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長州派7人の公卿が京都から追放された事件「七卿落ち」を歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は七卿落ちを取り上げるぞ。幕末にあった事件だが、公卿たちがなんで追放されたのか、その後のことなども詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、七卿落ちについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、七卿落ち(しちきょうおち)とは

文久3年(1863年)八月十八日の政変で、長州藩の失墜と共に、朝廷で長州寄りに過激に攘夷活動していた7人の公家が京都から追放された事件のこと。

1-2、事件の発端

image by PIXTA / 46522850

文久3年(1863年)夏ごろの朝廷は、尊皇攘夷を唱える過激な長州藩士たちが三条実美らの急進派公卿達を操って思うままにしている状態。つまり長州を中心とする尊攘過激派が思った通りの勅状を、三条実美が出して政局を主導していたのですね。文久3年(1863年)4月から5月、将軍家茂が上洛したとき、孝明天皇は家茂を伴い、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸したのですが、孝明天皇は文久3年(1863年)4月22日付の中川宮(のちの久邇宮朝彦王)宛に石清水八幡宮行幸のときは体調不良なのに、三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと書いていたということで、三条実美の側近だった真木和泉、当時長州藩の京都での代表者だった久坂玄瑞ら尊王攘夷派は、孝明天皇の意志とは関係ない勅令を三条実美に出させ、テロや脅迫などを行っても攘夷をなすつもりだったよう。

そして今度は孝明天皇を大和に行幸させようと計画。しかし6月には攘夷決行を約束したはずの将軍家茂も、一橋慶喜も江戸に戻ってしまい、京都には京都守護職で孝明天皇の信頼の篤い会津藩主松平容保が残るのみに。

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おいおい、三条さん、そりゃやりすぎじゃないか

1-3、大和行幸とは

尊王攘夷派の真木和泉や長州の久坂玄瑞らが、攘夷祈願のために大和にある橿原神宮への行幸を画策。これは孝明天皇が公卿、大名を従えて橿原神宮に参拝し、攘夷親征を祈願させて、徳川幕府も攘夷を行うしかない状況に追い込もうという計画だったが、孝明天皇はまさか自分が軍を率いることも祈願する意思もなかったそうで、会津藩だけでなく長州藩以外の藩はみな反対だったが長州藩と彼らの傘下の公家たちの過激さのため表立って反対できなかったということ。

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