パブロ・ピカソはスペイン生まれの芸術家。キュビスムの創始者としても知られている。彼の作風は時期によりどんどん変化するため「〇〇主義」とくくることが難しい天才です。

それじゃ、ピカソの芸術表現の挑戦や現代アートに与えた影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「ピカソ」を避けて通ることはできない。「ピカソ」の作品は写実主義的な芸術に革新をもたらした。そんな画家が今日に与えた影響も含めて解説していく。

スペインのアンダルシア地方に生まれたパブロ・ピカソ

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ピカソが誕生したのは1881年10月。スペイン南部になるアンダルシア地方にて、ホセ・ルイス・ブラスコとマリア・ピカソ・ロペスのあいだに生まれました。美術教師でもあった父親は、幼少期のピカソの師匠としての役割も担いました。

ピカソが15歳のときに作品は社会派のリアリズム

美術に対する興味を深めたピカソは、バルセロナにある美術学校に入学すると、瞬く間にその才能を開花させます。当初、ピカソが描いていた絵画の様式は古典的なもの。私たちが思い描くような斬新なものではなく、状況を緻密に描写するリアリズムを追求するものでした。

ピカソの才能が初めて日の目をみたのが「科学と慈愛」という作品。ピカソが15歳のときに制作したものです。病気で寝たきりになっている母親、それを見つめる子ども、脈をとるだけの医者を描いた「科学と慈愛」は、貧困家庭の現実をリアリズムの手法で描き出しました。

マドリードの美術学校に入るものの退学

「科学と慈愛」は高く評価され、国展では佳作(名誉賞)を、地方展では金賞を受賞します。それをきっかけにピカソは、マドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学することに。画家としての道を着々と歩むかのように見えました。

しかしピカソは、美術アカデミーの校風や学びになじむことができず、すぐに退学してしまいます。その後、美術館に足しげく通い、有名な作品を黙々と模写するように。芸術史に名を残した名画の様式を自分のものにし、画力を高めてきます。

ピカソの不安な青春時代を表現した「青の時代」

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芸術家ピカソの出発点となる作品のシリーズが「青の時代」と言われるもので、バルセロナそしてパリで描かれました。「青の時代」の作風は全体的に青を基調とする色彩が特徴。青年ピカソの心のうちにある不安や孤独をあらわしています。

友人のカサヘマスの死にショックを受けたピカソ

ピカソの「青の時代」のはじまりは彼の親友であるカサヘマスの自殺。カサヘマスはスペイン人の画家・詩人で、ピカソと共にスタジオで寝泊まりした仲でもありました。二人はスペイン国内やパリに一緒に旅行するなど行動を共にします。

カサヘマスはモデル女性に恋をするものの、男性的能力の不完全さから関係を全うできず、それをきっかけにうつ病を患うようになりました。何度か自殺を試みた彼は、最終的に送別会における自傷行為から病院で亡くなります。

薄暗い青の色調がピカソの心の不安を投影する

「青の時代」の作品のテーマは命。ピカソの青年時代の作品でありながら、老人の老いた体が数多く登場します。また、老人にくわえて赤ちゃんも「青の時代」の主要モチーフ。老人と赤ちゃんのコントラストは「生と死」を強力に意識させるものでした。

登場人物は、病人、娼婦、ホームレスなど、社会の底辺にいる人々。「科学と慈愛」で引き出された社会派リアリズムの手法の影響も残っていることが分かります。

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アフリカの伝統文化との接触がキュビスムの萌芽に

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By Ndoto ya Afrika - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

ピカソが確立したキュビスムの手法は突如としてあらわれたわけではありません。アフリカ民族の文化と出会ったことが、キュビスムの萌芽となりました。

アフリカ彫刻の影響がピカソに新たな視点を加える

アフリカ民族の伝わる彫刻や仮面との出会いは、ピカソに新しい手法の開拓を促していきます。「原始的」とされる文化は、当時の欧米文化のなかでは、「最先端」になりうる可能性を秘めていました。

アフリカの彫刻は、人物や物を緻密に再現するのではなく、抽象的に表現するもの。そんな西洋の絵画の手法である遠近法を使わない幾何学的なデザインは、ピカソにとって衝撃的なものでした。

「アヴィニョンの娘たち」はピカソの様式の分岐点

「アビニョンの娘たち」は「ばら色の時代」の雰囲気を継承しつつ、遠近法によらない斬新な構成が特徴です。この作品で描かれたのは、バルセロナのアビニョ通りの売春宿で働く女性たちでした。

もともとのタイトルは「アヴィニョンの売春宿」。しかしモラル的な面から賛否が分かれます。ピカソを指示する評論家のアドバイスをうけて、現在のタイトルに変更されました。

