今回は七卿落ちを取り上げるぞ。幕末にあった事件ですが、公卿たちがなんで追放されたのか、その後のことなども詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、七卿落ちについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、七卿落ち(しちきょうおち)とは

文久3年(1863年)八月十八日の政変で、長州藩の失墜と共に、朝廷で長州寄りに過激に攘夷活動していた7人の公家が京都から追放された事件のこと。

1-2、事件の発端

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文久3年(1863年)夏ごろの朝廷は、尊皇攘夷を唱える過激な長州藩士たちが三条実美らの急進派公卿達を操って思うままにしている状態。つまり長州を中心とする尊攘過激派が思った通りの勅状を、三条実美が出して政局を主導していたのですね。文久3年(1863年)4月から5月、将軍家茂が上洛したとき、孝明天皇は家茂を伴い、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸したのですが、孝明天皇は文久3年(1863年)4月22日付の中川宮(のちの久邇宮朝彦王)宛に石清水八幡宮行幸のときは体調不良なのに、三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと書いていたということで、三条実美の側近だった真木和泉、当時長州藩の京都での代表者だった久坂玄瑞ら尊王攘夷派は、孝明天皇の意志とは関係ない勅令を三条実美に出させ、テロや脅迫などを行っても攘夷をなすつもりだったよう。

そして今度は孝明天皇を大和に行幸させようと計画。しかし6月には攘夷決行を約束したはずの将軍家茂も、一橋慶喜も江戸に戻ってしまい、京都には京都守護職で孝明天皇の信頼の篤い会津藩主松平容保が残るのみに。

1-3、大和行幸とは

尊王攘夷派の真木和泉や長州の久坂玄瑞らが、攘夷祈願のために大和にある橿原神宮への行幸を画策。これは孝明天皇が公卿、大名を従えて橿原神宮に参拝し、攘夷親征を祈願させて、徳川幕府も攘夷を行うしかない状況に追い込もうという計画だったが、孝明天皇はまさか自分が軍を率いることも祈願する意思もなかったそうで、会津藩だけでなく長州藩以外の藩はみな反対だったが長州藩と彼らの傘下の公家たちの過激さのため表立って反対できなかったということ。

\次のページで「1-4、三条実美の偽勅で会津容保を江戸へ追いやる計画が失敗」を解説!/

1-4、三条実美の偽勅で会津容保を江戸へ追いやる計画が失敗

7月、急進派の公家だった姉小路公知が暗殺され、尊王攘夷派に揺らぎが。そして真木和泉ら尊王攘夷派志士は、会津藩主松平容保が孝明天皇の信頼が篤く、京都守護職として軍事力もありと存在感を持っていたため、大和行幸実現のために邪魔な存在として会津藩と松平容保を京都から追い出そうと画策。

将軍家茂の江戸東帰は天皇に対する不臣行為で糾弾し、松平容保は江戸に戻って将軍を京に呼び戻すようにという勅令を容保に下したのですが、容保は人を疑うことを知らない人で、自分が今江戸へ行けば京都ががら空きになるので困ると、家臣たちを公家のところへやってなんとか江戸へ行かなくて済むようにしてと頼んだそう。

しかし孝明天皇もただ一人信頼に足る容保が去れば困るため、意を決して宸翰を容保に宛てて送り、今までの宸翰は偽物でこれが本物、容保への篤い信頼がにじみ出る内容に容保は感激、会津藩兵一同も感涙して天皇を護るために立ち上がることに。

1-5、薩摩の働きかけで会津と同盟

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そして8月13日、大和行幸の詔が発せられたが、もちろん孝明天皇の意志ではないとわかっていても、確認することも出来ないため、松平容保はじっと待っていたところ、15日に薩摩藩の高崎正風が会津藩の秋月悌次郎と接触、薩摩藩から会津藩兵を当てにした同盟を組むことで同意を得、薩摩から中川宮(久邇宮朝彦王)へと話が行き、中川宮が16日に参内し、孝明天皇へと公武合体派による長州並びに尊王攘夷派一掃の本物の勅令が出たということ。

翌日の18日午前1時、中川宮、松平容保、右大臣二条斉敬らが参内、会津藩兵1500、薩摩藩兵150、他に淀、徳島、鳥取、米沢などの諸藩の兵2000名以上が、京都御所の九つの門を警備して封鎖。そして在京諸藩主が参内を命じられ、三条実美をはじめとする尊王攘夷派公家たちは、禁足(謹慎処分)となり、長州藩主毛利敬親、定広父の処罰も決議。

