今回はハプスブルグ家を取り上げるぞ。ドイツとオーストリア、スペインにまたがる大帝国を築いた王家ですが、最初の成り立ちから詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ハプスブルグ家について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ハプスブルグ家とは

「ハプルブルグ家」江村洋著によれば、ハプスブルグ王朝は13世紀から20世紀初頭まで約700年間にわたりヨーロッパの政局や文化の発展に関わり続け、しかも影響範囲が中央ヨーロッパのオーストリアだけでなく、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ、ポーランド、バルカン半島まで及び、なかには様々な民族が含まれ、ヨーロッパの国家連合として機能していた時代もあるという、ローマ教皇庁と並んで汎ヨーロッパ的な重要性を持ち、子々孫々が代々君主の地位を継承してきた王家であるということ。

そしてこのハプスブルグ家が領土を広げるために行ったことは、侵略戦争ではなく結婚政策だったことも重要で、ハプスブルグ王朝の歴史をたどることがすなわちヨーロッパ史となるというくらい、ヨーロッパとは何か、また現在も問題山積の東欧諸国の民族問題の源流について探るヒントにもなるという考察も。

1-2、ハプスブルグ家の発祥の地はスイス

ハプスブルグは、ドイツ語で「鷹の城」を意味すると言われますが、近くに浅瀬の川があることから中高ドイツ語の「浅瀬」に由来するという説もあるそう。最初に王家自身の文書でハプスブルクの名前が使われたのは、1108年ということ。ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となったスイスのバーゼルとチューリッヒの西にあるということで、ハプスブルク家の祖先は、10世紀に存在したブライスガウのグントラム金満公と思われ、その遠祖については、初期中世にアルザスに存在したエティション家の祖である上アルザス伯エティショとされるそうで、ハプスブルク家はエティション家の分家だと言われています。グントラム金満公の孫、クレットガウ伯ラートボトが1020年から30年頃にハビヒツブルク(ハプスブルグ)城を築いたといわれ、十字軍遠征で没落した領主や相続者のない家系を吸収するなどして勢力を増していったということ。

そして神聖ローマ帝国皇帝に尽くしたりして注目された始祖ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたことが、ヨーロッパ支配への第一歩だったということ。

神聖ローマ帝国皇帝の選出
神聖ローマ帝国は、広い意味でのドイツを意味し、皇帝選挙で投票する権利のある世襲制の7人の皇帝を選帝侯と称していたということ。7人の内訳は、マインツ、ケルン、トリーアの大司教、そしてボヘミア王、ブランデンブルグ公爵、ザクセン公爵、プファルツ宮中伯爵で、マインツ大司教が筆頭で、皇帝の補佐役も兼ねていたそう。

2-1、ハプスブルグ家に起こった出来事

約700年続いたハプスブルグ家の治世で、分岐点となった君主たち、出来事をご紹介しますね。

\次のページで「2-2、始祖ルドルフ1世」を解説!/

2-2、始祖ルドルフ1世

1273年、ドイツ諸侯は、新たなドイツ王(皇帝)に、スイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世を選出。これはルドルフ1世が理想的な君主として選出されたのではなく、ベーメン王オトカルが野心満々だったので、肩透かし的に誰も期待していないルドルフを選出したということ。しかしその期待されなかったはずのルドルフは、ベーメン王オタカル2世を1278年のマイヒフェルトの戦いで破ってオーストリアの地を得、栄光あるハプスブルク家の始祖に。

ルドルフ1世の後、1308年にルドルフの子アルブレヒト1世は、甥のヨーハン・パリツィーダによって暗殺。その子フリードリヒ美王が共同君主の地位を得たが、その後はハプスブルグ家の勢力は一時衰えたということ。

