幕末日本史歴史江戸時代

西郷隆盛が明治政府を離れたきっかけ「征韓論」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

ロシアに対する危機感

再び朝鮮との関係が悪化した日本、ただ征韓論に至るにあたってもう一つ関係してくる国がありました。それはロシアです。北の国であるロシアは毎年冬になると厳しい寒さによって港が凍り、船の行き来ができなくなって貿易ができず経済に大きな支障をもたらしていました。

ですからロシアは冬になっても凍らない港が欲しくて仕方なく、そのため年中港が使える暖かい国を狙っていたのです。そんなロシアが目を付けたのが朝鮮、このロシアの狙いに警戒を見せたのが日本でした。日本と朝鮮は目の鼻の近さの距離、ですから仮にロシアが朝鮮を支配したら次に日本が狙われてしまいます。

そう危惧した日本はロシアへの対抗手段を考えました。そこで日本の出した結論はロシアが行動に移す前に朝鮮を手に入れること。ロシアが朝鮮を侵略する前に日本が朝鮮を手に入れ、領土を広げてロシアの脅威に対抗しようとしたのです。朝鮮との関係悪化とロシアへの対抗、これらが元となって征韓論は生まれました

岩倉使節団の目的

こうして生まれた征韓論はたちまち支持を集めますが、一方その頃、政府では全く別の任務に就いていた人物達がいました。明治維新直後の日本は近代国家を目指しており、それは欧米列強と対等に渡り合える強い国にするため、そしてその要となる任務を任されたのが岩倉使節団です。

岩倉使節団の目的は海外で各国の元首に国書を渡して友好関係を築くこと、そして西洋文明を視察することでした。選ばれたメンバーは使節団の名前のとおり岩倉具視を筆頭に、木戸孝允や大久保利通や伊藤博文などの政府の主要人物が多く、その旅は1年10か月にも及びます。

ただ、ここまで政府の主要人物を岩倉使節団に加えて派遣したため、日本の政府では主要人物のほとんどが長期間不在の状態になりました。大久保利通や木戸孝允らもその点を不安視しており、日本に残った留守政府に対して大きな改正や人事を行わないよう警告したのです。

留守政府と岩倉使節団の対立

image by PIXTA / 59585174

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