複数の視点から物を描くキュビスムを確立させたピカソ

Pablo Picasso and scene painters sitting on the front cloth for Parade (Ballets Russes) at the Théâtre du Châtelet, Paris, 1917, Lachmann photographer.jpg
By Lachmann [1] - V&A, Public Domain, Link

アフリカの彫刻などの影響を受けた時代のあと、ピカソの代名詞とも言えるキュビスムの時代に突入。キュビズムの時代は時期により画風が異なるため「初期」「分析的」「総合的」とさらに細かく区分されています。

古典的な遠近法を使わない立体表現

それまでの絵画は、ひとつの視点に基づく遠近法により描かれていました。それに対してキュビスムは、いろいろな視点から見たものを、ひとつの画面に収めるという手法をとりました。

キュビスムが知られることになったきっかけは、1911年に開催された第27回アンデパンダン展です。自由出品できることを活かして、ピカソの一派が展覧会を前衛的な作品で会場を占拠。賛否両論を巻き起こしました。

後期のキュビスムはコラージュの手法を用いる

後期に属する「総合的キュビスム」は、新聞、広告、壁紙などの紙をキャンバスに貼り付ける、コラージュの手法をとるものでした。今でこそ、よく見る手法ですが、当時の芸術界では激震を走らせるものでした。

これまで画家は、世界にひとつだけの作品を自分の手で作るという考えを持っていました。それをピカソは根底からくつがえし、芸術に「複製品」「既製品」としての特徴を加えました。

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ピカソは第一次世界大戦の激動の時代に古典回帰

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By Unknown - Jastrow (2007), Public Domain, Link

ピカソは、1914年に勃発した第一次世界大戦の影響により共同制作者や後ろ盾を失います。そのような時期にイタリア旅行に行く機会を得たピカソ。古代ローマ芸術との出会いは、ピカソの作風の変化をもたらします。

イタリアの古代遺跡との出会いは彫刻的な描写を促す

イタリアは言わずと知れた芸術の都。古代ローマ時代からルネサンス時代に至るまでの有名な作品を目にする機会に恵まれます。それらは伝統を覆す斬新な作品を発表していたピカソにとって新鮮なものでした。

これらの影響を受けたピカソは、これまでの幾何学的な描写から一転、女性の肉感的な裸体を描くようになります。第一次世界大戦による文化喪失を危惧する雰囲気も、このような古典回帰を促しました。

エロティシズムの追求は「シュルレアリスム」に向かわせる

イタリアの名画を特徴づける肉感的なエロティシズムは、ピカソを新しい芸術運動である「シュルレアリスム」に接近させます。シュルレアリスムを日本語にすると「超現実主義」。夢の中にいるかのような主観的な世界を描く出すものです。

ピカソは基本的にシュルレアリスムの画家には分類されません。しかし、シュルレアリスムのグループ展に参加して「三人の踊り子」のような代表作を残しました。

ナチスドイツを非難する「ゲルニカ」はピカソの代表作に

Bundesarchiv Bild 183-H25224, Guernica, Ruinen.jpg
By Bundesarchiv, Bild 183-H25224 / Unknown / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

第二次世界大戦期のピカソは反戦を意識した作品を制作するようになります。その代表作が「ゲルニカ」。ナチスドイツの台頭を批判する大作です。

ドイツ軍の空爆を描いた大作「ゲルニカ」

「ゲルニカ」が制作されたのは1937年のスペイン内戦中。この内戦は、スペインの右派と左派の戦いですが、フランコ率いる右派をナチス・ドイツが支援していました。

ドイツ空軍であるコンドル軍団がビスカヤ県にあるゲルニカを無差別爆撃した出来事は、新聞などで大々的に報道されます。パリ万博に出展する作品の構想を練っていたピカソは、このゲルニカ爆撃をテーマに選びました。

この時期のピカソは女性問題に翻弄される

「ゲルニカ」を制作していた時期、ピカソはあまり多くの作品を発表していません。その理由として第二次世界大戦の影響も考えられますが、むしろ女性問題に翻弄されていたからであると言われています。

ひとりめの愛人は21歳の画学生フランソワーズ・ジロー。子供をもうけるもののジローは愛想をつかしてピカソのもとを去ります。その後も次々と愛人を作り、オルガの死後にピカソは再婚・離婚を繰り返しました。

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芸術の世界に革新をもたらしたパブロ・ピカソ

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ピカソの存在を一つの流派にくくることはできません。しかし彼の作品群は伝統芸術を破壊する勇気を芸術家に与え、戦後の芸術運動を引き起こす役割を果たしました。

20世紀の前衛芸術の先駆者として神格化

キュビスムの確立をきっかけに、さまざまな芸術運動がわきおこりました。キュビスムから派生したフランスの芸術運動が抽象芸術です。また、海外に目を移すと、未来派、ダダイスム、構成主義、アール・デコなども、ピカソの影響を受けていると言われています。

