享保の改革の成果
経済のみならず人材や裁判に至るところまで及んだ享保の改革、それを振り返ってみると、まず人材登用に関しては成功。有能な人材の発掘や目安箱の設置は改革なくして実現しなかったでしょう。また、改革の要である財政難の問題はある程度の解消ができました。
とは言え、それに伴って農民の不満が高まったのも事実です。特に、定免法への切り替えは幕府の税収を安定させた一方で、不作の時にも一定の税を納める必要があったのは農民にとって明らかに負担と不満を高めます。物価対策においては当初失敗したものの、貨幣改鋳によってある程度挽回できました。
さらに、相対済令や公事方御定書によって裁判も迅速に進められるようになったのです。こうした点は成功したとも言えますが、明らかに失敗だったのは質流れ禁令。最も、根本的な解決となるとどの政策もそこまでには至っておらず、享保の改革の成果はまずまずと言ったところでしょうか。
寛政の改革と天保の改革
江戸三大改革の中で最初に行われた1741年の享保の改革、その後は1787年に2回目となる寛政の改革が行われます。享保の改革後、幕府は老中・田沼意次が重商主義政策を行いました。田沼意次は吉宗とは違い、幕府の財政の要を米ではなく貨幣にするべきと考えました。
吉宗も米は収穫量の変動に悩まされており、そのため定免法によって税率の一定化を図ります。一方、田沼意次はそもそも米ではなく貨幣を経済の要にすべきと判断したのです。まさに時代の先読みをした田沼意次、一時は田沼時代と呼ばれるほどの実績を残しました。
しかし、賄賂政治が横行したことなどが理由で失脚、重商主義政策にも様々な問題が起こってしまい、その改善も含めて行われたのが1787年の寛政の改革です。さらに時代は進んで1841年には江戸三大改革の最後となる天保の改革が行われます。
こちらの記事もおすすめ

「江戸三大改革」とは?享保・寛政・天保の改革とその後の日本を元塾講師が簡単にわかりやすく解説
改革する視点で考えればどの政策も理解できる!
享保の改革を覚えるポイントは、自分が改革する身になって考えてみることです。財政難、米の価格下落、こうした問題を解決するのであれば、何が必要なのかを考えてみてください。
優秀な人材の登用、町人に批判されないために意見を聞く、物価上昇への対策。このようなことが必要と考えるでしょうが、吉宗も同じ発想で政策を行っており、特に複雑なことをしているわけではないのです。



