今回は稲姫(小松殿)を取り上げるぞ。真田信之と結婚したしっかりした美人だったよな、いったいどんな女性なのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代や女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国武将と戦国女性にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、稲姫(小松殿)について5分でわかるようにまとめた。

1-1、稲姫(小松殿)は、本多家の生まれ

稲姫(小松殿)(いねひめ、こまつどの)は、天正元年(1573年)に父本多忠勝と側室の松平玄鉄の娘との間の長女として誕生。父忠勝の第1子で、幼名は於子亥(おねい)、稲姫(いなひめ)、弟妹は、もり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝ら。

1-2、稲姫の生まれた本多家とは

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不明。 unknown - 良玄寺所蔵品。現在は千葉県立中央博物館大多喜城分館にある。, パブリック・ドメイン, リンクによる

稲姫(小松殿)の本多家は、松平家、のちの徳川家の三河以来の譜代の家臣。父の平八郎忠勝は永禄3年(1560年)の大高城の戦いが初陣、以後の姉川の合戦、長篠の合戦、小牧長久手の合戦などで次々と武功を挙げて、酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並んで徳川四天王と言われた徳川家康の側近中の側近。本多氏は、忠勝の父忠高、叔父忠真、祖父忠豊が討死するなど武門の家系。

忠勝は生涯に参加した合戦は大小合わせて57回、しかもかすり傷一つ負わなかったとか、配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」という名指揮ぶりだったとか、一言坂の戦いでは殿軍(しんがり)をつとめたが、敵方の武田軍の小杉左近に「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と、狂歌の落書で賞賛された有名な話も(唐の頭は当時徳川家で流行していた兜などの飾り物)。そして織田信長は武田征伐後に、忠勝を花も実も兼ね備えた武将だと侍臣に紹介、豊臣秀吉は、日本第一、古今独歩の勇士と称したというすごい武将。

1-3、稲姫(小松殿)は家康の近い親戚

そういうわけで、稲姫(小松殿)の父本多忠勝は、徳川家康にとって特に大事な家臣として、親戚にしてしまったのですね。稲姫(小松殿)殿の妹もり姫の結婚相手の奥平家昌は、家康の娘亀姫の息子だし、弟の本多忠政は家康の孫熊姫(岡崎信康と信長の娘徳姫の娘)と結婚して、生まれた長男忠刻(家康と信長の曾孫)は家康の孫千姫と結婚、忠政は姫路城主にといった具合で、本多家は徳川譜代ではあるが一門扱い。

\次のページで「2-1、稲姫(小松殿)、真田昌幸の嫡男と結婚の経過は」を解説!/

2-1、稲姫(小松殿)、真田昌幸の嫡男と結婚の経過は

稲姫(小松殿)の夫真田信幸(のちに信之と改名)は、有名な真田昌幸の嫡男。真田家はもともと甲斐の国の武田家の武将で、武田家滅亡の後、天正10年4月、昌幸は旧領を安堵をされて織田政権に組み込まれて、織田氏の重臣滝川一益の与力武将となったが、3ヶ月後に本能寺の変で信長が横死。

甲斐信濃の旧武田領はこの事変で騒然となり、旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走、甲斐信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害されたため、旧武田領は徳川家康、上杉景勝、北条氏直らの熾烈な争奪戦(天正壬午の乱)に。

そして天正10年(1582年)10月末、徳川と北条同盟の成立で天正壬午の乱が終結した後に、信濃の沼田領(吾妻、利根郡)の引き渡し問題や、天正13年(1585年)閏8月の第一次上田合戦、天正14年(1586年)7月の真田征伐などで、徳川家康と真田昌幸は対立抗争中でしたが、天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉の命によって真田昌幸を家康の与力大名とすることで決着。

それで真田家の軍略に惚れた本多平八郎忠勝が、徳川方に真田家を取り込むためにと、家康に自分の娘の稲姫(小松殿)を嫁がせることを提案、家康も真田信幸の才能を高く評価していたために信幸を駿府城に出仕させ、稲姫(小松殿)を家康の養女としたうえで結婚させることに。これは両家の関係を緊密にする狙いの政略結婚であり、秀吉の意向であった可能性も大きいということ。

また、真田昌幸は信幸にはすでに昌幸兄の娘で信幸には従妹にあたる正室がいたために、最初この縁談を断ったが、家康の養女として嫁がせるといわれ、断り切れなくなったそう。

2-2、真田家の事情

稲姫(小松殿)が結婚する前、すでに真田信幸(信之)の正室だった清音院殿は、実名は不明で、父は真田昌幸の長兄真田信綱、母は於キタ。父信綱は39歳で天正3年(1575年)に長篠の戦いで戦死、真田家は武藤家を継いでいた信綱の末弟昌幸が継承することに。

そして当時の主君だった武田勝頼によって、信綱の娘と昌幸の跡継ぎである信之と結婚が指示されたということ。清音院殿は、文禄4年(1595年)に信幸(信之)の長男信吉を生んだ以外のことはわからないそう。そして稲姫(小松殿)と信之との結婚後は、正室だったはずの清音院殿は「家女」とされて側室扱いとなり、その後の真田家の系図では長男信吉の生母は稲姫(小松殿)とされるなど存在が薄くなり、真田家の家記「真田家御事蹟稿」にも伝記がないそう。元和5年(1619年)9月25日に死去、戒名は清音院殿徳誉円寿大姉だが墓所は不明ということ。

2-3、結婚の時期

稲姫(小松殿)と真田信幸との結婚の時期については、本多氏の系図「参考御系伝」などでは秀吉の仲介で、天正14年(1586年)に、「甲陽軍鑑」では天正11年(1583年)、「沼田日記」は天正16年(1588年)と諸説あり。

尚、信幸(信之)は2女3男の子供をもうけたが、稲姫(小松殿)の子供は長女まん(高力忠房室)、次女まさ(佐久間勝宗室)、次男信政、3男信重ということ。

2-4、真田信幸、沼田城主に、そして関が原へ

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天正18年(1590年)、信幸は小田原征伐の上野松井田城攻めで戦功をあげて、戦後、沼田領が真田家の所領として確定され沼田城主に。

そして慶長5年(1600年)、五奉行の石田三成が挙兵し、関ケ原の戦い直前に下野の犬伏で、昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)が真田家のこれからを話し合ったということ。信幸の父昌幸は、妻で信幸と信繁の母である山手殿が石田三成の妻と姉妹という説があり、弟の信繁は妻が大谷吉継の娘のため西軍に付くことに。そして信幸は、稲姫(小松殿)が家康の養女で徳川重臣である本多忠勝の娘であるために東軍に参加。信幸と稲姫(小松殿)の弟本多忠政が昌幸らの翻意にあたったが、失敗に。

戦後、信幸は、昌幸の旧領に加えて9万5000石の上田藩主となったが、上田城は破却され沼田城を本拠に。そして信幸は父昌幸らの助命を家康に嘆願して、父との決別のために信幸から信之に改名。助命嘆願には稲姫(小松殿)とその父本多忠勝も家康に働きかけたということで、昌幸らは紀伊国九度山へ流罪決定。

信幸と稲姫(小松殿)は、九度山の昌幸や信繁に援助を送り続けたということで、昌幸から信幸の家臣宛ての手紙には、稲姫(小松殿)からの手紙への礼を述べているなど、稲姫(小松殿)からも昌幸を気遣うやりとりがあったということ。

3-1、稲姫(小松殿)の逸話

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不明 - 『決定版 図説 戦国女性と暮らし』 学習研究社、2011年、127頁, パブリック・ドメイン, リンクによる

稲姫(小松殿)は、江戸幕府初代将軍となった父の主君で養父である徳川家康、2代将軍の徳川秀忠に対しても直に意見を述べたり、弟の本多忠政、本多忠朝が戦地から帰還した際に忠節を讃えるようなしっかりした女性だったそうで、小松姫の遺品には「史記」の「鴻門の会」の場面を描いた勇壮な枕屏風があることから、勇気のある男勝りで才色兼備の女性だったのではということ。

事実かどうか不明ながら、稲姫(小松殿)の色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、稲姫(小松殿)の婿選び

