今日は徳川将軍について勉強していきます。1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は代々徳川家が引き継いでいき、征夷大将軍は15代まで続くことになる。

つまり徳川将軍は15人。勉強する中では誰が何をしたか、そもそも将軍の名前も分からないことがあるでしょう。そこで、今回は徳川将軍について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から徳川将軍をわかりやすくまとめた。

徳川家康から徳川家光まで

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ここでは、初代将軍・徳川家康から3代将軍・家光までを見ていきましょう。

初代将軍・徳川家康(いえやす)

彼は江戸幕府を開いた人物であると当時に、天下統一を果たして徳川家に栄光をもたらした人物です。1600年に関ヶ原の戦いに勝利した家康は1603年に征夷大将軍に就いて江戸幕府を開きますが、意外にも将軍職を務めたのはわずか2年でした。

これは徳川家康が徳川家が長期間政権維持するための策でもあり、息子に将軍職を譲ることで「江戸幕府は代々徳川家が引き継いでいく」と世間にアピールしたのです。実際、将軍職を退いても家康は政治に携わっており、大御所として依然政治の実権を握っていました。

2代目将軍・徳川秀忠(ひでただ)

彼は徳川家康の息子で、最初に武家諸法度を発布した人物です。武家諸法度はこの後も将軍が代替わりするたびに改訂を繰り返しますが、最初に発布されたのは1615年のことで、発布したのは秀忠でした。武家諸法度とは、大名に対する禁止事項を示した法令です。

徳川家の家臣の大名の中には、関ヶ原の戦い以降に家臣となった者も多く、そのような大名を外様大名と呼びました。政権維持において警戒すべきは各地の大名の反乱、特に外様大名に対する警戒は強く、武家諸法度は大名の反発や反乱を防ぐことを目的に制定したのですね。

3代目将軍・徳川家光(いえみつ)

彼は徳川秀忠の次男で、武家諸法度の改訂によって1636年に参勤交代を義務づけた人物です。参勤交代は当初各地の大名の財産を減らして軍事力を低下させるのが目的とされていましたが、現在では大名の将軍への忠誠心を確認するのが目的と言われるようになりました。

さらに、1639年には鎖国と呼ばれる幕府の対外政策を行い、これは今後200年以上もの間続いていくことになります。また江戸幕府の特徴でもある幕藩体制の基盤もこの頃に完成しており、家光の代は江戸幕府の基本的な体制と政策が完成した代とも言えるでしょう。

徳川家綱から徳川家宣まで

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続いては4代将軍・家綱から6代将軍・家宣までを解説していきます。

\次のページで「4代目将軍・徳川家綱(いえつな)」を解説!/

4代目将軍・徳川家綱(いえつな)

彼は徳川家光の息子で、武断政治から文治政治への切り替えを行った人物です。徳川家康は武力で天下統一を果たしており、そのため政権維持においても武力に頼っていました。しかしその結果、主を失った大名が牢人となるなど、治安悪化が目立ってしまいます。

そこで家綱は考えを改め、武力ではなく学問や教養を大切にすべきとして、武断政治ではなく文治政治による政権維持に方向転換させました。幕府が朱子学を推奨したのも文治政治が始まったのがきっかけで、文治政治は7代目将軍の代まで続いていくことになります。

5代目将軍・徳川綱吉(つなよし)

彼は徳川秀忠が祖父で、生類憐みの令を発令した人物です。生類憐みの令の認識として、これまでは「世継ぎに恵まれないのは前世で殺生を行ったからであり、そうならないためにも特に犬を大切にすべき」の解釈が一般的でした。

生類憐みの令の解釈から綱吉は犬公方とも呼ばれていましたが、現在では江戸のモラルの向上が目的で発令されたと考えられています。戦国時代の面影が残る日本、さらに野良犬の増加によって犬への虐待や殺害が増え、低下したそのモラルを向上するため、特に犬を大切にするよう生類憐みの令を発布したとされていますね。

