幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

坂本龍馬と結婚した「おりょう」を歴女が徹底解説

よぉ、桜木健二だ、今回はおりょうを取り上げるぞ。坂本龍馬と結婚した女性だが、いったいどんな人だったのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新と女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

angelica

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治維新と女性史に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、おりょうについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、おりょうは京都の生まれ

お龍の実家 楢崎家跡石碑.jpg
KeraKera55投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

楢崎龍(ならざきりょう)は、天保12年(1841年)、青蓮院宮の侍医であった楢崎将作と母貞の長女として京都富小路六角付近の家で誕生。きょうだいは弟として、太一郎と健吉、妹が中沢光枝と菅野起美(すがのきみ、海援隊の菅野覚兵衛と結婚)。尚、おりょうの実父は西陣織の商人という養女説もあり。

1-2、おりょうの父

おりょうの父楢崎将作(ならざきしょうさく)は、文化10年(1813年)生まれの医師で、諱は貺(たまう)、字は大蔵、号は東崦、繁杏など。楢崎家は元長州藩士で、おりょうの曾祖父源八郎の代に除籍処分となり京都に上って柳馬場三条南で医業を開業し、祖父大造もその跡を継いで、将作も内科、外科医を開業、青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)の侍医も務めたためか、梁川星巌、頼三樹三郎ら尊王の志士たちと積極的に交流。そして安政5年(1858年)安政の大獄に連座して入獄、翌年釈放されるが、文久2年(1862年)に自宅で病死。

1-3、おりょう一家、父の死で困窮

父楢崎将作は名医だったので存命中は裕福で、おりょうは花道、香道、茶の湯などを嗜み、炊事は苦手なお嬢さんだったよう。しかし安政の大獄で父が捕らえられた後に病死後、おりょう一家の環境は一変、家具や衣類を売って生活をするなど困窮したあげく、母が悪いやつに騙され、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られるはめに。21歳のお龍は妹二人を取り返すため、着物を売ったお金で大坂へ行き、刃物を懐に抱えて男2人を相手に、殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだと、大立ち回りして妹を取り返したということ。

のちに龍馬はこの話を乙女姉さんへの手紙に「珍しきことなり」と書いたそう。

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ほう、ずいぶんしっかりした姉さんだったんだな

2-1、おりょう、坂本龍馬と出会う

image by PIXTA / 1324351

おりょうは京都の七条新地の旅館、扇岩で働くことになり、おりょうの母と妹たちも土佐藩の志士達の隠れ家として知られる河原屋五兵衛の隠居所で住み込みで働いたということで、龍馬とおりょうは、元治元年(1864年)頃、河原屋五兵衛の隠居所で出会ったと言われています。

後年、おりょうは、龍馬と初めて会ったとき、名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑ったと回顧したそう。ちょっと変わったところがあるが美人だったおりょうに惚れて「まことにおもしろき女」と評した龍馬は、おりょうの母貞に、嫁にしたいと申し入れ、土佐脱藩の坂本龍馬30歳、おりょう24歳は、この年の8月1日に、金蔵寺の住職智息院を仲人として内祝言をあげたということ。

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