これらの芸術運動は、映画、彫刻、詩、デザインなど、様々な領域にまたがるものです。ピカソの影響は、絵画の世界にとどまらず、いろいろな表現手法に広がっていきました。それがピカソの今日まで続く高い評価につながっているのです。

ピカソの版画熱はポップアートの先駆け

ピカソは晩年、熱心に版画を大量生産しましたが、当時は「怠惰」「堕落」と批判されました。しかし彼の版画熱は、芸術作品に複製という考えを加える芸術運動や批評運動を後押しします。

ポップアートは、際限ない消費活動を批判する運動。しかき結果として今日の商業・広告デザインの世界に革新をもたらしました。ピカソの版画熱は、戦後の大量生産・大量消費、マスメディアの台頭を批判するポップアート(大衆芸術)の興隆の先駆けであったのです。

ピカソは様々な様式を使い分けた天才画家

晩年のピカソの創作活動は、伝統的な名画のオマージュとなる作品や、これまでに自身が生み出した手法を組み合わせたり、なんでもありのものとなりました。ピカソの絵画は美術史を語るうえで欠かせない存在です。しかしピカソ自身は、それまでの美術史に敬意を表しながらも、実際の制作は本能的で自由奔放なものだったと言えるでしょう。ピカソは、その後の芸術運動に多大な影響を残しながらも、どの流派にもくくり切れないところが、彼の独自性のあらわれと考えることができます。

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アートの表現を変えた天才画家「ピカソ」芸術史の影響を元大学教員がわかりやすく解説

パブロ・ピカソはスペイン生まれの芸術家。キュビスムの創始者としても知られている。彼の作風は時期によりどんどん変化するため「〇〇主義」とくくることが難しい天才です。

それじゃ、ピカソの芸術表現の挑戦や現代アートに与えた影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「ピカソ」を避けて通ることはできない。「ピカソ」の作品は写実主義的な芸術に革新をもたらした。そんな画家が今日に与えた影響も含めて解説していく。

スペインのアンダルシア地方に生まれたパブロ・ピカソ

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ピカソが誕生したのは1881年10月。スペイン南部になるアンダルシア地方にて、ホセ・ルイス・ブラスコとマリア・ピカソ・ロペスのあいだに生まれました。美術教師でもあった父親は、幼少期のピカソの師匠としての役割も担いました。

ピカソが15歳のときに作品は社会派のリアリズム

美術に対する興味を深めたピカソは、バルセロナにある美術学校に入学すると、瞬く間にその才能を開花させます。当初、ピカソが描いていた絵画の様式は古典的なもの。私たちが思い描くような斬新なものではなく、状況を緻密に描写するリアリズムを追求するものでした。

ピカソの才能が初めて日の目をみたのが「科学と慈愛」という作品。ピカソが15歳のときに制作したものです。病気で寝たきりになっている母親、それを見つめる子ども、脈をとるだけの医者を描いた「科学と慈愛」は、貧困家庭の現実をリアリズムの手法で描き出しました。

マドリードの美術学校に入るものの退学

「科学と慈愛」は高く評価され、国展では佳作(名誉賞)を、地方展では金賞を受賞します。それをきっかけにピカソは、マドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学することに。画家としての道を着々と歩むかのように見えました。

しかしピカソは、美術アカデミーの校風や学びになじむことができず、すぐに退学してしまいます。その後、美術館に足しげく通い、有名な作品を黙々と模写するように。芸術史に名を残した名画の様式を自分のものにし、画力を高めてきます。

ピカソの不安な青春時代を表現した「青の時代」

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芸術家ピカソの出発点となる作品のシリーズが「青の時代」と言われるもので、バルセロナそしてパリで描かれました。「青の時代」の作風は全体的に青を基調とする色彩が特徴。青年ピカソの心のうちにある不安や孤独をあらわしています。

友人のカサヘマスの死にショックを受けたピカソ

ピカソの「青の時代」のはじまりは彼の親友であるカサヘマスの自殺。カサヘマスはスペイン人の画家・詩人で、ピカソと共にスタジオで寝泊まりした仲でもありました。二人はスペイン国内やパリに一緒に旅行するなど行動を共にします。

カサヘマスはモデル女性に恋をするものの、男性的能力の不完全さから関係を全うできず、それをきっかけにうつ病を患うようになりました。何度か自殺を試みた彼は、最終的に送別会における自傷行為から病院で亡くなります。

薄暗い青の色調がピカソの心の不安を投影する

「青の時代」の作品のテーマは命。ピカソの青年時代の作品でありながら、老人の老いた体が数多く登場します。また、老人にくわえて赤ちゃんも「青の時代」の主要モチーフ。老人と赤ちゃんのコントラストは「生と死」を強力に意識させるものでした。

登場人物は、病人、娼婦、ホームレスなど、社会の底辺にいる人々。「科学と慈愛」で引き出された社会派リアリズムの手法の影響も残っていることが分かります。

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