今日は征韓論について勉強していきます。江戸時代の幕末、新政府側に立って討幕を進めた西郷隆盛は明治政府で参議を務めて政治に尽力していたが、やがては明治政府と敵対して戦争が起こる。

そして西郷隆盛が明治政府と決別した要因となったのが征韓論で、つまり征韓論は西郷隆盛の運命の分かれ道となった。そこで、今回は征韓論について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から征韓論をわかりやすくまとめた。

日本と朝鮮の関係

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文禄慶長の役による朝鮮との関係悪化

征韓論とは武力によって朝鮮を開国させようとする考え方、そこでまず日本と朝鮮の関係を振り返っていきましょう。時代は遥か昔に遡って1592年、全国統一を果たして豊臣秀吉は朝鮮への出兵を行い、それを文禄の役と呼びます。最も、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったのはそれだけではありません。

5年後の1597年にも同様に朝鮮出兵を行っていてこれを慶長の役と呼び、文禄の役と慶長の役をあわせて文禄慶長の役と呼びました。室町時代から交流していた日本と朝鮮はこれがきっかけで断絶状態となりますが、時代が流れて江戸幕府が開かれると関係修復の機会が生まれます。

江戸幕府を開いたのは徳川家康、家康は朝鮮出兵とは無関係の人物ですし、朝鮮からすれば自国に出兵してきた豊臣秀吉から天下を奪った家康に対して好感を持ったのかもしれません。ただ、それ以上に尽力したのは宗氏(対馬国を支配していた氏族)でしょう。

日本の使節を追い払う大院君

ともあれ、江戸幕府を開いて以降……すなわち江戸時代になると日本は朝鮮との関係を修復。交流していた頃のように朝鮮から朝鮮通信使と呼ばれる使節も送られてくるようになりました。しかしそれも束の間、江戸時代が終わって明治時代になると再び日本と朝鮮の関係は悪化します。

幕府の将軍ではなく朝廷の天皇が政治を行うようになった明治時代、新時代を迎えた日本は朝鮮に度々使節を送っており、政治の中心が徳川家から天皇家にかわったことを報告していました。しかし、朝鮮の政治を行っていた大院君はそんな日本からの使節を追い払ってしまったのです。

日本は明治時代を迎えると同時に近代国家への道を進みました。朝鮮からすれば、欧米を真似たような国作りをする日本が気に入らなかったのでしょう。そのため大院君は日本からの使節をことごとく追い払い、江戸時代のような交流をしようとは考えなかったのです。

征韓論が生まれたいきさつ

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\次のページで「ロシアに対する危機感」を解説!/

ロシアに対する危機感

再び朝鮮との関係が悪化した日本、ただ征韓論に至るにあたってもう一つ関係してくる国がありました。それはロシアです。北の国であるロシアは毎年冬になると厳しい寒さによって港が凍り、船の行き来ができなくなって貿易ができず経済に大きな支障をもたらしていました。

ですからロシアは冬になっても凍らない港が欲しくて仕方なく、そのため年中港が使える暖かい国を狙っていたのです。そんなロシアが目を付けたのが朝鮮、このロシアの狙いに警戒を見せたのが日本でした。日本と朝鮮は目の鼻の近さの距離、ですから仮にロシアが朝鮮を支配したら次に日本が狙われてしまいます。

そう危惧した日本はロシアへの対抗手段を考えました。そこで日本の出した結論はロシアが行動に移す前に朝鮮を手に入れること。ロシアが朝鮮を侵略する前に日本が朝鮮を手に入れ、領土を広げてロシアの脅威に対抗しようとしたのです。朝鮮との関係悪化とロシアへの対抗、これらが元となって征韓論は生まれました

岩倉使節団の目的

こうして生まれた征韓論はたちまち支持を集めますが、一方その頃、政府では全く別の任務に就いていた人物達がいました。明治維新直後の日本は近代国家を目指しており、それは欧米列強と対等に渡り合える強い国にするため、そしてその要となる任務を任されたのが岩倉使節団です。

岩倉使節団の目的は海外で各国の元首に国書を渡して友好関係を築くこと、そして西洋文明を視察することでした。選ばれたメンバーは使節団の名前のとおり岩倉具視を筆頭に、木戸孝允や大久保利通や伊藤博文などの政府の主要人物が多く、その旅は1年10か月にも及びます。

ただ、ここまで政府の主要人物を岩倉使節団に加えて派遣したため、日本の政府では主要人物のほとんどが長期間不在の状態になりました。大久保利通や木戸孝允らもその点を不安視しており、日本に残った留守政府に対して大きな改正や人事を行わないよう警告したのです。

