4代目将軍・徳川家綱(いえつな)
彼は徳川家光の息子で、武断政治から文治政治への切り替えを行った人物です。徳川家康は武力で天下統一を果たしており、そのため政権維持においても武力に頼っていました。しかしその結果、主を失った大名が牢人となるなど、治安悪化が目立ってしまいます。
そこで家綱は考えを改め、武力ではなく学問や教養を大切にすべきとして、武断政治ではなく文治政治による政権維持に方向転換させました。幕府が朱子学を推奨したのも文治政治が始まったのがきっかけで、文治政治は7代目将軍の代まで続いていくことになります。
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5代目将軍・徳川綱吉(つなよし)
彼は徳川秀忠が祖父で、生類憐みの令を発令した人物です。生類憐みの令の認識として、これまでは「世継ぎに恵まれないのは前世で殺生を行ったからであり、そうならないためにも特に犬を大切にすべき」の解釈が一般的でした。
生類憐みの令の解釈から綱吉は犬公方とも呼ばれていましたが、現在では江戸のモラルの向上が目的で発令されたと考えられています。戦国時代の面影が残る日本、さらに野良犬の増加によって犬への虐待や殺害が増え、低下したそのモラルを向上するため、特に犬を大切にするよう生類憐みの令を発布したとされていますね。
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6代目将軍・徳川家宣(いえのぶ)
彼は徳川家光の孫で、先代である徳川綱吉の政策を排除した人物です。先代綱吉の政策は庶民からの不満の声が多く、そのため家宣は綱吉の政策を徹底的に排除しました。また、綱吉が廃止した勘定吟味役を復活させるなど、まさに綱吉とは真逆の政治をしています。
それは庶民の不満の解消にもなったため、家宣への人気や期待は高まっていました。また、文治政治の推進のために甲府徳川家旧臣である間部詮房と新井白石を登用、独断的な政治を行ってきた綱吉とは違い、家宣は間部詮房と新井白石など家臣の力も借りていたようです。
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7代目将軍・徳川家継(いえつぐ)
彼は徳川家宣の四男で、4歳という若年で将軍になった人物です。家継については特に目立った政策は行っておらず、これまでそれを不思議に思っていた人もいるでしょうが、家継の年齢を知るとそれにも納得できますね。
また家継は8歳で死去しており、これで徳川家光の系統は断絶となります。若いどころかまだ子供の家継、当然日本を統治する政治などできるはずなく、間部詮房・新井白石の政策をそのまま継続しており、間部詮房もまた家継に対して「何事も私にお任せください」と伝えていました。
8代目将軍・徳川吉宗(よしむね)
彼は奇襲徳川家からの養子で、享保の改革を行った人物です。江戸時代には江戸三大改革と呼ばれる大きな改革が3度行われており、その最初となるのが1716年の享保の改革。中でも、贅沢を禁止する倹約令や裁判増加に対処した公事方御定書は有名ですね。
また、税率を米の量を踏まえて考えるこれまでの検見法から定免法へと切り替えていて、これによって気候関係なく一定の税を得ることを実現、幕府の財政を安定させることができました。ドラマでも採用された人物であることから想像できるとおり、吉宗は江戸時代を代表する名君の一人とも言われています。
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9代目将軍・徳川家重(いえしげ)
彼は徳川吉宗の長男で、なぜか一説では男性ではなく女性だったとも言われている人物です。近い将来、江戸幕府は田沼意次が名をとどろかせますが、その田沼意次を大名に取りたてたのが家重でした。また、家重は御用人制度を復活させています。
御用人とは将軍の命令を老中に伝えるのが仕事ですが、これは政治政策の意味ではありません。家重は身体を壊して言語不明瞭となっており、側近の大岡忠光だけが家重の言葉を聞き分けることができました。そのため、家重は大岡忠光を重要な役につけて御用人制度を復活させたのです。
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