幕末日本史歴史江戸時代

西郷隆盛が明治政府を離れたきっかけ「征韓論」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

征韓論の主張

岩倉使節団が外国をまわっていた頃、日本の朝鮮の関係悪化をより強めてしまう事態が起こります。日本からの外交文書が幕府の頃に使われていた形式と異なるという理由で国交を拒否する朝鮮、1873年の5月には釜山にある日本側の滞在施設の門前にて、日本侮辱を意味する書が掲示してあるという情報が入ったのです。

これを知った板垣退助らは怒って征韓論を唱えて朝鮮出兵を主張。ただ、西郷隆盛だけは征韓論を主張しつつも、方法として出兵ではなく自身を大使にして派遣してほしいと求めました。板垣退助らも最終的には西郷隆盛の主張を支持、こうして西郷隆盛の朝鮮への派遣が決定します。

しかし天皇の許可は降りず、なぜなら岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの要人が岩倉使節団の任務中で不在だったためで、帰国を待つようにと促したのです。西郷隆盛ら留守政府はこれに従って岩倉使節団の帰国をじっと待ち、そしてとうとう岩倉使節団が帰国する日を迎えました。

岩倉使節団の主張

帰国して征韓論の主張を聞いた岩倉使節団のメンバー、大久保利通はこれに激怒したとされており、なぜなら征韓論のことなど寝耳に水、そんな重要な問題を留守政府が議題にしていたことに腹を立てたのです。岩倉具視や木戸孝允らも真っ向反対、その理由は岩倉使節団としての経験によるものでした。

岩倉使節団が任務の中で目にしてきた西洋文化は日本に比べて遥かにレベルが高く、日本がいかに遅れをとっているのかを実感します。ドイツの首相・ビスマルクは「弱い国が国際法を導入しても権利が守られる保証はない。まずは富国強兵を行って日本が強くなることが重要」とメンバーに伝えました。

そのため岩倉使節団は西郷隆盛らに対して「日本はすべきことはいち早く近代化を進めることで、朝鮮に出兵することではない」と反対したのです。また、朝鮮に出兵して戦争に至ってしまえば、朝鮮を属国とする清国とも関係悪化、さらに朝鮮を狙うロシアとも関係悪化することも危惧しました。

明治六年の政変

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西郷隆盛の強引な一言

征韓論の賛否は収拾がつかず、天皇は閣議で判断するように命じます。そこで行われた閣議、太政大臣の三条実美が議長となり、閣議には岩倉具視、西郷隆盛、板垣退助をはじめとした政府の官僚が出席しました。こうして、征韓論の賛否を決定するための閣議が始まったのです。

多数決の結果は賛成派と反対派で綺麗に五分五分となりますが、強気に出た西郷隆盛が「自分の意見が認められないなら議員を辞職する」と宣言。西郷隆盛は貴重な人材……辞職されては困ると焦った議長は西郷隆盛の主張を支持したため、強引な形で賛成派が勝利してしまいます。

当然この結果に納得できないのが反対派、大久保利通は辞表を出してしまい、岩倉具視も政府との決別を宣言。もはやどうすれば良いのか分からずの議長は最終判断を天皇に委ねると、閣議のストレスが原因だったのか心身疲労で倒れるほどの事態となってしまいました。

征韓論の決着

議長の三条実美は太政大臣であり、彼が倒れたことで岩倉具視が太政大臣を引き継ぐ話も出ますが、これについては三条実美の辞表は認められず。それ以前に征韓論の決着が未だついておらず、賛成派の官僚も反対派の官僚も明治天皇に対して早急な決断を要求、明治天皇もそれに応じました。

西郷隆盛の「意見が認められないなら辞職する」の言葉は半ば脅迫に近いものでしたが、それでも議長が支持したのは事実と言えば事実。一方で、政府の中で最も影響力を持つとされているのが岩倉具視。明治天皇がどちらの決断を下すのかが注目されましたが、結果として岩倉具視の意見を採用

つまり征韓論は却下されたのです。これを受けて、征韓論の賛成派である西郷隆盛を含めた5人が翌日すぐさま辞表を出して辞職、さらにその後を追うように征韓論を支持する軍人までもが辞職。実に600人が明治政府を離れることになったこの一連の事件を明治六年の政変と呼びます。

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