もちろん大和行幸は中止、長州藩は堺町御門の警備を外されて、京都における足場を全て失い、謹慎処分となった三条実美らは結局、公卿籍を剥奪京都追放処分となり、三条実美らは 長州方の手引きで夜来の雨のなか京都を脱出したが、全員ひ弱で京都を出るまで歩き続けられなかったという話。そして長州兵たちと共に8月22日午後、20数艘の船で総勢400余人の大船団で兵庫を出航し長州を目指したということ。これが八月十八日の政変と言われるクーデター。

1-6、この政変の余波

孝明天皇の大和行幸に呼応して挙兵するはずだった天誅組は、8月17日に土佐脱藩の吉村虎太郎らが大和国(奈良県)で挙兵したものの翌日の政変のために孤立化して幕府軍に攻められ壊滅。

また、10月に島津久光が薩摩藩兵を率いて入京、続いて松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の仲良し4賢侯、一橋慶喜と共に参預会議が開かれることに。

そして八月十八日の政変後、長州藩は京都での失地回復を図ろうとして機会を伺っていましたが、テロリストとして弾圧されるようになり、池田屋での会合を新選組に襲撃され多数の死傷者が出た池田屋事件後、大勢の藩兵を京都へ上らせて、薩摩藩や会津藩と激突した禁門の変に発展したということ。

1-7、七卿たちは下関、そして大宰府へ

七卿たちは下関の招賢閣に数か月滞在、その後、長州藩が禁門の変で京都へ進軍したとき、五卿(1人死亡、1人は一時逃亡)は京都へ向かって瀬戸内を東へ進んでいたが、敗北を聞いて引き返し、三田尻から山口へ移ったそう。

また長州征伐時、長州藩政で俗論派が台頭したために五卿は藩庁のある山口から長府へ向かい、11月に功山寺に入り、高杉晋作の功山寺挙兵に立ち会った話は有名。

そして幕府の征長軍との交渉によって長州を追放となり、筑前福岡藩の預りとなり、元治2年(1865年)2月、三条実美の父の親戚の縁もあり、太宰府の延寿王院で、約3年過ごすことに。

公卿たちのもとには、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、伊藤博文ら勤皇派の志士たちが訪問したということで、龍馬と会った七卿のひとり東久世通禧は「土州藩坂本龍馬面会、偉人なり、奇談家なり」(東久世伯爵公用雑誌)と感想を残しているそう。

尚、慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令が発せられ幕府に代わる新政府が樹立されたため、6人の公家たちは19日に太宰府を出立して京都へと帰郷したということ。

2-1、追放された7人の公家たち

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そらみみ - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

三条実美と三条西季知だけが公卿で、他の5人は下級公家なので2卿5朝臣という呼び方もあるそうですが、7人の侍ならぬ7人の公卿たちの略歴とその後についてご紹介しますね。

2-2、三条実美(さねとみ)

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時は従三位権中納言で27歳、号は梨堂(りどう)。変名は梨木誠斉。三条実万(さねつむ)の4子で母は土佐藩主山内豊策(とよかず)の三女紀子、幼名は福麿(よしまろ)。和漢の学に通じた富田織部の影響で、ペリー来航後は、尊攘派急進公卿となり、文久2年(1862年)には、幕府に攘夷実行を促す朝廷の正使となるなど、国事御用掛、京都御守衛御用掛、賀茂社行幸御用掛などを務めて活躍したが、孝明天皇に嫌われ「逆賊」と呼ばれたということで、8月18日の政変で失脚。

王政復古を機に上京して明治新政府の副総裁、輔相、右大臣となった後、明治3年(1871年)政府最高位の太政大臣となり,明治5年(1873年)には岩倉使節団を派遣した留守政府を守って明治18年(1885年)の内閣制まで同職。以後内大臣,臨時内閣総理大臣を歴任し、明治24年(1891年)55歳で死去。

\次のページで「2-3、三条西季知(すえとも)」を解説!/

2-3、三条西季知(すえとも)

