幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

長州派7人の公卿が京都から追放された事件「七卿落ち」を歴女がわかりやすく解説

1-4、三条実美の偽勅で会津容保を江戸へ追いやる計画が失敗

7月、急進派の公家だった姉小路公知が暗殺され、尊王攘夷派に揺らぎが。そして真木和泉ら尊王攘夷派志士は、会津藩主松平容保が孝明天皇の信頼が篤く、京都守護職として軍事力もありと存在感を持っていたため、大和行幸実現のために邪魔な存在として会津藩と松平容保を京都から追い出そうと画策。

将軍家茂の江戸東帰は天皇に対する不臣行為で糾弾し、松平容保は江戸に戻って将軍を京に呼び戻すようにという勅令を容保に下したのですが、容保は人を疑うことを知らない人で、自分が今江戸へ行けば京都ががら空きになるので困ると、家臣たちを公家のところへやってなんとか江戸へ行かなくて済むようにしてと頼んだそう。

しかし孝明天皇もただ一人信頼に足る容保が去れば困るため、意を決して宸翰を容保に宛てて送り、今までの宸翰は偽物でこれが本物、容保への篤い信頼がにじみ出る内容に容保は感激、会津藩兵一同も感涙して天皇を護るために立ち上がることに。

1-5、薩摩の働きかけで会津と同盟

image by PIXTA / 49122159

そして8月13日、大和行幸の詔が発せられたが、もちろん孝明天皇の意志ではないとわかっていても、確認することも出来ないため、松平容保はじっと待っていたところ、15日に薩摩藩の高崎正風が会津藩の秋月悌次郎と接触、薩摩藩から会津藩兵を当てにした同盟を組むことで同意を得、薩摩から中川宮(久邇宮朝彦王)へと話が行き、中川宮が16日に参内し、孝明天皇へと公武合体派による長州並びに尊王攘夷派一掃の本物の勅令が出たということ。

翌日の18日午前1時、中川宮、松平容保、右大臣二条斉敬らが参内、会津藩兵1500、薩摩藩兵150、他に淀、徳島、鳥取、米沢などの諸藩の兵2000名以上が、京都御所の九つの門を警備して封鎖。そして在京諸藩主が参内を命じられ、三条実美をはじめとする尊王攘夷派公家たちは、禁足(謹慎処分)となり、長州藩主毛利敬親、定広父の処罰も決議。

もちろん大和行幸は中止、長州藩は堺町御門の警備を外されて、京都における足場を全て失い、謹慎処分となった三条実美らは結局、公卿籍を剥奪京都追放処分となり、三条実美らは 長州方の手引きで夜来の雨のなか京都を脱出したが、全員ひ弱で京都を出るまで歩き続けられなかったという話。そして長州兵たちと共に8月22日午後、20数艘の船で総勢400余人の大船団で兵庫を出航し長州を目指したということ。これが八月十八日の政変と言われるクーデター。

1-6、この政変の余波

孝明天皇の大和行幸に呼応して挙兵するはずだった天誅組は、8月17日に土佐脱藩の吉村虎太郎らが大和国(奈良県)で挙兵したものの翌日の政変のために孤立化して幕府軍に攻められ壊滅。

また、10月に島津久光が薩摩藩兵を率いて入京、続いて松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の仲良し4賢侯、一橋慶喜と共に参預会議が開かれることに。

そして八月十八日の政変後、長州藩は京都での失地回復を図ろうとして機会を伺っていましたが、テロリストとして弾圧されるようになり、池田屋での会合を新選組に襲撃され多数の死傷者が出た池田屋事件後、大勢の藩兵を京都へ上らせて、薩摩藩や会津藩と激突した禁門の変に発展したということ。

1-7、七卿たちは下関、そして大宰府へ

七卿たちは下関の招賢閣に数か月滞在、その後、長州藩が禁門の変で京都へ進軍したとき、五卿(1人死亡、1人は一時逃亡)は京都へ向かって瀬戸内を東へ進んでいたが、敗北を聞いて引き返し、三田尻から山口へ移ったそう。

また長州征伐時、長州藩政で俗論派が台頭したために五卿は藩庁のある山口から長府へ向かい、11月に功山寺に入り、高杉晋作の功山寺挙兵に立ち会った話は有名。

そして幕府の征長軍との交渉によって長州を追放となり、筑前福岡藩の預りとなり、元治2年(1865年)2月、三条実美の父の親戚の縁もあり、太宰府の延寿王院で、約3年過ごすことに。

公卿たちのもとには、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、伊藤博文ら勤皇派の志士たちが訪問したということで、龍馬と会った七卿のひとり東久世通禧は「土州藩坂本龍馬面会、偉人なり、奇談家なり」(東久世伯爵公用雑誌)と感想を残しているそう。

尚、慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令が発せられ幕府に代わる新政府が樹立されたため、6人の公家たちは19日に太宰府を出立して京都へと帰郷したということ。

2-1、追放された7人の公家たち

Stele of westward moving of Five Court Nobles in Akama-shuku.jpg
そらみみ投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

三条実美と三条西季知だけが公卿で、他の5人は下級公家なので2卿5朝臣という呼び方もあるそうですが、7人の侍ならぬ7人の公卿たちの略歴とその後についてご紹介しますね。

2-2、三条実美(さねとみ)

Sanetomi Sanjo formal.jpg
不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時は従三位権中納言で27歳、号は梨堂(りどう)。変名は梨木誠斉。三条実万(さねつむ)の4子で母は土佐藩主山内豊策(とよかず)の三女紀子、幼名は福麿(よしまろ)。和漢の学に通じた富田織部の影響で、ペリー来航後は、尊攘派急進公卿となり、文久2年(1862年)には、幕府に攘夷実行を促す朝廷の正使となるなど、国事御用掛、京都御守衛御用掛、賀茂社行幸御用掛などを務めて活躍したが、孝明天皇に嫌われ「逆賊」と呼ばれたということで、8月18日の政変で失脚。

王政復古を機に上京して明治新政府の副総裁、輔相、右大臣となった後、明治3年(1871年)政府最高位の太政大臣となり,明治5年(1873年)には岩倉使節団を派遣した留守政府を守って明治18年(1885年)の内閣制まで同職。以後内大臣,臨時内閣総理大臣を歴任し、明治24年(1891年)55歳で死去。

\次のページで「2-3、三条西季知(すえとも)」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: