それじゃ、ピカソの芸術表現の挑戦や現代アートに与えた影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- スペインのアンダルシア地方に生まれたパブロ・ピカソ
- ピカソが15歳のときに作品は社会派のリアリズム
- マドリードの美術学校に入るものの退学
- ピカソの不安な青春時代を表現した「青の時代」
- 友人のカサヘマスの死にショックを受けたピカソ
- 薄暗い青の色調がピカソの心の不安を投影する
- アフリカの伝統文化との接触がキュビスムの萌芽に
- アフリカ彫刻の影響がピカソに新たな視点を加える
- 「アヴィニョンの娘たち」はピカソの様式の分岐点
- 複数の視点から物を描くキュビスムを確立させたピカソ
- 古典的な遠近法を使わない立体表現
- 後期のキュビスムはコラージュの手法を用いる
- ピカソは第一次世界大戦の激動の時代に古典回帰
- イタリアの古代遺跡との出会いは彫刻的な描写を促す
- エロティシズムの追求は「シュルレアリスム」に向かわせる
- ナチスドイツを非難する「ゲルニカ」はピカソの代表作に
- ドイツ軍の空爆を描いた大作「ゲルニカ」
- この時期のピカソは女性問題に翻弄される
- 芸術の世界に革新をもたらしたパブロ・ピカソ
- 20世紀の前衛芸術の先駆者として神格化
- ピカソの版画熱はポップアートの先駆け
- ピカソは様々な様式を使い分けた天才画家
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「ピカソ」を避けて通ることはできない。「ピカソ」の作品は写実主義的な芸術に革新をもたらした。そんな画家が今日に与えた影響も含めて解説していく。
スペインのアンダルシア地方に生まれたパブロ・ピカソ
ピカソが誕生したのは1881年10月。スペイン南部になるアンダルシア地方にて、ホセ・ルイス・ブラスコとマリア・ピカソ・ロペスのあいだに生まれました。美術教師でもあった父親は、幼少期のピカソの師匠としての役割も担いました。
ピカソが15歳のときに作品は社会派のリアリズム
美術に対する興味を深めたピカソは、バルセロナにある美術学校に入学すると、瞬く間にその才能を開花させます。当初、ピカソが描いていた絵画の様式は古典的なもの。私たちが思い描くような斬新なものではなく、状況を緻密に描写するリアリズムを追求するものでした。
ピカソの才能が初めて日の目をみたのが「科学と慈愛」という作品。ピカソが15歳のときに制作したものです。病気で寝たきりになっている母親、それを見つめる子ども、脈をとるだけの医者を描いた「科学と慈愛」は、貧困家庭の現実をリアリズムの手法で描き出しました。
マドリードの美術学校に入るものの退学
「科学と慈愛」は高く評価され、国展では佳作(名誉賞)を、地方展では金賞を受賞します。それをきっかけにピカソは、マドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学することに。画家としての道を着々と歩むかのように見えました。
しかしピカソは、美術アカデミーの校風や学びになじむことができず、すぐに退学してしまいます。その後、美術館に足しげく通い、有名な作品を黙々と模写するように。芸術史に名を残した名画の様式を自分のものにし、画力を高めてきます。
ピカソの不安な青春時代を表現した「青の時代」
芸術家ピカソの出発点となる作品のシリーズが「青の時代」と言われるもので、バルセロナそしてパリで描かれました。「青の時代」の作風は全体的に青を基調とする色彩が特徴。青年ピカソの心のうちにある不安や孤独をあらわしています。
友人のカサヘマスの死にショックを受けたピカソ
ピカソの「青の時代」のはじまりは彼の親友であるカサヘマスの自殺。カサヘマスはスペイン人の画家・詩人で、ピカソと共にスタジオで寝泊まりした仲でもありました。二人はスペイン国内やパリに一緒に旅行するなど行動を共にします。
カサヘマスはモデル女性に恋をするものの、男性的能力の不完全さから関係を全うできず、それをきっかけにうつ病を患うようになりました。何度か自殺を試みた彼は、最終的に送別会における自傷行為から病院で亡くなります。
薄暗い青の色調がピカソの心の不安を投影する
「青の時代」の作品のテーマは命。ピカソの青年時代の作品でありながら、老人の老いた体が数多く登場します。また、老人にくわえて赤ちゃんも「青の時代」の主要モチーフ。老人と赤ちゃんのコントラストは「生と死」を強力に意識させるものでした。
登場人物は、病人、娼婦、ホームレスなど、社会の底辺にいる人々。「科学と慈愛」で引き出された社会派リアリズムの手法の影響も残っていることが分かります。
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