6代目将軍・徳川家宣(いえのぶ)

彼は徳川家光の孫で、先代である徳川綱吉の政策を排除した人物です。先代綱吉の政策は庶民からの不満の声が多く、そのため家宣は綱吉の政策を徹底的に排除しました。また、綱吉が廃止した勘定吟味役を復活させるなど、まさに綱吉とは真逆の政治をしています。

それは庶民の不満の解消にもなったため、家宣への人気や期待は高まっていました。また、文治政治の推進のために甲府徳川家旧臣である間部詮房と新井白石を登用、独断的な政治を行ってきた綱吉とは違い、家宣は間部詮房と新井白石など家臣の力も借りていたようです。

徳川家継から徳川家重まで

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ここからは7代将軍・家継から9代将軍・家重までを見ていきましょう。

7代目将軍・徳川家継(いえつぐ)

彼は徳川家宣の四男で、4歳という若年で将軍になった人物です。家継については特に目立った政策は行っておらず、これまでそれを不思議に思っていた人もいるでしょうが、家継の年齢を知るとそれにも納得できますね。

また家継は8歳で死去しており、これで徳川家光の系統は断絶となります。若いどころかまだ子供の家継、当然日本を統治する政治などできるはずなく、間部詮房・新井白石の政策をそのまま継続しており、間部詮房もまた家継に対して「何事も私にお任せください」と伝えていました。

8代目将軍・徳川吉宗(よしむね)

彼は奇襲徳川家からの養子で、享保の改革を行った人物です。江戸時代には江戸三大改革と呼ばれる大きな改革が3度行われており、その最初となるのが1716年の享保の改革。中でも、贅沢を禁止する倹約令や裁判増加に対処した公事方御定書は有名ですね。

また、税率を米の量を踏まえて考えるこれまでの検見法から定免法へと切り替えていて、これによって気候関係なく一定の税を得ることを実現、幕府の財政を安定させることができました。ドラマでも採用された人物であることから想像できるとおり、吉宗は江戸時代を代表する名君の一人とも言われています。

9代目将軍・徳川家重(いえしげ)

彼は徳川吉宗の長男で、なぜか一説では男性ではなく女性だったとも言われている人物です。近い将来、江戸幕府は田沼意次が名をとどろかせますが、その田沼意次を大名に取りたてたのが家重でした。また、家重は御用人制度を復活させています。

御用人とは将軍の命令を老中に伝えるのが仕事ですが、これは政治政策の意味ではありません。家重は身体を壊して言語不明瞭となっており、側近の大岡忠光だけが家重の言葉を聞き分けることができました。そのため、家重は大岡忠光を重要な役につけて御用人制度を復活させたのです。

\次のページで「徳川家治から徳川家慶まで」を解説!/

徳川家治から徳川家慶まで

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続いては10代将軍・家治から12代将軍・家慶までを解説していきます。

10代目将軍・徳川家治(いえはる)

彼は徳川家重の息子で、歴代の徳川将軍の中で無能と酷評される人物です。趣味への没頭から政治に対してまるで興味がなく、しかも皮肉にも家治に対して最も期待していたのは名君と呼ばれる徳川吉宗で、吉宗は死去するまで家治の教育と指導を行っていました。

この時代、名を残したのは将軍の家治よりも老中の田沼意次でしょう。再び幕府の財政が行き詰った時に改革を行ったのは家治ではなく田沼意次。経済の要を米から貨幣へ移した彼の読みは鋭いものでした。重商主義政策で権力を高めて田沼時代と称されたものの、賄賂政治を批判されて失脚してしまいます。

11代目将軍・徳川家斉(いえなり)

彼は一橋徳川家からの養子で、田沼意次を罷免して代わりに松平定信を老中に任命した人物です。家斉は女性好きと言われていますが、その理由は40人の側室と53人の子供を子供を持ったことでしょう。余程派手な生活をしていたのか、幕府の財政は赤字になっていました。