当時は正二位行権中納言で53歳。三条西実勲の子で、通称銓丸、字は子迪、名は知、変名榎木藤一郎、号は蓬翁。香川景樹、高松公祐の門人として国学、和歌に秀でたが、尊皇攘夷派の公卿として活動し、文久2年(1862年)、国事御用掛に就任、翌年には国事寄人を兼任し、攘夷実行を幕府に要求したということ。

王政復古後、明治元年(1868年)に皇太后宮権大夫となり、参与、教部省教導職の長官の大教正兼神宮祭主に。三条西家の当主で歌道の宗匠として、西四辻公業と共に明治天皇の歌道師範に。大納言、麝香間祇候、正二位勲二等に叙勲され、明治13年(1880年)、70才で死去。

2-4、四条隆謌(たかうた)

当時は従四位上行侍従で36歳、権大納言四条隆生(たかあり)の次男で、醍醐輝久の孫にあたるが、幕末に攘夷急進派の公家として活動し、安政5年(1858年)3月12日、関白九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したとき、岩倉具視、中山忠能らとともに条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った安政勤王八十八廷臣のひとり。

王政復古で復位、戊辰戦争では錦旗奉行、中国四国追討総督、仙台追討総督を歴任し、明治後は陸軍中将、元老院議官、侯爵。

「徳川慶喜残照」によれば、「若い頃は女装(振袖を着て)して御所勤めをしていたとか、七卿落ちという維新政府にとって輝かしい前歴のため、他の公卿方が御一新ご苦労なさっている中で長州閥とみられて幸運だったそうで、いきなり陸軍少将に抜擢されたということ。晩年は「そこひ」で盲目となったが、長州閥が付いていたのでもっと出世できたろうにと祖母が残念そうに言っていた」と孫娘が回顧。明治31年71歳で死去。

2-5、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)

当時は正四位下行左近衛権少将で31歳、父は東久世通徳、東久世家は久我家を本家とする村上源氏で岩倉家と同族の下級公卿。10歳の頃、2歳年上の孝明天皇のお付きとして一緒に手習いをしたということ。文久2年(1862年)に国事御用掛となり,翌年には国事参政に任じられて攘夷派に。

王政復古後は参与、外国事務総督となって明治初期の外交折衝に尽力し、明治2年(1869年)には開拓長官、そして侍従長、元老院、貴族院、枢密院の各副議長を歴任して伯爵に。号は竹亭、古帆軒。明治45年(1912年)に80歳で死去。

2-6、壬生基修(みぶもとおさ)

当時は従四位上行修理権大夫で29歳、庭田重基の3男で壬生道吉の養子。尊王攘夷派公家として活躍して和宮降嫁を押し進めて恨みを買った「四奸二嬪」の追放運動を行ったそう。

王政復古後、戊辰戦争では会津征伐の越後口総督府参謀となって功績をあげた後、参与、東京府知事、元老院議官、貴族院議員、平安神宮宮司等を務めて伯爵に。明治39年(1906年)に72才で死去。

尚、息子の壬生基義が久邇宮朝彦親王の8女篶子と結婚、のちに昭和天皇の孫も壬生家へ養子入りしたため皇室と親戚関係に。

2-7、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)

当時は従四位上行右馬頭で27歳、唐橋在久の子として生まれ、最初は豊岡治資その後は錦小路頼易の養嗣子に。嘉永4年(1851年)に叙爵、2年後に大和権介となり、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加後、尊皇攘夷派公家に。文久2年(1862年)、従四位上右馬頭となり、公武合体派の久我建通の弾劾に加担、5月11日国事御用書記に。翌年2月には壬生基修と庶政刷新、攘夷貫徹を求めた建言を提出、国事寄人として孝明天皇の石清水八幡宮行幸に随従。

七卿落ち後、桑原頼太郎の変名で長州攘夷派と行動したが、赤間関の砲台視察中に30歳で病没。王政復古時に官位を復されて明治3年(1870年)に贈正四位。

2-8、澤宣嘉(さわのぶよし)

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

当時は正五位下行主水正で28歳。姉小路公遂の5男で澤為量の娘藤子と結婚し婿養子に。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際、養父と共に勅許に反対し廷臣八十八卿列参事件に参加。以後、朝廷内で尊皇攘夷派として活動。