2-3、建設王ルドルフ4世

1308年から130年間、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝に選ばれなかったが、その間、領土経営に専念し、建設王と呼ばれたルドルフ4世が、1363年にティロル地方を獲得し、1365年にウィーン大学を創立し、また聖ステファン大寺院の建設を開始したということ。ルドルフ4世は神聖ローマ皇帝には選出されなかったが、大公という爵位を名乗り、以降、ハプスブルク家の君主はその爵位を継承したそう。また、ルドルフ4世はルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝カール4世の娘と結婚していたが、金印勅書では選帝侯に加えられなかったということ。ルドルフ4世には後継者がなく、ハプスブルク家はしばらく内紛が続いて幾つかの家系に分裂。

2-4、ハプスブルグ家、神聖ローマ皇帝位を独占

1438年にアルブレヒト2世が、ハプスブルグ家としては130年ぶりに神聖ローマ皇帝に選出。アルブレヒト2世はルクセンブルク朝皇帝ジギスムントの女婿なのでベーメン、ハンガリー王の地位も継承したが、即位後すぐに赤痢で死去。

次にアルブレヒト2世の息子、フリードリヒ3世が皇帝に選出され、以後、ハプスブルク家は帝位を独占するように。1452年、36歳のフリードリヒは、ポルトガルのエレオノーレ王女とローマで結婚し、ローマ教皇の元で戴冠したということ。尚、結婚から7年後に生まれた跡取り息子が後のマクシミリアン1世。フリードリヒ3世は53年にわたって在位し、その後のハプスブルク家の繁栄の原点ともいえる皇帝に。

2-5、大帝マクシミリアン一世

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Bernhard Strigel - Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, リンクによる

1459年3月22日生まれのマクシミリアン1世は、ブルゴーニュ公シャルル突進公の娘マリアと結婚、フランス東部からネーデルラントに広がる広大な領土を手にいれ、相思相愛だったが早世したマリアとの息子のフィリップ(美公)をスペインのイザベラ女王の娘ファナ王女と、娘のマルグリッドとスペイン王太子ファンと結婚させ、広大なハプスブルク帝国を建設。マクシミリアン1世はチロル地方も継承したために銀山経営で巨富を築いたフッガー家との関係を深め、資金援助を受けるようになり、フランス王家との対立も開始。

マクシミリアンは大帝と称され、中世最後の騎士と呼ばれることも。

2-6、太陽の沈まぬ帝国

マクシミリアン1世の息子フィリップ美公とファナ王女には2男3女が生まれ、長男はローマ皇帝カール5世およびスペイン王カルロス1世となり、娘たちもヨーロッパ王族に嫁いだため、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承、皇帝カール5世のもと、当時スペインは中南米を植民地としていたために、カール5世の領土は太陽の沈まぬ帝国と言われたのは有名。カール5世の弟フェルディナント1世は、ハンガリー王、ボヘミア王に選出されたことで、ハプスブルク家は東ヨーロッパへの勢力も拡大することに。

2-7、ハプスブルグ家、オーストリア系とスペイン系に分かれる

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かつてはティツィアーノ・ヴェチェッリオの作とされていた。, パブリック・ドメイン, リンクによる

カール5世はカトリックの擁護者としてプロテスタントと戦った後に、1521年、祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割し、父フィリップ美公や母フアナ女王を通じて相続した所領につては、1556年に息子フェリペ2世が継承したため、ハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家と、オーストリア系ハプスブルク家に分かれることに。そして1549年に協定がかわされて、カール5世の弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲へ。

\次のページで「2-8、スペイン系ハプスブルク家(スペイン語でアブスブルゴ家)」を解説!/

2-8、スペイン系ハプスブルク家(スペイン語でアブスブルゴ家)

image by PIXTA / 578651

スペイン系ハプスブルク家は、エスパーニャ・アブスブルゴ、カサ・デ・アウストリアと呼ばれ、1580年から1640年までポルトガル王兼任で海外植民地を含めた太陽の沈まぬ帝国は、フェリペ2世の時代に最盛期を迎えたが、無敵艦隊の壊滅をきっかけに勢力が衰えていき、80年戦争、フランス・スペイン戦争に敗れてヨーロッパの覇権を失うことに。そしてオーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親婚のせいもあって病弱な君主や夭折が続き、1700年、カルロス2世の死で断絶、スペイン継承戦争の後に王家はスペイン・ブルボン家に移行することに。