家斉の代では1787年に寛政の改革を行っており、これは江戸三大改革の2つ目にあたる改革です。最も、これを主導したのは家斉ではなく松平定信で、改革の中には江戸の秩序を高めるもの見られます。40人の側室・53人の子供を持つ家斉とは明らかに性格が合わず、治安のためとは言え必要以上の秩序の引き締めは、江戸から活気を奪ってしまいました。

12代目将軍・徳川家慶(いえよし)

彼は徳川家斉の次男で、「そうせい様」と呼ばれた人物です。その由来は家臣の意見に対して「そうせい」しか言わないためで、「そうせい様」というのはもちろん家慶を批判する言葉。判断能力のない愚かな将軍と低評価の将軍でした。

家慶の代にも将軍以上に老中が活躍しており、老中首座・水野忠邦が1841年に天保の改革を行っています。江戸三大改革の最後となる天保の改革ですが、結果は明らかな失敗、やることなすこと全てが裏目に出てしまいました。また、この頃から日本は外国の脅威を考えるようになります。

徳川家定から徳川慶喜まで

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最後に13代将軍・家定から15代将軍・慶喜について見ていきましょう。

13代将軍・徳川家定(いえさだ)

彼は徳川家慶の四男で、病弱だった人物です。病弱にもかかわらず当時の日本は外国の脅威にさらされており、ペリーの黒船来航が起こった時代でした。1854年に日米和親条約に調印して開国、徳川家光が行った幕府の対外政策はこの時に終わりました。

しかしその後は体調を壊し、外交問題に直面しているさなかに死去してしまいます。最も、虚弱体質だった家定は将軍に就任した時点ですでに身体が悪く、廃人同然だったとも言われていました。家定の場合、有名なのは家定本人よりも家定の妻ではないでしょうか。家定の妻は篤姫、ドラマでも主役となった女性ですね。

14代将軍・徳川家茂(いえもち)

彼は徳川家定の従弟で、将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主だった人物です。先代の徳川家定の体調が思わしくなかったため、徳川家定が将軍に就任した時点ですでに次の将軍を検討、将軍継嗣問題を経て任命されたのが家茂でした。

家茂の代の幕府は幕末の文字どおりまさに末期状態、日米修好通商条約の無勅許での調印問題桜田門外の変など、幕府の信頼と権威はガタ落ちになります。最も、これは家茂が無能というわけではなく、時代の流れだったのかもしれません。薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶなど、すでに幕府の力は衰えて倒幕の思想が掲げられていました。

15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)

彼は一橋徳川家からの養子で、徳川将軍の中で最も長生きした人物です。慶喜も当初は14代将軍の候補でしたが将軍継嗣問題に敗れたことで最後の代の将軍となりました。高まる倒幕ムードに対してもはや幕府は武力で対抗するだけの力はありません。

明治維新のさなかに将軍に就任した慶喜、しかし頭の切れる一面も見せました。1867年に大政奉還を行って自ら幕府の歴史に幕を降ろしますが、それは思惑あっての行動。依然政治に携わることを目論むものの、最後は戊辰戦争によって敗北、政権を朝廷に譲って日本は新時代を迎えることになったのです。

将軍の名前の書き間違えは絶対にしてはいけない!

徳川将軍を覚えるポイントは、まず名前を書き間違えないことですね。徳川将軍を覚えるなら、将軍の名前、行ったこと、当時の情勢などを勉強するでしょうが、意外に間違えやすいのが漢字です。

例えば徳川家慶と徳川慶喜は文字が似ていますから、うっかり間違えてしまうケースが多く見られます。こうしたイージーミスは後悔も残るので、漢字の書き取りのごとく書いてしっかり覚えましょう。

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日本史歴史江戸時代

歴代の「徳川将軍」一覧が簡単に分かる!政策も元塾講師が分かりやすく解説

4代目将軍・徳川家綱(いえつな)

