つまり最も長く続いたのは江戸幕府ですが、徳川家はどのように政権を維持して、またどのように終焉を迎えたのでしょうか。そこで、今回は徳川政権について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から徳川政権をわかりやすくまとめた。
武家諸法度
1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康、江戸幕府を開いたのは1603年のことで、これは彼が征夷大将軍になった年でもあります。とは言え、この時点で徳川政権はまだ安泰ではなく、なぜなら豊臣秀吉亡き後も豊臣家は依然力を持っており、徳川家康にとってそれは疎ましい存在でした。
そこで、徳川家康は1605年に嫡男である徳川秀忠に将軍職を譲り、「江戸幕府は徳川家が代々引き継ぐ」と早々にアピール。その上で、自身も引退することなく大御所として政治に携わっていきます。そして1614年・1615年の大坂の陣の合戦にて豊臣家を滅亡させ、ここから徳川政権の体制が築かれていったのです。
徳川政権安定のためまず行ったのは武家諸法度の制定、特に関ヶ原の戦い以降に家臣となった外様大名には警戒を怠らず、各地の大名の反発・反乱を防ぐために大名に対する禁止事項を定めました。武家諸法度を発令したのは第2代将軍・徳川秀忠ですが、考案したのは徳川家康であり、徳川家康はこの時点で既に徳川家の永続的な政権維持を考えていたようです。
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幕藩体制
徳川家康が征夷大将軍となった際、およそ260人の大名と主従関係を結んだとされていますが、その支配体制として幕藩体制を採用。徳川家が政権を握る幕府に対して、各地の大名が支配する領地を藩と呼び、徳川家はこの幕藩体制を中心とした政治を行っていきます。
この幕藩体制の基盤は第3代将軍・徳川家光までの代でほぼ完成しました。ただ一方で藩を収める大名(藩主)に対する制度は落ち着いておらず、そのため武家諸法度はほぼ将軍が代替わりするごとに改訂されています。そして、大きな改訂となったのが参勤交代の制度です。
江戸時代になると戦が減り、人々は平和で安定した暮らしができるようになってきました。日本がこのような情勢になるのは徳川家も望んでいたようですが、戦が減ることは家臣の忠誠心を確認しづらいことにもなり、そこで第3代将軍・徳川家光は参勤交代を実施します。
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参勤交代、対外政策、文治政治
参勤交代とは各藩の藩主が1年おきに江戸に勤めに行く制度で、1635年に武家諸法度の改定によって制定されました。参勤交代は発生する膨大な費用から、藩主の財産を減らして藩の軍事力を低下させるのが目的と言われてきましたが、実際には藩主の忠誠心を確認するのが最大の目的です。
また、第3代・徳川家光の代には後に鎖国と呼ばれる幕府の対外政策を発令しており、スペイン・ポルトガル人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止。この政策はここから200年以上続いていくのです。さて、第4代・徳川家綱の代になると政治の方向に変化が見られてきます。
徳川家は徳川家康が武力によって手に入れた政権、そのため政権の維持も武力による武断政治で進めてきました。しかし、それが多くの牢人を生んで治安悪化の問題を招いてしまい、そこで武力を重んじる武断政治から学問や教育を重んじる文治政治へと移行したのです。
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享保の改革
文治政治への移行、それは武家諸法度にもしっかりと表れています。この文治政治の方針は第5代・徳川綱吉、第6代・徳川家宣、第7代・徳川家継と3代に渡って続いていきました。第8代・徳川吉宗の代になった頃、飢饉の影響などから幕府の経済状況は財政難に陥ってしまいます。
問題解決のためには大規模な改革が必要とされ、そこで徳川吉宗が行ったのが1716年の享保の改革です。江戸時代では江戸三大改革と呼ばれる大きな改革が行われていますが、その中で最初に行われたのがこの享保の改革。享保の改革は幕府の財政安定につながる成果を見せました。
ただ一方で農民の負担は大きくなってしまい、改革時に出された新たな法令も一時しのぎでしかありません。このため効果が見られたのは一時的なものであり、根本的な問題解決には至りませんでした。また、農民の負担が大きくなったことで一致や打ちこわしが頻発する事態となったのです。
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田沼意次の重商主義政策
徳川政権は文字どおり代々の徳川家の将軍が主役ですが、中には将軍以上に存在感を示した家臣もいて、その一人が田沼意次でしょう。田沼意次は第8代・徳川吉宗の享保の改革に対して密かに限界を感じており、これからの日本は米ではなく貨幣を経済の要にすべきと考えていました。
第9代・徳川家重の代に目をかけられた田沼意次は、第10代・徳川家治の代にはとうとう老中へと出世。幕府の財産赤字を食い止めるべく株仲間の結成・鉱山の開発・蝦夷地の開発計画など重商主義政策と呼ばれる数多くの幕政改革に取り組んでいきました。
まさに徳川家の将軍を超えるほどの手腕を見せる田沼意次、全盛となるその時代は田沼時代とも呼ばれます。最も、田沼意次が優先したのはあくまで幕政の利益であり、そのため幕府に評価される一方で大名や庶民からは反発され、また役人間での賄賂問題も頻発するようになりました。
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松平定信の寛政の改革
田沼意次は批判が高まったことで失脚、これは幕政の利益だけを考えすぎたゆえの末路でしょう。第11代・徳川家斉は田沼意次を罷免(職務を辞めさせる)すると代わって松平定信を老中首座へと任命、松平定信は徳川御三家から推薦された人物で、徳川御三家とは江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家です。
松平定信もまた徳川政権において老中として名を残しており、江戸三大改革の二つ目となる寛政の改革を行いました。しかし、秩序を厳しくしたその改革は徳川家斉との対立も引き起こします。何しろ、徳川家斉は将軍職に就いた期間で40人の側室と50人以上の子供を作った人物、そこからうかがえる徳川家斉の性格は、厳格な松平定信とは明らかに合わなかったでしょう。
女性好きの徳川家斉は徳川政権の中でまさに異色、ただ肝心の政治能力は高くなく、無策な幕政は幕府体制の衰退にもつながっていきます。最も、一方で江戸の文化は完成期を迎え、化政文化の広まりで安藤広重の「東海道五十三次」や葛飾北斎の「富嶽三十六景」などの浮世絵が大流行した時期でもあるのです。
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