今日は徳川政権について勉強していきます。幕府の歴史を辿ると源頼朝が開いた鎌倉幕府は約150年、足利尊氏が開いた室町幕府は約240年、徳川家康が開いた江戸幕府は約260年続いている。

つまり最も長く続いたのは江戸幕府ですが、徳川家はどのように政権を維持して、またどのように終焉を迎えたのでしょうか。そこで、今回は徳川政権について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から徳川政権をわかりやすくまとめた。

徳川政権の流れ1 ~天下統一と幕藩体制の確立~

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武家諸法度

1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康、江戸幕府を開いたのは1603年のことで、これは彼が征夷大将軍になった年でもあります。とは言え、この時点で徳川政権はまだ安泰ではなく、なぜなら豊臣秀吉亡き後も豊臣家は依然力を持っており、徳川家康にとってそれは疎ましい存在でした。

そこで、徳川家康は1605年に嫡男である徳川秀忠に将軍職を譲り、「江戸幕府は徳川家が代々引き継ぐ」と早々にアピール。その上で、自身も引退することなく大御所として政治に携わっていきます。そして1614年・1615年の大坂の陣の合戦にて豊臣家を滅亡させ、ここから徳川政権の体制が築かれていったのです。

徳川政権安定のためまず行ったのは武家諸法度の制定、特に関ヶ原の戦い以降に家臣となった外様大名には警戒を怠らず、各地の大名の反発・反乱を防ぐために大名に対する禁止事項を定めました。武家諸法度を発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、考案したのは徳川家康であり、徳川家康はこの時点で既に徳川家の永続的な政権維持を考えていたようです。

幕藩体制

徳川家康が征夷大将軍となった際、およそ260人の大名と主従関係を結んだとされていますが、その支配体制として幕藩体制を採用。徳川家が政権を握る幕府に対して、各地の大名が支配する領地を藩と呼び、徳川家はこの幕藩体制を中心とした政治を行っていきます。

この幕藩体制の基盤は第3代将軍・徳川家光までの代でほぼ完成しました。ただ一方で藩を収める大名(藩主)に対する制度は落ち着いておらず、そのため武家諸法度はほぼ将軍が代替わりするごとに改訂されています。そして、大きな改訂となったのが参勤交代の制度です。

江戸時代になると戦が減り、人々は平和で安定した暮らしができるようになってきました。日本がこのような情勢になるのは徳川家も望んでいたようですが、戦が減ることは家臣の忠誠心を確認しづらいことにもなり、そこで第3代将軍・徳川家光は参勤交代を実施します。

徳川政権の流れ2 ~参勤交代と享保の改革~

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参勤交代、対外政策、文治政治

参勤交代とは各藩の藩主が1年おきに江戸に勤めに行く制度で、1635年に武家諸法度の改定によって制定されました。参勤交代は発生する膨大な費用から、藩主の財産を減らして藩の軍事力を低下させるのが目的と言われてきましたが、実際には藩主の忠誠心を確認するのが最大の目的です。

また、第3代・徳川家光の代には後に鎖国と呼ばれる幕府の対外政策を発令しており、スペイン・ポルトガル人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止。この政策はここから200年以上続いていくのです。さて、第4代・徳川家綱の代になると政治の方向に変化が見られてきます。

徳川家は徳川家康が武力によって手に入れた政権、そのため政権の維持も武力による武断政治で進めてきました。しかし、それが多くの牢人を生んで治安悪化の問題を招いてしまい、そこで武力を重んじる武断政治から学問や教育を重んじる文治政治へと移行したのです。

享保の改革

文治政治への移行、それは武家諸法度にもしっかりと表れています。この文治政治の方針は第5代・徳川綱吉、第6代・徳川家宣、第7代・徳川家継と3代に渡って続いていきました。第8代・徳川吉宗の代になった頃、飢饉の影響などから幕府の経済状況は財政難に陥ってしまいます。

問題解決のためには大規模な改革が必要とされ、そこで徳川吉宗が行ったのが1716年の享保の改革です。江戸時代では江戸三大改革と呼ばれる大きな改革が行われていますが、その中で最初に行われたのがこの享保の改革。享保の改革は幕府の財政安定につながる成果を見せました。

ただ一方で農民の負担は大きくなってしまい、改革時に出された新たな法令も一時しのぎでしかありません。このため効果が見られたのは一時的なものであり、根本的な問題解決には至りませんでした。また、農民の負担が大きくなったことで一致や打ちこわしが頻発する事態となったのです。