彼は徳川家光の息子で、武断政治から文治政治への切り替えを行った人物です。徳川家康は武力で天下統一を果たしており、そのため政権維持においても武力に頼っていました。しかしその結果、主を失った大名が牢人となるなど、治安悪化が目立ってしまいます。

そこで家綱は考えを改め、武力ではなく学問や教養を大切にすべきとして、武断政治ではなく文治政治による政権維持に方向転換させました。幕府が朱子学を推奨したのも文治政治が始まったのがきっかけで、文治政治は7代目将軍の代まで続いていくことになります。

5代目将軍・徳川綱吉(つなよし)

彼は徳川秀忠が祖父で、生類憐みの令を発令した人物です。生類憐みの令の認識として、これまでは「世継ぎに恵まれないのは前世で殺生を行ったからであり、そうならないためにも特に犬を大切にすべき」の解釈が一般的でした。

生類憐みの令の解釈から綱吉は犬公方とも呼ばれていましたが、現在では江戸のモラルの向上が目的で発令されたと考えられています。戦国時代の面影が残る日本、さらに野良犬の増加によって犬への虐待や殺害が増え、低下したそのモラルを向上するため、特に犬を大切にするよう生類憐みの令を発布したとされていますね。

6代目将軍・徳川家宣(いえのぶ)

彼は徳川家光の孫で、先代である徳川綱吉の政策を排除した人物です。先代綱吉の政策は庶民からの不満の声が多く、そのため家宣は綱吉の政策を徹底的に排除しました。また、綱吉が廃止した勘定吟味役を復活させるなど、まさに綱吉とは真逆の政治をしています。

それは庶民の不満の解消にもなったため、家宣への人気や期待は高まっていました。また、文治政治の推進のために甲府徳川家旧臣である間部詮房と新井白石を登用、独断的な政治を行ってきた綱吉とは違い、家宣は間部詮房と新井白石など家臣の力も借りていたようです。

徳川家継から徳川家重まで

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ここからは7代将軍・家継から9代将軍・家重までを見ていきましょう。

7代目将軍・徳川家継(いえつぐ)

彼は徳川家宣の四男で、4歳という若年で将軍になった人物です。家継については特に目立った政策は行っておらず、これまでそれを不思議に思っていた人もいるでしょうが、家継の年齢を知るとそれにも納得できますね。

また家継は8歳で死去しており、これで徳川家光の系統は断絶となります。若いどころかまだ子供の家継、当然日本を統治する政治などできるはずなく、間部詮房・新井白石の政策をそのまま継続しており、間部詮房もまた家継に対して「何事も私にお任せください」と伝えていました。

8代目将軍・徳川吉宗(よしむね)

彼は奇襲徳川家からの養子で、享保の改革を行った人物です。江戸時代には江戸三大改革と呼ばれる大きな改革が3度行われており、その最初となるのが1716年の享保の改革。中でも、贅沢を禁止する倹約令や裁判増加に対処した公事方御定書は有名ですね。

また、税率を米の量を踏まえて考えるこれまでの検見法から定免法へと切り替えていて、これによって気候関係なく一定の税を得ることを実現、幕府の財政を安定させることができました。ドラマでも採用された人物であることから想像できるとおり、吉宗は江戸時代を代表する名君の一人とも言われています。

9代目将軍・徳川家重(いえしげ)

彼は徳川吉宗の長男で、なぜか一説では男性ではなく女性だったとも言われている人物です。近い将来、江戸幕府は田沼意次が名をとどろかせますが、その田沼意次を大名に取りたてたのが家重でした。また、家重は御用人制度を復活させています。

御用人とは将軍の命令を老中に伝えるのが仕事ですが、これは政治政策の意味ではありません。家重は身体を壊して言語不明瞭となっており、側近の大岡忠光だけが家重の言葉を聞き分けることができました。そのため、家重は大岡忠光を重要な役につけて御用人制度を復活させたのです。

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