稲姫(小松殿)が適齢期になったとき、徳川家康が稲姫(小松殿)が気に入った婿を選べということで、若武者を大広間に集めて平伏させ、稲姫(小松殿)がひとりひとりの髷をつかんで顔を覗き込んだということ。家康同席の上なので、男子たちも黙って稲姫(小松殿)のされるままだったが、真田信幸だけが鉄扇子で稲姫(小松殿)を払いのけたため、稲姫(小松殿)のハートをとらえたという話。

しかし稲姫(小松殿)が選ぶというより政略結婚のはずで、いかに稲姫(小松殿)が気の強い女性でも、無遠慮に若武者の髷をつかむところが想像できないので、いかにも作り話的な感じがします。

3-3、沼田城で舅昌幸を門前祓い

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慶長5年(1600年)、秀吉の没後に五奉行の石田三成が挙兵すると、夫の信幸(信之)は家康の東軍に付き、舅昌幸と義弟信繁(幸村)は、三成の率いる西軍に。そして袂を分けた昌幸、信繁父子が居城の上田城に戻る際に、信幸(信之)の沼田城に立ち寄り、孫に会いたいと口実にして城に入ろうとした(もちろん、すきあらば乗っ取るつもり)が、留守を預かっていた稲姫(小松殿)が昌幸の計略を見抜いて開門を拒んで昌幸らを門前祓いしてしまったが、その後、城下の正覚寺に宿営した昌幸たちの元へ孫たちを連れて会いに行ったという話は有名。

昌幸はこの稲姫(小松殿)の対応に怒るどころか、さすが本多忠勝の娘だ、稲姫(小松殿)がいる限り真田家は安泰と喜んだということ。真田氏の家記「滋野世記」「御家書留書」「真田御武功記」「沼田記」「出浦助昌家記」などに、この沼田城の留守を守った逸話が記されているのですが、このとき、稲姫(小松殿)が沼田に居たのかどうか、豊臣政権下の大名の妻子は大坂屋敷にいたのでは、創作ではないかという話もあるそう。

しかし、家康が目の上のこぶのように思い、実際、秀忠は関が原に間に合わず煮え湯を飲まされた真田家、いくらでもインネンをつけて取りつぶすことも出来たのにそうしなかったのは、このエピソードがあればこそなので、作り話ではないと思うのですが。

\次のページで「3-4、大坂の陣に初陣した息子たちには」を解説!/

3-4、大坂の陣に初陣した息子たちには

慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)の大坂の陣では、病気療養中の信幸(信之)に代わって、長男信吉と次男信政が稲姫(小松殿)の弟である本多忠朝軍の指揮下で出陣。稲姫(小松殿)は、その際、息子たちに従って出陣した重臣に宛てて息子は若いので、よく補佐をしてほしいという内容の手紙を送ったということ。

また戦後、無事で帰ってきた息子たちに、一人くらい討ち死にすれば徳川家に対するわが家の忠誠が示せたのにと言ったという話もあるそうですが、まるで本多忠勝の女性版みたいなコメントではないかと。

4-1、晩年の稲姫(小松殿)

稲姫(小松殿)は、晩年は江戸屋敷に住んでいたということで、元和6年(1620年)春に病気となったために、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣で48歳で死去。墓は3か所の寺に分骨され、夫信幸は小松姫の死を、わが家の灯火が消えたと嘆いたということで、小松姫の菩提を弔うために上田城下に大英寺を建立、その後、松代藩へ移封時に、寛永元年(1624年)に大英寺も松代城の城下(長野県長野市松代町松代)に移築したということ。現在の大英寺本堂は創建当時、小松姫の御霊屋だったもので、昭和41年(1966年)に長野県の文化財に指定。

4-2、長命だった信幸

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不明。 - 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

稲姫(小松殿)の死後も信幸は長生きしたが、病気がちなのになかなか隠居をさせてもらえず、明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男熊之助に先立たれていたため、次男の信政に家督を譲り隠居。

しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去したため、真田家に後継者争いが勃発。信幸の長男信吉の次男である沼田城主信利が、次男信政の6男幸道の相続に異議を唱え幕府に訴え、幕府、縁戚の大名を巻き込んでの騒動になったが、最終的に2歳の幸道が3代藩主に就任し、93歳の信幸が現役復帰して藩政を執ったが、10月に死去。またこの騒動により信利は沼田藩として独立、松代藩は10万石になったということ。真田家は江戸時代を通じて存続し、真田家は明治には子爵に。