徳川政権の流れ3 ~名を残した老中・田沼意次と松平定信~

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田沼意次の重商主義政策

徳川政権は文字どおり代々の徳川家の将軍が主役ですが、中には将軍以上に存在感を示した家臣もいて、その一人が田沼意次でしょう。田沼意次は第8代・徳川吉宗の享保の改革に対して密かに限界を感じており、これからの日本は米ではなく貨幣を経済の要にすべきと考えていました。

第9代・徳川家重の代に目をかけられた田沼意次は、第10代・徳川家治の代にはとうとう老中へと出世。幕府の財産赤字を食い止めるべく株仲間の結成・鉱山の開発・蝦夷地の開発計画など重商主義政策と呼ばれる数多くの幕政改革に取り組んでいきました。

まさに徳川家の将軍を超えるほどの手腕を見せる田沼意次、全盛となるその時代は田沼時代とも呼ばれます。最も、田沼意次が優先したのはあくまで幕政の利益であり、そのため幕府に評価される一方で大名や庶民からは反発され、また役人間での賄賂問題も頻発するようになりました。

松平定信の寛政の改革

田沼意次は批判が高まったことで失脚、これは幕政の利益だけを考えすぎたゆえの末路でしょう。第11代・徳川家斉は田沼意次を罷免(職務を辞めさせる)すると代わって松平定信を老中首座へと任命、松平定信は徳川御三家から推薦された人物で、徳川御三家とは江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家です。

松平定信もまた徳川政権において老中として名を残しており、江戸三大改革の二つ目となる寛政の改革を行いました。しかし、秩序を厳しくしたその改革は徳川家斉との対立も引き起こします。何しろ、徳川家斉は将軍職に就いた期間で40人の側室と50人以上の子供を作った人物、そこからうかがえる徳川家斉の性格は、厳格な松平定信とは明らかに合わなかったでしょう。

女性好きの徳川家斉は徳川政権の中でまさに異色、ただ肝心の政治能力は高くなく、無策な幕政は幕府体制の衰退にもつながっていきます。最も、一方で江戸の文化は完成期を迎え、化政文化の広まりで安藤広重の「東海道五十三次」や葛飾北斎の「富嶽三十六景」などの浮世絵が大流行した時期でもあるのです。

\次のページで「徳川政権の流れ4 ~天保の改革と開国~」を解説!/

徳川政権の流れ4 ~天保の改革と開国~

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天保の改革

第12代・徳川家慶の代になると日本が情勢が大きく変わります。まず江戸三大改革の最後となる天保の改革が行われ、これは老中・水野忠邦の元で進められていきましたが失敗。農村対策として人返し令を、物価対策として株仲間解散令を出しますが、どれも全くの逆効果となってしまいました。

1716年の享保の改革、1787年の寛政の改革、そして1841年の天保の改革江戸三大改革として覚えておかなければならないものです。さてその約10年後、日本の情勢を変えるきっかけとなった事件が起こります。それは1853年のペリーの黒船来航、第3代・徳川家光が発令した幕府の対外政策からおよそ200年経過した頃のことでした。

ここで本来先頭に立って対応すべきなのは第12代・徳川家慶ですが、ただその対応のさなかに熱中症によって倒れて死去、かわって将軍を引き継いだのが第13代・徳川家定です。しかし、徳川家定は生まれつきの虚弱体質だったため、幕府はこの時既に次期将軍を考えていました。

開国(対外政策の終わり)

病弱な理由からわずか5年で将軍を退いた徳川家定、そのためペリー来航においても政治的手腕を発揮する機会はほとんどなく、ペリー来航の翌1854年に日本は開国しました。徳川家定もまた存在感のない将軍かもしれません。一方で徳川家定よりも存在感を示したのが妻である篤姫、大河ドラマでもそのままのタイトルで主役になったほどの女性です。

最も、「徳川家定=病弱」のイメージが根付いていますが、もちろん体調の良い時期もあり、1854年の日本開国後、1857年にはアメリカのハリスを江戸城に呼び入れて対面しています。しかし、生まれつきの虚弱体質は克服できず、徳川家定は35歳の若さで死去してしまいました。

徳川家定の体調面から、彼が将軍職に就いた時点で既に「第14代将軍を誰にするか?」と議論されていましたが、ここで将軍継嗣問題が勃発、その末に選ばれたのは第14代・徳川家茂です。最も、開国をきっかけに幕府の信頼は低下しており、そのため徳川家茂も幕府の将軍としての威厳や権威はほとんどありませんでした。

徳川政権の流れ5 ~大政奉還と戊辰戦争~

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\次のページで「人々に芽生える倒幕の感情」を解説!/

人々に芽生える倒幕の感情

1603年に徳川家康が江戸幕府を成立させてからおよそ250年、幕末となる1854年の開国をきっかけに幕府の信頼は低下していきました。外国人が日本を訪れるようになったことで生まれた攘夷思想(外国人を追い払う思想)、さらに1858年にはアメリカのハリスと日米修好通商条約を締結させます。