七卿落ちで長州へ逃れた後、各地へ潜伏し、文久3年(1863年)10月、平野国臣らに擁立されて但馬国生野で挙兵した生野の変は3日で敗戦、田岡俊三郎(伊予国小松藩士)、関口泰次郎(水戸藩士)、森源蔵(阿波藩士)、高橋甲太郎(出石藩士)と脱出、四国、伊予小松藩士らにかくまわれ、元治元年(1864年)6月まで伊予西条藩の医師三木左三らにかくまわれたということ。そして三条実美の命で、高橋甲太郎、三木左三、三木虎之助(左三の子)、尾埼山人、三木源一郎、田岡俊三郎と6月12日に下関の豪商白石正一郎宅へ。

王政復古後、参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職につき、明治2年(1869年)外国官知事から外務卿となって、新政府の外交担当に手腕を発揮するように。外務卿となり、日本とオーストリア=ハンガリー帝国との間に最初の条約である日墺修好通商航海条約を締結、国交を樹立。明治6年、ロシア公使として着任する前に38歳で病死。

長州派に便宜をはかったが攘夷運動のやりすぎでともに失脚

幕末の京都で多少手荒なことをしても攘夷を実行しようと試み、息のかかった公家たちを思うように動かして朝廷工作もとブイブイ言わせていた長州が、あまりにやりすぎて、肝心の孝明天皇の意志を無視しすぎ、ライバルの薩摩藩が危機感を募らせたためもあって会津藩の兵力と手を結んで長州藩の排除を行った文久3年の8月18日の政変後、長州のために便宜をはかっていた公家たちも失脚、京都から引き上げる長州勢と一緒に都落ちしたのが七卿落ち。

公家たちは下関ついで大宰府で6年過ごした後、ひとり亡くなり、ひとりは生野で挙兵した後に逃げ帰りで6人となり、激動の幕末に翻弄されて履きなれぬ草鞋で雨の中を都落ちし、いつになったら帰れるのか和歌を詠みつつ、勤王志士たちと交流していましたが、王政復古の大号令後すぐに京都へ帰郷出来、明治後は長州をバックに新政府で要職に着くことになったのでした。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

長州派7人の公卿が京都から追放された事件「七卿落ち」を歴女がわかりやすく解説

今回は七卿落ちを取り上げるぞ。幕末にあった事件ですが、公卿たちがなんで追放されたのか、その後のことなども詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、七卿落ちについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、七卿落ち(しちきょうおち)とは

文久3年(1863年)八月十八日の政変で、長州藩の失墜と共に、朝廷で長州寄りに過激に攘夷活動していた7人の公家が京都から追放された事件のこと。

1-2、事件の発端

image by PIXTA / 46522850

文久3年(1863年)夏ごろの朝廷は、尊皇攘夷を唱える過激な長州藩士たちが三条実美らの急進派公卿達を操って思うままにしている状態。つまり長州を中心とする尊攘過激派が思った通りの勅状を、三条実美が出して政局を主導していたのですね。文久3年(1863年)4月から5月、将軍家茂が上洛したとき、孝明天皇は家茂を伴い、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸したのですが、孝明天皇は文久3年(1863年)4月22日付の中川宮(のちの久邇宮朝彦王)宛に石清水八幡宮行幸のときは体調不良なのに、三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと書いていたということで、三条実美の側近だった真木和泉、当時長州藩の京都での代表者だった久坂玄瑞ら尊王攘夷派は、孝明天皇の意志とは関係ない勅令を三条実美に出させ、テロや脅迫などを行っても攘夷をなすつもりだったよう。

そして今度は孝明天皇を大和に行幸させようと計画。しかし6月には攘夷決行を約束したはずの将軍家茂も、一橋慶喜も江戸に戻ってしまい、京都には京都守護職で孝明天皇の信頼の篤い会津藩主松平容保が残るのみに。

1-3、大和行幸とは

尊王攘夷派の真木和泉や長州の久坂玄瑞らが、攘夷祈願のために大和にある橿原神宮への行幸を画策。これは孝明天皇が公卿、大名を従えて橿原神宮に参拝し、攘夷親征を祈願させて、徳川幕府も攘夷を行うしかない状況に追い込もうという計画だったが、孝明天皇はまさか自分が軍を率いることも祈願する意思もなかったそうで、会津藩だけでなく長州藩以外の藩はみな反対だったが長州藩と彼らの傘下の公家たちの過激さのため表立って反対できなかったということ。

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