
明智光秀に起こった想定外の出来事
明智光秀の本能寺の変は成功、織田信長を倒すことで自らが代わって天下統一できると思ったかもしれません。しかし天下統一への道は甘くなく、一人の武将の裏切りによる襲撃で簡単に手に入るものではなかったのでしょう。織田信長は死亡しましたが、明智光秀には想定外の問題が多々起こりました。
まず、織田信長と織田信忠の遺体を発見できなかったこと。織田信長討伐成功の証拠を示すため、明智光秀はどうしても遺体を回収する必要がありました。しかし、それを発見できなかった明智光秀は織田信長討伐を信用してもらえず、家臣となる者はほとんどいませんでした。
城内の財宝を皇族にも分けたことで朝廷から京都の治安維持を任されるまでは良かったものの、各地の武将宛に書いて手紙はほとんど無視されてしまい、勢力拡大には至らなかったのです。明智光秀が怖れたのは報復、各地で戦いを繰り広げる織田信長の家臣が戻れば当然報復してきますから、その時に戦えるだけの兵力が欲しかったのでしょう。
山崎の戦い
最も、織田信長の家臣がいるとは言え、明智光秀はそれほど焦っていませんでした。何しろ、家臣達は各地に散らばっていて敵の大名との戦闘の真っ最中、京都に戻ってくるにしても時間がかかり、それまでには兵力を整えられると想定していたのです。
ところが、そんな想定を覆すほど迅速に行動した家臣がいました。その家臣とは羽柴秀吉、本能寺の変と織田信長自害の知らせを聞いた彼は、戦闘中の毛利家と講和してしまい、中国地方からわずか13日ほどで尼崎まで辿り着きます。羽柴秀吉は、京都まで65キロの距離にまで迫ってきたのです。
羽柴秀吉は主である織田信長の仇を討つため、明智光秀と合戦を引き起こします。それが1582年の山崎の戦いで、充分な兵力を整えられなかった明智光秀はこの戦いによって死亡、織田信長を倒して天下統一を果たしたものの、それはわずか数日の栄光でしかありませんでした。
最も信憑性が高いとされる怨恨説
本能寺の変における最大の謎とされているのが、織田信長の味方だった明智光秀が謀反を起こした動機です。確かに、一旦は中国地方に向かった明智光秀が突如進路を変えて本能寺に向かうのは不自然でもあり、その真相を解明するため現代においても未だ多くの諸説があります。
そんな諸説の一部を紹介すると、最も信憑性が高く有力とされているのが怨恨説です。例えば安土城にて徳川家康を接待した際、織田信長が明智光秀の不手際を厳しく叱責したとされていて、こうした恨みの積み重なりによって謀反を起こすに至ったとされています。
また、武田家を討伐した際の何気ない一言が織田信長を怒らせたというエピソードも有名ですね。とは言え、明智光秀が織田信長を恨むきっかけとなったこのような出来事はいずれも江戸時代に物語として書かれた言わば制作物。根拠のある史料ではないため、怨恨説が正しいとは言い切れないでしょう。
天下統一を狙う明智光秀の野望説
さらに諸説として挙げられているのが野望説。明智光秀は織田信長の家臣ですが、その中でも重臣であったため地位は他の家臣に比べて高く、実際に同盟などによって有力な武将との関係も築いていました。このような武将の存在は、いざという時に協力してくれる頼れる味方がいることになりますね。
ですから、明智光秀は天下統一のタイミングと見て謀反を起こし、本能寺に向かったとされています。しかしこれについても根拠はなく、それどころか各地の武将に手紙を送った時に相手にされていないことから、この諸説もやはり的を得ているとは言い難いでしょう。
これ以外にも「朝廷が明智光秀に織田信長討伐を命じた」や「羽柴秀吉や徳川家康が絡んでいる」など、本能寺の変と織田信長の死に関しては様々な諸説や陰謀論が挙げられています。もちろん諸説の類が出題されることはないですが、歴史に興味を持って楽しむための読み物としてはおすすめです。
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