は女装(振袖を着て)して御所勤めをしていたとか、七卿落ちという維新政府にとって輝かしい前歴のため、他の公卿方が御一新ご苦労なさっている中で長州閥とみられて幸運だったそうで、いきなり陸軍少将に抜擢されたということ。晩年は「そこひ」で盲目となったが、長州閥が付いていたのでもっと出世できたろうにと祖母が残念そうに言っていた」と孫娘が回顧。明治31年71歳で死去。

2-5、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)

当時は正四位下行左近衛権少将で31歳、父は東久世通徳、東久世家は久我家を本家とする村上源氏で岩倉家と同族の下級公卿。10歳の頃、2歳年上の孝明天皇のお付きとして一緒に手習いをしたということ。文久2年(1862年)に国事御用掛となり,翌年には国事参政に任じられて攘夷派に。

王政復古後は参与、外国事務総督となって明治初期の外交折衝に尽力し、明治2年(1869年)には開拓長官、そして侍従長、元老院、貴族院、枢密院の各副議長を歴任して伯爵に。号は竹亭、古帆軒。明治45年(1912年)に80歳で死去。

2-6、壬生基修(みぶもとおさ)

当時は従四位上行修理権大夫で29歳、庭田重基の3男で壬生道吉の養子。尊王攘夷派公家として活躍して和宮降嫁を押し進めて恨みを買った「四奸二嬪」の追放運動を行ったそう。

王政復古後、戊辰戦争では会津征伐の越後口総督府参謀となって功績をあげた後、参与、東京府知事、元老院議官、貴族院議員、平安神宮宮司等を務めて伯爵に。明治39年(1906年)に72才で死去。

尚、息子の壬生基義が久邇宮朝彦親王の8女篶子と結婚、のちに昭和天皇の孫も壬生家へ養子入りしたため皇室と親戚関係に。

2-7、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)

当時は従四位上行右馬頭で27歳、唐橋在久の子として生まれ、最初は豊岡治資その後は錦小路頼易の養嗣子に。嘉永4年(1851年)に叙爵、2年後に大和権介となり、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加後、尊皇攘夷派公家に。文久2年(1862年)、従四位上右馬頭となり、公武合体派の久我建通の弾劾に加担、5月11日国事御用書記に。翌年2月には壬生基修と庶政刷新、攘夷貫徹を求めた建言を提出、国事寄人として孝明天皇の石清水八幡宮行幸に随従。

七卿落ち後、桑原頼太郎の変名で長州攘夷派と行動したが、赤間関の砲台視察中に30歳で病没。王政復古時に官位を復されて明治3年(1870年)に贈正四位。

2-8、澤宣嘉(さわのぶよし)

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

当時は正五位下行主水正で28歳。姉小路公遂の5男で澤為量の娘藤子と結婚し婿養子に。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際、養父と共に勅許に反対し廷臣八十八卿列参事件に参加。以後、朝廷内で尊皇攘夷派として活動。

七卿落ちで長州へ逃れた後、各地へ潜伏し、文久3年(1863年)10月、平野国臣らに擁立されて但馬国生野で挙兵した生野の変は3日で敗戦、田岡俊三郎(伊予国小松藩士)、関口泰次郎(水戸藩士)、森源蔵(阿波藩士)、高橋甲太郎(出石藩士)と脱出、四国、伊予小松藩士らにかくまわれ、元治元年(1864年)6月まで伊予西条藩の医師三木左三らにかくまわれたということ。そして三条実美の命で、高橋甲太郎、三木左三、三木虎之助(左三の子)、尾埼山人、三木源一郎、田岡俊三郎と6月12日に下関の豪商白石正一郎宅へ。

王政復古後、参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職につき、明治2年(1869年)外国官知事から外務卿となって、新政府の外交担当に手腕を発揮するように。外務卿となり、日本とオーストリア=ハンガリー帝国との間に最初の条約である日墺修好通商航海条約を締結、国交を樹立。明治6年、ロシア公使として着任する前に38歳で病死。

長州派に便宜をはかったが攘夷運動のやりすぎでともに失脚

幕末の京都で多少手荒なことをしても攘夷を実行しようと試み、息のかかった公家たちを思うように動かして朝廷工作もとブイブイ言わせていた長州が、あまりにやりすぎて、肝心の孝明天皇の意志を無視しすぎ、ライバルの薩摩藩が危機感を募らせたためもあって会津藩の兵力と手を結んで長州藩の排除を行った文久3年の8月18日の政変後、長州のために便宜をはかっていた公家たちも失脚、京都から引き上げる長州勢と一緒に都落ちしたのが七卿落ち。

公家たちは下関ついで大宰府で6年過ごした後、ひとり亡くなり、ひとりは生野で挙兵した後に逃げ帰りで6人となり、激動の幕末に翻弄されて履きなれぬ草鞋で雨の中を都落ちし、いつになったら帰れるのか和歌を詠みつつ、勤王志士たちと交流していましたが、王政復古の大号令後すぐに京都へ帰郷出来、明治後は長州をバックに新政府で要職に着くことになったのでした。

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angelica