留守政府と岩倉使節団の対立

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\次のページで「征韓論の主張」を解説!/

征韓論の主張

岩倉使節団が外国をまわっていた頃、日本の朝鮮の関係悪化をより強めてしまう事態が起こります。日本からの外交文書が幕府の頃に使われていた形式と異なるという理由で国交を拒否する朝鮮、1873年の5月には釜山にある日本側の滞在施設の門前にて、日本侮辱を意味する書が掲示してあるという情報が入ったのです。

これを知った板垣退助らは怒って征韓論を唱えて朝鮮出兵を主張。ただ、西郷隆盛だけは征韓論を主張しつつも、方法として出兵ではなく自身を大使にして派遣してほしいと求めました。板垣退助らも最終的には西郷隆盛の主張を支持、こうして西郷隆盛の朝鮮への派遣が決定します。

しかし天皇の許可は降りず、なぜなら岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの要人が岩倉使節団の任務中で不在だったためで、帰国を待つようにと促したのです。西郷隆盛ら留守政府はこれに従って岩倉使節団の帰国をじっと待ち、そしてとうとう岩倉使節団が帰国する日を迎えました。

岩倉使節団の主張

帰国して征韓論の主張を聞いた岩倉使節団のメンバー、大久保利通はこれに激怒したとされており、なぜなら征韓論のことなど寝耳に水、そんな重要な問題を留守政府が議題にしていたことに腹を立てたのです。岩倉具視や木戸孝允らも真っ向反対、その理由は岩倉使節団としての経験によるものでした。

岩倉使節団が任務の中で目にしてきた西洋文化は日本に比べて遥かにレベルが高く、日本がいかに遅れをとっているのかを実感します。ドイツの首相・ビスマルクは「弱い国が国際法を導入しても権利が守られる保証はない。まずは富国強兵を行って日本が強くなることが重要」とメンバーに伝えました。

そのため岩倉使節団は西郷隆盛らに対して「日本はすべきことはいち早く近代化を進めることで、朝鮮に出兵することではない」と反対したのです。また、朝鮮に出兵して戦争に至ってしまえば、朝鮮を属国とする清国とも関係悪化、さらに朝鮮を狙うロシアとも関係悪化することも危惧しました。

明治六年の政変

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西郷隆盛の強引な一言

征韓論の賛否は収拾がつかず、天皇は閣議で判断するように命じます。そこで行われた閣議、太政大臣の三条実美が議長となり、閣議には岩倉具視、西郷隆盛、板垣退助をはじめとした政府の官僚が出席しました。こうして、征韓論の賛否を決定するための閣議が始まったのです。

多数決の結果は賛成派と反対派で綺麗に五分五分となりますが、強気に出た西郷隆盛が「自分の意見が認められないなら議員を辞職する」と宣言。西郷隆盛は貴重な人材……辞職されては困ると焦った議長は西郷隆盛の主張を支持したため、強引な形で賛成派が勝利してしまいます。

当然この結果に納得できないのが反対派、大久保利通は辞表を出してしまい、岩倉具視も政府との決別を宣言。もはやどうすれば良いのか分からずの議長は最終判断を天皇に委ねると、閣議のストレスが原因だったのか心身疲労で倒れるほどの事態となってしまいました。

征韓論の決着

議長の三条実美は太政大臣であり、彼が倒れたことで岩倉具視が太政大臣を引き継ぐ話も出ますが、これについては三条実美の辞表は認められず。それ以前に征韓論の決着が未だついておらず、賛成派の官僚も反対派の官僚も明治天皇に対して早急な決断を要求、明治天皇もそれに応じました。

西郷隆盛の「意見が認められないなら辞職する」の言葉は半ば脅迫に近いものでしたが、それでも議長が支持したのは事実と言えば事実。一方で、政府の中で最も影響力を持つとされているのが岩倉具視。明治天皇がどちらの決断を下すのかが注目されましたが、結果として岩倉具視の意見を採用

つまり征韓論は却下されたのです。これを受けて、征韓論の賛成派である西郷隆盛を含めた5人が翌日すぐさま辞表を出して辞職、さらにその後を追うように征韓論を支持する軍人までもが辞職。実に600人が明治政府を離れることになったこの一連の事件を明治六年の政変と呼びます。

\次のページで「征韓論敗北後の日本」を解説!/

征韓論敗北後の日本

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帰郷する西郷隆盛の私学校設立

政府に失望した西郷隆盛は故郷の鹿児島へと帰郷、そこで目にしたのは明治政府に不満を持つ薩摩藩の士族達でした。江戸時代の幕末、幕府に行き詰まりを感じた彼らは倒幕を掲げて明治政府による天皇中心の政治を望み、その末に起こったのが戊辰戦争です。