凛とした強く美しい女大将として語り継がれた女性

稲姫(小松殿)は、徳川家康の家臣で武門の誉れ高い本多平八郎忠勝の娘として生まれ、ゲリラ戦を得意とし徳川家康を悩ませた智将真田昌幸の長男で家康の信頼篤い信幸と政略結婚した女性。

関ケ原の合戦のとき、舅の昌幸は、長男が本多家の娘と結婚、次男信繁(幸村)が大谷吉継の娘と結婚しているため、東西に分かれてどちらが勝っても真田家は存続するという方法をとった世渡り上手な策士。そして何気に孫に合わせてと長男信幸の城を守る稲姫(小松殿)を訪ねたが、稲姫(小松殿)は城門を開けず武装して追い返し、その後に城下の寺に孫たちを連れて行った話は、さすが本多平八郎の娘と言われ、真田昌幸がわずかの兵で徳川秀忠を手こずらせて関が原の合戦に遅刻させた話と合わせて語り草になるほど。

また関が原の敗戦後、稲姫(小松殿)は父本多忠勝共々に家康に命乞いを願ったせいか渋々叶えられ、昌幸、信繁の流刑先に援助をし続けたということなど、真田家を支えた女性として勇敢な行為とやさしい心配りの両面で忘れられない存在でありましょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

本多忠勝の娘で真田信之夫人「稲姫(小松殿)」を歴女がわかりやすく解説

今回は稲姫(小松殿)を取り上げるぞ。真田信之と結婚したしっかりした美人だったよな、いったいどんな女性なのか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代や女性史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国武将と戦国女性にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、稲姫(小松殿)について5分でわかるようにまとめた。

1-1、稲姫(小松殿)は、本多家の生まれ

稲姫(小松殿)(いねひめ、こまつどの)は、天正元年(1573年)に父本多忠勝と側室の松平玄鉄の娘との間の長女として誕生。父忠勝の第1子で、幼名は於子亥(おねい)、稲姫(いなひめ)、弟妹は、もり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝ら。

1-2、稲姫の生まれた本多家とは

Honda Tadakatu.jpg
不明。 unknown – 良玄寺所蔵品。現在は千葉県立中央博物館大多喜城分館にある。, パブリック・ドメイン, リンクによる

稲姫(小松殿)の本多家は、松平家、のちの徳川家の三河以来の譜代の家臣。父の平八郎忠勝は永禄3年(1560年)の大高城の戦いが初陣、以後の姉川の合戦、長篠の合戦、小牧長久手の合戦などで次々と武功を挙げて、酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並んで徳川四天王と言われた徳川家康の側近中の側近。本多氏は、忠勝の父忠高、叔父忠真、祖父忠豊が討死するなど武門の家系。

忠勝は生涯に参加した合戦は大小合わせて57回、しかもかすり傷一つ負わなかったとか、配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」という名指揮ぶりだったとか、一言坂の戦いでは殿軍(しんがり)をつとめたが、敵方の武田軍の小杉左近に「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と、狂歌の落書で賞賛された有名な話も(唐の頭は当時徳川家で流行していた兜などの飾り物)。そして織田信長は武田征伐後に、忠勝を花も実も兼ね備えた武将だと侍臣に紹介、豊臣秀吉は、日本第一、古今独歩の勇士と称したというすごい武将。

1-3、稲姫(小松殿)は家康の近い親戚

そういうわけで、稲姫(小松殿)の父本多忠勝は、徳川家康にとって特に大事な家臣として、親戚にしてしまったのですね。稲姫(小松殿)殿の妹もり姫の結婚相手の奥平家昌は、家康の娘亀姫の息子だし、弟の本多忠政は家康の孫熊姫(岡崎信康と信長の娘徳姫の娘)と結婚して、生まれた長男忠刻(家康と信長の曾孫)は家康の孫千姫と結婚、忠政は姫路城主にといった具合で、本多家は徳川譜代ではあるが一門扱い。

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