2-9、オーストリア系ハプスブルク家

image by PIXTA / 5282562

オーストリア系ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世からで、1648年に30年戦争終結で締結されたヴェストファーレン条約によって弱体化したが、1683年のオスマン帝国の第二次ウィーン包囲を撃退して力を取り戻し、オスマン帝国を破って1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを奪還。スペイン継承戦争のときは、ハプスブルク家に支援を申し出た、ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世に「プロイセンの王」の称号を認めて、神聖ローマ皇帝としての権威を示したということ。

2-10、マリア・テレジア女帝

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マルティン・ファン・マイテンス - Buchscan, パブリック・ドメイン, リンクによる

1740年、カール6世が後継ぎの男子がなく亡くなり、神聖ローマ皇帝は女性の継承を認めないサリカ法があるため、オーストリアハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝位を喪失することに。オーストリア帝国は長女マリア・テレジアが相続したが、マリア・テレジアの即位を認めないプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発。この戦争のためにオーストリアはシュレージエンを失い、一時苦境に陥ったが、イギリスに支援されて1748年アーヘンの和約を締結し、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーの相続が承認されることに。

また、マリア・テレジアの夫のロートリンゲン家のロレーヌ大公フランツ・シュテファンが1745年に帝位を奪還。その後、プロイセン王国への対抗もあって、マリア・テレジアの末娘マリア・アントニア(マリー・アントワネット)をフランス王太子(後のルイ16世)と政略結婚させるなどしてフランス王国と接近したために、ドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝の権威を損なったということ。そしてオーストリアはプロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加し、マリア・テレジアと息子ヨーゼフ2世は啓蒙主義を推し進め、富国強兵に努めたそう。

1789年に勃発したフランス革命、ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与えプロイセンとともにフランスに出兵するが、革命政府軍に敗れ、さらにナポレオン・ボナパルトが台頭してヨーロッパはカオスに。

尚、マリア・テレジアがロートリンゲン家のフランツと結婚したため、その後のハプスブルグ家は、正式にはハプスブルグ=ロートリンゲン家に。

2-11、ナポレオンの台頭で神聖ローマ帝国は解体に

19世紀初頭、神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻勢に屈したため、1806年、ハプスブルク家のフランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位したが、オーストリア皇帝として存続。ナポレオン1世追放後のヨーロッパでは、ウィーン体制護持の神聖同盟の地位を確保し、ドイツ連邦内でも優位を保っていたが、クリミア戦争でロシアと敵対したために神聖同盟は事実上崩壊、1859年、サルデーニャ王国に敗北、1866年の普墺戦争で大敗してドイツ連邦から追放など、国際的地位が低下していったということ。

また多民族国家であるため、諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー人に対して妥協、1867年、オーストリア=ハンガリー帝国として再編されることに。

2-12、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国崩壊

20世紀以後も民族問題は深刻を深め、1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合後、くすぶっていた大セルビア主義が高揚してロシアとの関係が悪化し、1914年、皇位継承者だったフランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年に暗殺されるサラエヴォ事件が勃発し、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦に。

そして長引く戦争とソビエト連邦のレーニン政府の戦線離脱などもあり、連合国側はチェコ・スロヴァキアに独立を約束、そしてオーストリア=ハンガリー帝国内の民族も続々と独立、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言したため、1918年、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命、中央ヨーロッパに650年間君臨したハプスブルク帝国は崩壊

3-1、その後のハプスブルグ家

亡命後のハプスブルク一族はオーストリア共和国への入国禁止となり、1921年にはカール1世がハンガリー王国に復帰しようとしたが失敗。1961年に、カール1世の長男で最後の皇太子と言われるオットー・フォン・ハプスブルグはオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄、オーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国が許可に。

