その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、ハプスブルグ家とは
- 1-2、ハプスブルグ家の発祥の地はスイス
- 2-1、ハプスブルグ家に起こった出来事
- 2-2、始祖ルドルフ1世
- 2-3、建設王ルドルフ4世
- 2-4、ハプスブルグ家、神聖ローマ皇帝位を独占
- 2-5、大帝マクシミリアン一世
- 2-6、太陽の沈まぬ帝国
- 2-7、ハプスブルグ家、オーストリア系とスペイン系に分かれる
- 2-8、スペイン系ハプスブルク家(スペイン語でアブスブルゴ家)
- 2-9、オーストリア系ハプスブルク家
- 2-10、マリア・テレジア女帝
- 2-11、ナポレオンの台頭で神聖ローマ帝国は解体に
- 2-12、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国崩壊
- 3-1、その後のハプスブルグ家
- ハプスブルグ家の歴史を語るとヨーロッパ史になる名家
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ハプスブルグ家について5分でわかるようにまとめた。
1-1、ハプスブルグ家とは
「ハプルブルグ家」江村洋著によれば、ハプスブルグ王朝は13世紀から20世紀初頭まで約700年間にわたりヨーロッパの政局や文化の発展に関わり続け、しかも影響範囲が中央ヨーロッパのオーストリアだけでなく、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ、ポーランド、バルカン半島まで及び、なかには様々な民族が含まれ、ヨーロッパの国家連合として機能していた時代もあるという、ローマ教皇庁と並んで汎ヨーロッパ的な重要性を持ち、子々孫々が代々君主の地位を継承してきた王家であるということ。
そしてこのハプスブルグ家が領土を広げるために行ったことは、侵略戦争ではなく結婚政策だったことも重要で、ハプスブルグ王朝の歴史をたどることがすなわちヨーロッパ史となるというくらい、ヨーロッパとは何か、また現在も問題山積の東欧諸国の民族問題の源流について探るヒントにもなるという考察も。
1-2、ハプスブルグ家の発祥の地はスイス
ハプスブルグは、ドイツ語で「鷹の城」を意味すると言われますが、近くに浅瀬の川があることから中高ドイツ語の「浅瀬」に由来するという説もあるそう。最初に王家自身の文書でハプスブルクの名前が使われたのは、1108年ということ。ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となったスイスのバーゼルとチューリッヒの西にあるということで、ハプスブルク家の祖先は、10世紀に存在したブライスガウのグントラム金満公と思われ、その遠祖については、初期中世にアルザスに存在したエティション家の祖である上アルザス伯エティショとされるそうで、ハプスブルク家はエティション家の分家だと言われています。グントラム金満公の孫、クレットガウ伯ラートボトが1020年から30年頃にハビヒツブルク(ハプスブルグ)城を築いたといわれ、十字軍遠征で没落した領主や相続者のない家系を吸収するなどして勢力を増していったということ。
そして神聖ローマ帝国皇帝に尽くしたりして注目された始祖ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたことが、ヨーロッパ支配への第一歩だったということ。
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神聖ローマ帝国皇帝の選出
神聖ローマ帝国は、広い意味でのドイツを意味し、皇帝選挙で投票する権利のある世襲制の7人の皇帝を選帝侯と称していたということ。7人の内訳は、マインツ、ケルン、トリーアの大司教、そしてボヘミア王、ブランデンブルグ公爵、ザクセン公爵、プファルツ宮中伯爵で、マインツ大司教が筆頭で、皇帝の補佐役も兼ねていたそう。
2-1、ハプスブルグ家に起こった出来事
約700年続いたハプスブルグ家の治世で、分岐点となった君主たち、出来事をご紹介しますね。
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