そして、戊辰戦争に勝利した彼らにとって待ち望んだ新時代の到来でしたが、明治政府の打ち出す政策は武士にとって生きづらいものでした。近代国家を目指す日本に武士は不要とされ、かつて手にしていた特権は次々と奪われていく始末、給与の減少はもちろん、帯刀すら禁じられてしまいます。

そのため薩摩藩の士族達は明治政府に対する不満が高まり、あちこちで暴動が起こるほど九州の治安は悪化していました。人情の厚い西郷隆盛はそんな士族達を教育するため、また新たな仕事を得られるよう私学校を設立して士族達に支持されることになったのです。

西南戦争の始まりへ

西郷隆盛の私学校の設立を知った明治政府、政府に反発する士族達を集めて教育する西郷隆盛は脅威にうつります。この頃、各地では明治政府に不満を持つ不平士族による反乱が相次いでおり、ただ幸いにも全ての反乱を短期間で鎮圧することができていました。

しかし、仮に教育する士族達を集結させて西郷隆盛が反乱を起こしたとすると、それは明治政府にとって脅威になると考えたのです。もちろん西郷隆盛にそんな思惑など一切なく、むしろ不平士族に仕事を与えて欲しいと明治政府に対して願うほどでした。

明治政府もまた西郷隆盛の本音を知るはずがなく、反乱防止のために薩摩藩の火薬庫に保管されていた弾薬を大阪に移す行動を起こします。これを見た薩摩藩の士族は怒り、報復の意味で明治政府の弾薬庫を襲撃、収拾つなかくなったこの事態を受けて西郷隆盛はやむなくリーダーとなり、士族達を率いて西南戦争を起こすのでした。

板垣退助と西郷隆盛は征韓論の考え方が違う!

征韓論のポイントは、板垣退助らと西郷隆盛では考えが違うという点です。征韓論とは武力で朝鮮を開国させることであり、日本が侮辱された聞いた板垣退助らは武力行使を支持して征韓論を主張しました。

しかし、西郷隆盛の場合は板垣退助らと同様に征韓論を主張しているものの、その方法は武力ではなく自らが大使になって派遣されることです。結局征韓論は却下されますが、板垣退助らと西郷隆盛では征韓論の方法が全く違います。

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幕末日本史歴史江戸時代

西郷隆盛が明治政府を離れたきっかけ「征韓論」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は征韓論について勉強していきます。江戸時代の幕末、新政府側に立って討幕を進めた西郷隆盛は明治政府で参議を務めて政治に尽力していたが、やがては明治政府と敵対して戦争が起こる。

そして西郷隆盛が明治政府と決別した要因となったのが征韓論で、つまり征韓論は西郷隆盛の運命の分かれ道となった。そこで、今回は征韓論について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から征韓論をわかりやすくまとめた。

日本と朝鮮の関係

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文禄慶長の役による朝鮮との関係悪化

征韓論とは武力によって朝鮮を開国させようとする考え方、そこでまず日本と朝鮮の関係を振り返っていきましょう。時代は遥か昔に遡って1592年、全国統一を果たして豊臣秀吉は朝鮮への出兵を行い、それを文禄の役と呼びます。最も、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったのはそれだけではありません。

5年後の1597年にも同様に朝鮮出兵を行っていてこれを慶長の役と呼び、文禄の役と慶長の役をあわせて文禄慶長の役と呼びました。室町時代から交流していた日本と朝鮮はこれがきっかけで断絶状態となりますが、時代が流れて江戸幕府が開かれると関係修復の機会が生まれます。

江戸幕府を開いたのは徳川家康、家康は朝鮮出兵とは無関係の人物ですし、朝鮮からすれば自国に出兵してきた豊臣秀吉から天下を奪った家康に対して好感を持ったのかもしれません。ただ、それ以上に尽力したのは宗氏(対馬国を支配していた氏族)でしょう。

日本の使節を追い払う大院君

ともあれ、江戸幕府を開いて以降……すなわち江戸時代になると日本は朝鮮との関係を修復。交流していた頃のように朝鮮から朝鮮通信使と呼ばれる使節も送られてくるようになりました。しかしそれも束の間、江戸時代が終わって明治時代になると再び日本と朝鮮の関係は悪化します。

幕府の将軍ではなく朝廷の天皇が政治を行うようになった明治時代、新時代を迎えた日本は朝鮮に度々使節を送っており、政治の中心が徳川家から天皇家にかわったことを報告していました。しかし、朝鮮の政治を行っていた大院君はそんな日本からの使節を追い払ってしまったのです。

日本は明治時代を迎えると同時に近代国家への道を進みました。朝鮮からすれば、欧米を真似たような国作りをする日本が気に入らなかったのでしょう。そのため大院君は日本からの使節をことごとく追い払い、江戸時代のような交流をしようとは考えなかったのです。

征韓論が生まれたいきさつ

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