この条約は日本にとって明らかな不平等条約、そのため日本人の外国人への敵対意識はより高まり、またそのような不平等条約を締結させた幕府に対しても怒りの矛先が向けられました。人々は幕府に限界を感じて、やがてその気持ちは「倒幕」という感情を芽生えさせたのです。

主従関係のために築いた幕藩体制はいつしか幕府以上に力を持つ藩も生まれ、薩摩藩や長州藩などの雄藩は武力による倒幕……すなわち討幕を志します。まさに幕末という時代が示すとおり幕府の末の時代、最後の将軍に任命されたのが第15代・徳川慶喜でした。

大政奉還と戊辰戦争

幕府に代わって朝廷を、将軍に代わって天皇を支持する人々、日本は朝廷の天皇による政治を望むようになります。最も、全盛の幕府ならそんな世論も武力で抑えられたかもしれませんが、今の幕府は張子の虎。ただ、徳川慶喜も黙って討幕の時を迎えるつもりはありません。

徳川慶喜には代々徳川家の将軍が培った政治のノウハウがあり、政治においては素人同然の天皇には負けない自信がありました。そこで徳川慶喜は力ではなく頭を使って政治の世界に残ることを画策、天皇の政治能力を判断して大政奉還を行いつつも政治に携わる道を選びます。

徳川慶喜の画策は半ば成功、しかしそれを望まない討幕派の策略によって1868年に戊辰戦争が勃発。徳川慶喜は未だ幕府を支持する旧幕府軍として新政府軍と戦いますが、旧幕府軍は敗北して幕府の時代に終わりを告げたのです。徳川慶喜が将軍を務めたのは、最短となるわずか1年足らずの期間でした。

「詳細」ではなく「流れ」を学ぶために活用しよう!

ここでの徳川政権の解説は、江戸幕府の流れを目的で参考にしてください。ここで解説したのは「流れ」であって「詳細」ではなく、例えば人物や事件の詳細を知る上では情報として不充分でしょう。

「徳川政権では代々誰が将軍になって何を行い、また何が起こったのか?」……こうした流れを掴むための解説であり、徳川政権と江戸幕府を振り返るまとめの仕上げとして活用してください。

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日本史歴史江戸時代

約260年の歴史を振り返る!「徳川政権」の流れを元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は徳川政権について勉強していきます。幕府の歴史を辿ると源頼朝が開いた鎌倉幕府は約150年、足利尊氏が開いた室町幕府は約240年、徳川家康が開いた江戸幕府は約260年続いている。

つまり最も長く続いたのは江戸幕府ですが、徳川家はどのように政権を維持して、またどのように終焉を迎えたのでしょうか。そこで、今回は徳川政権について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から徳川政権をわかりやすくまとめた。

徳川政権の流れ1 ~天下統一と幕藩体制の確立~

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武家諸法度

1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康、江戸幕府を開いたのは1603年のことで、これは彼が征夷大将軍になった年でもあります。とは言え、この時点で徳川政権はまだ安泰ではなく、なぜなら豊臣秀吉亡き後も豊臣家は依然力を持っており、徳川家康にとってそれは疎ましい存在でした。

そこで、徳川家康は1605年に嫡男である徳川秀忠に将軍職を譲り、「江戸幕府は徳川家が代々引き継ぐ」と早々にアピール。その上で、自身も引退することなく大御所として政治に携わっていきます。そして1614年・1615年の大坂の陣の合戦にて豊臣家を滅亡させ、ここから徳川政権の体制が築かれていったのです。

徳川政権安定のためまず行ったのは武家諸法度の制定、特に関ヶ原の戦い以降に家臣となった外様大名には警戒を怠らず、各地の大名の反発・反乱を防ぐために大名に対する禁止事項を定めました。武家諸法度を発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、考案したのは徳川家康であり、徳川家康はこの時点で既に徳川家の永続的な政権維持を考えていたようです。

幕藩体制

徳川家康が征夷大将軍となった際、およそ260人の大名と主従関係を結んだとされていますが、その支配体制として幕藩体制を採用。徳川家が政権を握る幕府に対して、各地の大名が支配する領地を藩と呼び、徳川家はこの幕藩体制を中心とした政治を行っていきます。

この幕藩体制の基盤は第3代将軍・徳川家光までの代でほぼ完成しました。ただ一方で藩を収める大名(藩主)に対する制度は落ち着いておらず、そのため武家諸法度はほぼ将軍が代替わりするごとに改訂されています。そして、大きな改訂となったのが参勤交代の制度です。