その後のハプスブルク家は、オットーがドイツ選出、その息子カールがオーストリア選出でEU欧州議会議員を務めたということ。

ハプスブルグ家の歴史を語るとヨーロッパ史になる名家

ハプスブルグ家はスイスの土豪から発して、神聖ローマ皇帝に選出されてヨーロッパ史に躍り出た後、結婚政策と多産で勢力を強めていき、ドイツ、オーストリアを含めた神聖ローマ帝国とスペイン王国を兄弟で治めるように。

「戦争は他家に任せ、幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉は有名だし、歴代皇帝に名君を輩出して、お家騒動などの内紛もほとんどなかったが、のちに近親婚がすぎてハプスブルグ家独特の下唇や受け口とか言われたり、体の弱い人も生まれるようになりスペイン系はブルボン家に取って代わられたのは残念。

そしてハプスブルグ王朝は滅びても、オーストリア・ハンガリー帝国最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルグ氏がEUヨーロッパ共同体設立に関わったなど、末裔は現在もヨーロッパで健在。とにかく重厚で荘厳な700年にわたるハプスブルグ王朝の歴史は、多産で複雑な系図、悲劇のエリザベート皇妃などなど、語り尽くせないほどのエピソードに満ちていて歴史ファンを魅了し続けているのですね。

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ヨーロッパを席巻した随一の名門王家「ハプスブルク家」を歴女がわかりやすく解説

今回はハプスブルグ家を取り上げるぞ。ドイツとオーストリア、スペインにまたがる大帝国を築いた王家ですが、最初の成り立ちから詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ハプスブルグ家について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ハプスブルグ家とは

「ハプルブルグ家」江村洋著によれば、ハプスブルグ王朝は13世紀から20世紀初頭まで約700年間にわたりヨーロッパの政局や文化の発展に関わり続け、しかも影響範囲が中央ヨーロッパのオーストリアだけでなく、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ、ポーランド、バルカン半島まで及び、なかには様々な民族が含まれ、ヨーロッパの国家連合として機能していた時代もあるという、ローマ教皇庁と並んで汎ヨーロッパ的な重要性を持ち、子々孫々が代々君主の地位を継承してきた王家であるということ。

そしてこのハプスブルグ家が領土を広げるために行ったことは、侵略戦争ではなく結婚政策だったことも重要で、ハプスブルグ王朝の歴史をたどることがすなわちヨーロッパ史となるというくらい、ヨーロッパとは何か、また現在も問題山積の東欧諸国の民族問題の源流について探るヒントにもなるという考察も。

1-2、ハプスブルグ家の発祥の地はスイス

ハプスブルグは、ドイツ語で「鷹の城」を意味すると言われますが、近くに浅瀬の川があることから中高ドイツ語の「浅瀬」に由来するという説もあるそう。最初に王家自身の文書でハプスブルクの名前が使われたのは、1108年ということ。ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となったスイスのバーゼルとチューリッヒの西にあるということで、ハプスブルク家の祖先は、10世紀に存在したブライスガウのグントラム金満公と思われ、その遠祖については、初期中世にアルザスに存在したエティション家の祖である上アルザス伯エティショとされるそうで、ハプスブルク家はエティション家の分家だと言われています。グントラム金満公の孫、クレットガウ伯ラートボトが1020年から30年頃にハビヒツブルク(ハプスブルグ)城を築いたといわれ、十字軍遠征で没落した領主や相続者のない家系を吸収するなどして勢力を増していったということ。

そして神聖ローマ帝国皇帝に尽くしたりして注目された始祖ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたことが、ヨーロッパ支配への第一歩だったということ。

神聖ローマ帝国皇帝の選出
神聖ローマ帝国は、広い意味でのドイツを意味し、皇帝選挙で投票する権利のある世襲制の7人の皇帝を選帝侯と称していたということ。7人の内訳は、マインツ、ケルン、トリーアの大司教、そしてボヘミア王、ブランデンブルグ公爵、ザクセン公爵、プファルツ宮中伯爵で、マインツ大司教が筆頭で、皇帝の補佐役も兼ねていたそう。

2-1、ハプスブルグ家に起こった出来事

約700年続いたハプスブルグ家の治世で、分岐点となった君主たち、出来事をご紹介しますね。

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