江戸時代になると戦が減り、人々は平和で安定した暮らしができるようになってきました。日本がこのような情勢になるのは徳川家も望んでいたようですが、戦が減ることは家臣の忠誠心を確認しづらいことにもなり、そこで第3代将軍・徳川家光は参勤交代を実施します。

徳川政権の流れ2 ~参勤交代と享保の改革~

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参勤交代、対外政策、文治政治

参勤交代とは各藩の藩主が1年おきに江戸に勤めに行く制度で、1635年に武家諸法度の改定によって制定されました。参勤交代は発生する膨大な費用から、藩主の財産を減らして藩の軍事力を低下させるのが目的と言われてきましたが、実際には藩主の忠誠心を確認するのが最大の目的です。

また、第3代・徳川家光の代には後に鎖国と呼ばれる幕府の対外政策を発令しており、スペイン・ポルトガル人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止。この政策はここから200年以上続いていくのです。さて、第4代・徳川家綱の代になると政治の方向に変化が見られてきます。

徳川家は徳川家康が武力によって手に入れた政権、そのため政権の維持も武力による武断政治で進めてきました。しかし、それが多くの牢人を生んで治安悪化の問題を招いてしまい、そこで武力を重んじる武断政治から学問や教育を重んじる文治政治へと移行したのです。

享保の改革

文治政治への移行、それは武家諸法度にもしっかりと表れています。この文治政治の方針は第5代・徳川綱吉、第6代・徳川家宣、第7代・徳川家継と3代に渡って続いていきました。第8代・徳川吉宗の代になった頃、飢饉の影響などから幕府の経済状況は財政難に陥ってしまいます。

問題解決のためには大規模な改革が必要とされ、そこで徳川吉宗が行ったのが1716年の享保の改革です。江戸時代では江戸三大改革と呼ばれる大きな改革が行われていますが、その中で最初に行われたのがこの享保の改革。享保の改革は幕府の財政安定につながる成果を見せました。

ただ一方で農民の負担は大きくなってしまい、改革時に出された新たな法令も一時しのぎでしかありません。このため効果が見られたのは一時的なものであり、根本的な問題解決には至りませんでした。また、農民の負担が大きくなったことで一致や打ちこわしが頻発する事態となったのです。

徳川政権の流れ3 ~名を残した老中・田沼意次と松平定信~

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田沼意次の重商主義政策

徳川政権は文字どおり代々の徳川家の将軍が主役ですが、中には将軍以上に存在感を示した家臣もいて、その一人が田沼意次でしょう。田沼意次は第8代・徳川吉宗の享保の改革に対して密かに限界を感じており、これからの日本は米ではなく貨幣を経済の要にすべきと考えていました。

第9代・徳川家重の代に目をかけられた田沼意次は、第10代・徳川家治の代にはとうとう老中へと出世。幕府の財産赤字を食い止めるべく株仲間の結成・鉱山の開発・蝦夷地の開発計画など重商主義政策と呼ばれる数多くの幕政改革に取り組んでいきました。

まさに徳川家の将軍を超えるほどの手腕を見せる田沼意次、全盛となるその時代は田沼時代とも呼ばれます。最も、田沼意次が優先したのはあくまで幕政の利益であり、そのため幕府に評価される一方で大名や庶民からは反発され、また役人間での賄賂問題も頻発するようになりました。

松平定信の寛政の改革

田沼意次は批判が高まったことで失脚、これは幕政の利益だけを考えすぎたゆえの末路でしょう。第11代・徳川家斉は田沼意次を罷免(職務を辞めさせる)すると代わって松平定信を老中首座へと任命、松平定信は徳川御三家から推薦された人物で、徳川御三家とは江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家です。

松平定信もまた徳川政権において老中として名を残しており、江戸三大改革の二つ目となる寛政の改革を行いました。しかし、秩序を厳しくしたその改革は徳川家斉との対立も引き起こします。何しろ、徳川家斉は将軍職に就いた期間で40人の側室と50人以上の子供を作った人物、そこからうかがえる徳川家斉の性格は、厳格な松平定信とは明らかに合わなかったでしょう。

女性好きの徳川家斉は徳川政権の中でまさに異色、ただ肝心の政治能力は高くなく、無策な幕政は幕府体制の衰退にもつながっていきます。最も、一方で江戸の文化は完成期を迎え、化政文化の広まりで安藤広重の「東海道五十三次」や葛飾北斎の「富嶽三十六景」などの浮世絵が大流行した時期でもあるのです。

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